2017.03.04更新
「もう藤袴が咲いたのね……」
独りでさみしく過ごした夏の終わりを告げたのは――
さながら線香花火のように儚い……淡くて小さな紫色。
盛夏の宵、旧暦の七夕祭りにて、揃いの青い短冊のお守りに託した強い想い。
――どうかご無事でいてください。
こうして秋を迎えても、少しも変わらずにヒナタの心に在った。
暦が流れゆくのを指折り数え続ける。いつまでも会えない日々に嫌気がさす。
いつしかこんなにも大きくなった彼の存在は、短かった髪が伸びるに従って、どんどん濃く色づいていったような気がする。
そう、今ではもう何色にも染まらないくらい……。
時間の許す限り傍にいてほしい。
辛いときはすぐに駆けつけてほしい。
――里に帰ったら一番に会いにきてほしい。
絶えず溢れ出す感情に、名前をつけることはまだできないのだけれども、ネジに、心を深く占有されているのは確かだった。
すれ違いばかりの日々、ヒナタが帰ればネジはおらず、ネジが帰ればヒナタはおらず、いつまでも顔を合わせられずにいる。揃いのお守りを握りしめ、静かに無事を祈ることでしか、平静を保つことができなかった。
そんな折のことだった。任務から帰って自宅を目指していたら、ネジと同じ班のリーとテンテンが里を歩いていたので、一緒に帰ってきたのかと嬉しくなって、すぐさま声を掛けた。
「リーさん、テンテンさんも……お帰りなさい。今回も任務お疲れさまでした。ネジ兄さんも一緒に帰ってこられたのですか?」
明るい二人がどことなく言いにくそうに言うのは、
「ヒナタさんこんにちは! えっとですね……ネジはそのまま単独の任務に出てしまいました。ついさっきまではここにいたんですが。次に帰ってくるのは先になりそうです……」
「残念……でも、ヒナタが迎えてくれるなんてあいつも幸せ者ね」
聞きたいようで聞きたくなかったことだった。が、少しの差で入れ違いになってしまったことを悔いても、もうどうすることもできない。
ここからまた、カレンダーとにらめっこする日々がはじまるだけだ。
「……兄さんに会ったら、『無理しないでください』と伝えていただけますか?」
「ええ、もちろんですよ! ずいぶん疲れている様子だったので、きっと喜びます」
「……! お疲れだったのですか……?」
「もう! リー、ヒナタに余計な心配かけない! ……あいつは強いから大丈夫よ。それはヒナタが一番分かってるでしょう?」
「はい、そうですね……」
「そんな顔しないの」
「ボボボボクとしたことがすみません! そうです! ネジに限って心配ないです。大丈夫ですよ」
「ふふ、そんなにひどい顔になっていましたか? 何だかすみません……。お二人もいつも高度な任務にばかり出られて、あまりご無理なさらないでくださいね」
ヒナタは本音を見抜かれてしまった自分を恥じて、無理な笑顔を貼りつけた。
*
胸騒ぎがしたのは――ある日の早朝、空が白み始めた頃だった。初秋の涼やかな風がますます勢いを増し、かわいた音色を奏でる朝。
……深夜、任務から帰って疲れて寝ていたはずが、急に目が覚めたのだ。
ヒナタは布団から起き上がると、肩に羽織を掛け、障子窓を細く開けた。すると……。巻物を咥えた伝書鳥が、大きく羽ばたいてくるのが見て取れた。それも尋常でないスピードである。
言いようのない不安を覚えていたら、どうやらその空からの使者はまっすぐこちらへ向かってきているようで、ぐんぐん寄ってくる。まさかとは思ったが、念のため窓を全開にした。
しかして、案の定ヒナタのところへ来た彼は、小さめの巻物を落とすと、瞬く間に飛び去っていった。
何やら嫌な予感がする。細かな手の震えもそのままに、どうにかして指をすべらせた。
……そこに記してあった事実に、慄然とした寒心を覚えた。
――日向ネジ様の親族の方へ
身寄りがないようですので此方へお便りいたしました。意識不明の彼を、滝隠れの里の病院で預かっています。
現在、大変危ない状態です。すぐにいらしてください。
なお、火影様にも同様の連絡を入れておりますが、如何せん余談を許さない状況ゆえ、近しい方にお越し頂きたく存じます。なるべく急いでいらしてください。
目にした直後、寝起きで気怠かった体が勝手に動き出していた――。昨夜脱いだばかりの任務服の替えを纏い、青いお守りを掴むと……取るものも取り敢えず、勢いよく屋敷を飛び出したのだった。
「何で……? 兄さんが……!」
静かな住宅地を越えて、商店街を走り抜ける。無人の橋を越え、あうんの門をくぐり……まだ夜も明けきらぬ薄暗い森を急いだ。
いつの間にか腰まで伸びた長い髪を靡かせて、掌の短冊に痛切なる祈りをこめながら、全速で指定の場所へと向かった。
それにしても、「身寄りがない」という言葉が殊のほか深く突き刺さる。
そう……ネジには家族がいないのだ。決して忘れていたわけではないが、実の兄のように接してくれていた彼に甘えて、後ろ暗い過去から長らく目を逸らし続けていた。
ネジの父・かつて分家の頭だった日向ヒザシの命を奪ったのは、他でもない。ヒナタの属する日向宗家の、冷酷の極みともいえる所業に起因している。思えば、数年前までネジにはひどい敵意を向けられていた。いつからか、叔父が存命だった頃のようにやさしく接してくれるようになったのだが、改めて考えれば、別段本意ではなかったのかもしれない。宗家に抗ったところで無駄だと悟り、求めるのをやめてしまったのかもしれない。
最後に会ったとき、至極穏やかな笑顔を向けてくれたのは――彼がヒナタの前で笑うのは、奇跡ともいえることだったのだ。
なぜもっと大切にできなかったのだろう? ……愚かな自分が心底嫌になる。
畢竟、忍の世界とは往々にして残酷なものだ。
今以て恨むでもないが、孤独にも懸命に駆けてきた彼の幸せを願うのは、可笑しなことなのだろうか?
一族の不条理に突き落とされた彼は、こんなとき、そのきっかけを作った宗家のヒナタに、無事を案じてほしいなどと望むだろうか? たとえ迷惑に思われたとしても、自分が行きたいから行くのだが……。
身寄りがない。だから、止むを得ず従妹の自分が呼ばれたとはいえ、一番に候補に挙がったことを喜んでしまうあたり、その存在に、どれほど侵されていたのかを痛感する。
もはやそれも今さらなのかもしれないけれど――
落ち葉を巻き上げる秋風を、ことさら鬱陶しく感じる。
何度も抜けたこの森を、これほど憎らしく思ったことは一度もなかった。北へ北へ突っ切ってゆけば、火ノ国の国境から程なくして、滝隠れの病院まで辿り着けるはず。
視界を過ぎゆく無機質な情景をもどかしく思いながら、これ以上ないくらい息を切らして走った。
絶えず鳴り響く滝の音……病院に着く頃には、秋空は真っ青に明転していた。
木ノ葉に比べてずいぶん簡素な建物に些か心配になったが、やわらかな物腰の医療従事者の対応にわずかに安心したのも束の間、案内された病室で見たネジの姿に、
「……っ兄さん……! 何でこんな無茶したの!」
……心が、崩れゆくかのような戦慄を覚えた。
「何で? 何であんなに強い兄さんが、こんな怪我……!」
すっかり逞しくなった胸が深紅に染まり――
それに反して酸素マスクに覆われた青白い顔には、かすかな生気も感じられなかったのだ。
……その傍らには、血の赤によって紫に染まった青いお守りが、ひどく傷つけられた状態で置いてあった。
すぐさま駆け寄って手に取ると、
「ネジさんは火ノ国との国境の警備に就かれていました。どこかの抜け忍か新手の犯罪組織かは分かりませんが、敵に背後から胸を貫かれたようで……。発見されたとき、そのお守りを大切そうに握りしめていたようです。指を解いて取り出すのに、すごく苦労したと聞きました」
瞬時に胸を壊す事実に――溢れ出す涙の音を、静かに、ただ静かに聴いていることしかできなかった。
*
ネジの着替えを用意してほしいとの依頼があったので、すぐに街へ出ることにした。
ところが財布を取り出そうと上着のポケットを探ると……自分でもまったく入れた覚えのないものが出てきた。無意識に掴んだのであろう桜色の巾着――そこには、いつしか半分以下に減った、甘いどんぐり飴が入っている。
会えなくて寂しくなるたび口にしていたもの。
……もうこんなにも少なくなっていたなんて。
窓の外は、相も変わらず滝の音。心が洗われるような、乱されるような、どうにも不思議な感覚に溺れた。
それにしても、着替えといってもどんな形のものを買えばいいのかが分からない。
これまで、ネジの好みを少しも知ろうとしなかった自分に、かすかな苛立ちを覚えた。
散々迷ったあげく、繊細な線香花火を思わせる秋の華の小紋にした。深い深い黒に近い濃紺、灰の青。男性的でありながらもどこか品のある彼に、このきれいな浴衣が似合うと思ったのだ。
急いで病室まで戻ると……ここの責任者だろうか? 貫禄のある中年の男がいた。体に馴染む白衣は丁寧に整えられていて、一見怖そうな外見とは反対に、清潔感が漂っている。何か言いたげにして眼鏡をかけ直した彼に近づいて、言葉が落ちてくるのを待った。
「……血族の方、ですね。よく似ているのですぐに分かりました」
思いのほかやさしい声色に、わずかに心がほころんだ。
院長の話によると――国境付近の警備についていたネジが深手を負ったのは、血継限界を持つ孤独な少年が里を抜けようとするのを何者かに襲われて、身を挺して庇ったためということだった。……ヒナタの故郷である木ノ葉の里でもよく聞く話だ。
どの里でも同じなのだと悄然とする反面、大切な父を喪い、それでもなお独りで生きてきたネジを想うと、どこかやりきれなかった。故意ではないにせよ、その原因を作ったのが自分であるという事実も、改めてずっしりとのしかかった。
――兄さんは今幸せなのかな? 私といて、私ばかりを尊重してくれているけれど……本当にそれでいいのかな?
冷たくなった大きな手を両手でつつみこみ、ポケットの中の青い短冊に祈りをこめる。
――どうか目を覚まして……。もしも無事でいられたら……今度こそ私が、あなたを幸せにしたいから。
願いも空しく、それから数日間は何の進展もなかった。例のごとく、きれいに眠る首すじに光る汗を、拭うことくらいしかしてあげられることがなかった。
ベッドサイドには、淡い藤袴の切り花を――ためらい、遅れという花言葉に、自分にとってのネジがどれほど大切だったか気づけなかったことを、深く悔やんだ。
連日連夜、何も喉を通らず、ほとんど寝ずに寄り添っていたら、今度はヒナタの方が弱ってきてしまった。冷たい手を握りながらついうたた寝し、約半日後に起きてもまだ意識を取り戻さぬネジに、涙が零れた。
血色の悪い唇に触れる。伝い落ちたしずくが青白い頬を濡らす。その様はまるでネジの方が泣いているかのようで、
――小さい頃の兄さんも、こんなふうに独りで泣いていたのかな? ごめんね……ごめんねネジ兄さん。本当にごめんなさい……!
淡い月明かりの下、ただ孤独に、呆然自失となった。
傍にいるのに寂しくて……白と薄紅のどんぐり飴は、どんどん減っていった。
その傍に寄り添うように置いた青と紫が、はかない夏の記憶が、どうにかヒナタを支えてくれていた。
――お願い目を覚まして。私、あなたを失いたくない……!
毎日毎日、懲りずに同じことを、何度も何度も口にした。
*
契機が訪れたのはここへ来て五日目の朝だった。
幾つかあったはずの飴玉は、気づけば残り一つぶになっていた。
青白かった頬には赤みがさしはじめ……その奇跡ともいえる回復を、「絶えず声をかけてあげたから。まっすぐな想いが通じたから」だと医師に言ってもらえたことが、何より嬉しかった。
桜の花に似た、乾燥した藤袴の茎の香り。どこまでも静かな朝、やわらかな香りにつつまれてようやく目を覚ましたネジは、
「ヒナタ様……」
いちばんに名前を呼んでくれて――。
思わずきつく、きつく抱きしめてしまい、
「……痛いです」
慌てて体を離して視線を合わせたら、彼があまりにもやさしく笑ってくれたので、もう一度、努めて寧静に大きな体をつつみこむと、かつて感じたことのない、心底の安心を覚えた。
「ヒナ、タ……? どうして……、なぜここへ?」直後、力なく投げかけられた問いに、
「よかった……目を、覚ましてくれて。あなたのいない世界には私もいないも同然なの」まったく答えにならない答えを返す。
「煩わせて悪かった……。わざわざオレなんかのために、こんなところへ」ネジはどこまでも従者としての立場を崩さないのでもどかしくなり、
「私ね、あなたがいなくなったら、どうしようって考えたら……あなたのいない世界なんて、もう考えられないって思ったの。お願いだから無理はしないで。離れたくないよ……」
ひどい我が儘を押し付けた。途端に自己嫌悪に襲われたが、ネジは、涙声のヒナタをそっと抱き寄せてくれて、もう一度やわらかく包みこんでくれた。
繊細な指先が胸を撃つ。丁寧に梳かされた紺色は、すでに同じ長さにまで伸びている。あなたに憧れて伸ばし始めたのだと告げれば、ネジはいったい、どんな顔をするのだろう。色違いの茶色い髪。さらさらと靡くのを、ずっと遠くから見ていた。
孤独だったあの頃を思えば、今、こんなにも近くにいられるのが嘘のようだ。大好きなネジの腕の中――ヒナタは、これ以上ないほどの歓びに満ちている。こんなことになってやっと気づくなんて、失いそうになってはじめて知るなんて、なんて愚かだったのだろうと、深く自戒した。
……長針が何周もして、ようやく体を離せば、ネジは苦しいほどにやさしい、やさしい笑みをくれた。が、すぐさま涙の跡に気づき、悲しそうに頬を撫でてくれたので、せっかく治まったはずのものが、また溢れ出してしまった。際限なくこみ上げるしずくを、至って丁寧に掬ってくれる。その手のあたたかさに再び泣けてきて、いつまでも終わりが見えない。
忙しなくしゃくり上げる息をどうにか整えて、ヒナタは意を決して言葉を紡いだ。
「どこにも行かないで傍にいて」
ひどい泣き顔のヒナタの頭に、そっと大きな手が添えられた。そして消え入りそうなくらいに穏やかな笑みをたたえてくれたものの、
「……ヒナタが望むならいつまででも傍にいる。オレは大丈夫だから、安心してほしい」
些か意に沿わない言葉が返ってきた。……大切そうに髪を梳いてくれる手を、ゆっくりはねのけると、途端に表情の曇ったネジを圧して、ヒナタは云った。
「……兄さんはあんなに遠ざけていた私の傍に、どうして寄り添ってくれるの? かわいそう、だから? 従者だから仕方がなく……もう開き直ったの?」
「なぜ急にそんなことを聞くんだ? 何か言われたのか?」
ところが、伝え方が悪かったせいで彼はまるで要領を得ない様子だったので、無傷の方の青いお守りを差し出して、ついに核心に触れてしまった。
「……ううん違うの。急にこわくなっちゃって……大切な兄さんに無理をさせているんじゃないかって……。あ、あのね、これ……私の分のお守り。迷惑かもしれないけどまたあげるから……もう二度とこんな大きな怪我をしないで。兄さんが痛そうにしているのが辛い。見ていたくないの。苦しい……!」
するとネジは一瞬困ったような顔をして、けれどもお守りごと、またヒナタを包み込んでくれた。
思い切り、ぎゅっと力をこめられて、息もできないくらい――。
「前にも言ったはずだが、オレはヒナタが思っている以上に切実にヒナタを想っている……だから、ヒナタがオレのために心を痛める姿なんて、見たくない。オレは大丈夫だから安心して? 何やらすごく辛そうだが、寝ていないのではないか? そんなの、望んでない……オレにとってはそれこそが苦しい……」
かすれた声に乗ったその言葉を承け、弱々しくも必死に抱きしめ返したヒナタは、今度こそ本当の想いを口にする。
このきれいな青いお守りが、二度と血の赤に染まることのないよう……切々と願いをこめながら、行き場のない感情をぶつけたのだった。
「兄さんあのね、うまく言えないんだけど、私にはあなたがいなきゃだめなの。勝手だって分かってるけど、でも止められないの……傍にいたいの。それに私だって、あなたが思っている以上に切実にあなたを想っている。何を置いてもあなたのことが大切なんです。それだけは分かっていてほしい」
しかしてネジの答えは、
「意味を分かって言っているのか? オレはあなたのようにきれいな感情だけではない。本当は誰にも渡したくない、自分の手中に収めたいなどと、不遜な考えにばかり支配されているのに」
翻っていつになく自信のなさそうな声に包まれていて、彼はどこまでも自分を尊重してくれているような気がして、胸がつかえて息ができなくなった。ヒナタはもはやネジになら強引に踏み込まれたってかまわないのに。
……少しでも安心してほしくて、深紫に染まるお守りを後目に、抱きしめる腕に最大限の力をこめる。同じくさらに力をこめて抱きしめ返してくれた腕の痛みから、果てのない深い想いが伝わった。
――私だってあなたを誰にも渡したくないのに……。何より絶対にあなたを失いたくないのに。気づくのが遅すぎたけど、同じ気持ちでいられて本当によかった。
秋の始まりの早天、淡く真っ白な陽のさす病室で、静かな滝の音色を聴きながら……
あたたかな腕の中、最上級の清福に包まれる。
何年間も、ひどい遠回りをしてようやく手に入れたこの場所を、絶対に手放さないと心に誓った。