2016.11.22更新
※夏疾風(なつはやて)=烈しい夏の風
腰まで伸びた長い髪が、汗ばんだえりあしに貼り付く。
大切な人の誕生日は疾うに過ぎ去り、楽しみにしていた七夕祭りも終わってしまった。
――来年も、一緒に……また、この場所で逢えたら……。
昨年の夏、ネジの隣で月のない空を見上げて、雲の向こう側の織姫と彦星に込めた願いは、結局叶わなかった。上忍に昇格してから、いつも里を空けてばかりのネジは、帰ってきてもすぐにまた新たな任務に駆り出されてしまうのだ。せっかく顔を合わせても、いつしか彼の前では平常心ではいられなくなってしまって、度々失礼な態度を取ってきた。
今さら一緒にお祭りに行きたいだなんて、言えるはずもなかったのだが――。
ヒナタから平静を奪ったのは他でもない。年明け、額と頬に降ってきた甘やかな口づけが、今も心を焦がして離さないから……。
さらには、つないで絡めた手のあたたかさも、きつく抱き締められた腕の痛みも、いつまでもどこまでも胸を縛るのだ。
……部屋に帰れば、冬、ネジに貰った唯一の贈り物が、疲れたヒナタを迎えてくれる。
そこに在るだけで、自然と笑みがこぼれ出す。白と淡紅のやわらかな色味はもとより、赴任先で自分を思い出してくれたことが、何よりも嬉しかった。
不覚にも熱に浮かされ、感謝と喜びの意を表せなかったことが、ずっと心残りだった。
*
今年の七夕は、任務中の野営地にて、同じ班のシノとキバ、それから赤丸と共に過ごした。
二人と一匹の寝息を聴きながら、近くの岩場に腰掛け、一人静かに天の川を仰ぐ――。
青い青い空からは、今にもこぼれ落ちそうなほどの星々が、もはやうるさいくらいに瞬いている。さながら糸のような二日月もそう。例のごとく、みやびな光に満ちていた。
去年、ネジと一緒にいられたときは、真っ暗な曇り空だったというのに……まったく、上手くいかないものである。
――来年は、一緒に……また、共に過ごせたら……。
性懲りもなく、同じ願いを夏空に乞うた。
――同じ空の下、今もどこかで戦っているであろうあなたが、どうか無事でありますように。
離れ離れでいる彼の無事も、同時に祈る。忍という職業柄、また必ず会える保証など、どこにもないのだ。
「ワン!」視界に勢いよく飛び込んできた赤丸によって、現実に引き戻される。
「眠れないのか?」少し遅れて届いたその声は、やんちゃを絵に描いたような仲間のキバのものだった。
「ちがうの……今ね、ちょうど織姫と彦星が夜空で逢っているところなんだよ。だから、お願い事をしていたの。キバ君も一緒にどうかな? こんなにたくさんの星が見える七夕も珍しいんだよ」
「おう、確かに綺麗だな。しかし、願い事かぁ……何があるだろうな。母ちゃんと姉ちゃんが元気で幸せで、忍犬たちも怪我なく健康に過ごせたら、それでいいかな」
「ワン!」
「へへ、赤丸も同じだったか。それは嬉しいな。ヒナタは何をお願いしていたんだ? ナルトのことか?」
「ふふ、それは内緒。だけど、今年はネジ兄さんと一緒にお祭りに行けなくて残念だったな」
「……去年は行ったのか? あいつと? あの仏頂面と?」
「うん……今年も行きたかったな」
「……あいつがああいう場でどんな態度を取るのか見てみたい気もするな……というかよく来たな。そういうの、苦手そうなのに」
「そうかな? 楽しかったよ。そういえば、兄さんって射的がすごく上手なんだよ」
「まあそうだろうよ……反則ぎりぎりというか……いや、やっぱ反則だな」
「白眼は使ってないから」
「そういう問題かぁ?」
とりとめのない話をしていたら、もう一人の仲間が起きてきた。寡黙で穏やかな彼は、いつも聞き役に徹してくれているのだが、時々会話に入ってきてくれるのが、ヒナタはたまらなく嬉しかった。
「宵の七夕といって……お盆に新しいお祭りがはじまったらしい……都合が合うなら行ってくるといい」
「お前、聞いてたのかよ」
「……違う……なぜならうるさくて眠れないからだ」
「ああ、声がでかくて悪かったな」
「……それは言ってない……お前らもう寝るぞ」
「うん、私のせいでごめんね」
煌めく星空の下で見た夢は、はっきりとは記憶になかったけれども、懐かしくて、それでいてやさしい夢だったような気がする。
*
七月三日、大切な人の生まれた日を祝いたくても祝えなかった。
七月七日、今年こそ一緒に花火を見たくても、見られなかった。
やがて梅雨が明け――汗で髪が貼り付くほどに暑い夏がやって来た。酷暑の日々、彼がどこかで体を壊していないかと、そればかりが気になった。
ここ最近、ネジは何度か里へ帰ってきたようだが、なぜだか悉くすれ違って、まったく会えなかった。ネジに会いたい……会ったってどうせ変な態度を取ってしまう自分が容易に想像できるのだが、それでもネジに会いたい。
理由は分からない。しかし会いたいものは会いたいのだから仕方がない。
暑さのせいか、身体を焦がすようなおかしな感覚に支配されたまま、気づけば月をまたいでいた。そして……
八月六日、シノの言う「宵の七夕」祭りの日が訪れた。朝、任務から帰ってきたヒナタは、軽く湯浴みをして、縁側にて束の間の涼を取っていた。
突き抜けるほどの青い空は、鮮明に輝く朝日を一層際立たせている。飛び回る鳥の群れさえもネジを思い出させて、どうしようもなく胸が締め付けられた――。
「早く帰ってこないかな……」
いったい、いつからこうなったのだろう? 苦手だったはずのネジに心を占有されて、今では持って行き場がない。この感情を言葉で形容するならば、
「さみしい……」
かつての夏の日のように髪に紅い蝶々結びを作ってみても、ほどいてくれたネジはここにいない。するり、自分の手でそっと紐を引けば、夏疾風にさらわれた髪が、さながら吹き流しのようにひらひらと靡いた。
「ナルトがいないからか?」
……ところが突然、背後に感じたチャクラと、降ってきた声に耳を疑う。
即座に振り返れば、願望が見せた幻覚なのではないかと心配になるくらいに、ヒナタが欲してやまなかった人がそこにいた。
「ネネ、ネジ兄さん……! おっ、おかえりなさい!」
挙動不審になってしまう自分が情けなかった。
「今帰ってきたんだ……また、夜には出るけど……ヒアシ様に報告しておこうと思って」
鼻を抜けるような穏やかな低い声が胸を刺す。何も答えられずにいたら、ネジは奥間へと行ってしまった。が、途端にもたげた不遜な期待が、あふれ出して止まらなかった。ここはどうするべきか――ネジがまた後ろを通るまでに決断しなければならない。こんな機会、一度逃してしまえばもう二度とないかもしれないのだ。
どうしようどうしよう……。
迷っているうちに瞬く間に時が経ち、慣れ親しんだ気配が近づいてきた。
ゆるりと振り返る。やはり目を合わせられなくて、だけどどうしても言いたくて……ヒナタは意を決して立ち上がった。
「にっ、兄さん! 夜は何時に出るの? 今日はね、『宵の七夕』の、新しいお祭りの日なんだよ。もっもし時間が許せばだけど……、一緒に、行きたいなぁなんて……思ったりしてるんだけど……あっ、でも無理にとは言わないから……その……あの……」
ふっと笑ったネジがずいぶん大人びて見えて、ヒナタは羞恥のあまり俯いてしまった。
しかして、彼の答えは、
「ああ、オレでよければ……ただ、夜は日の沈みきらないうちに出るから、去年みたいに浴衣に着替える時間はないかもしれない」
「うん、それでもいいよ……! 兄さんと一緒ならそれでいいの……夕方、迎えにいくから、お家で待っててね」
「いや、ヒナタにそんなことさせられない……オレが迎えにくるからここで待っていて」
「うん、ありがとう……」
ずっとおかしな態度を取ってきたヒナタに対して肯定的で、嬉しい反面申し訳なくなった。
*
朝食中も昼食中も、ひどくそわそわして落ち着かなかった。ついさっきのことなのに、何を食べたかすら、もう忘れている。さすがに自分から誘っておいて馬鹿げているが、夕方がやって来るのが、恐ろしくさえあった。
新しい浴衣を着るべきか相当に悩んだが、一人ではりきっているみたいで恥ずかしい。普段着で行くことにした。とはいえ任務服の替えなら幾らでもあっても、普段あまり外へ出ないヒナタは、こういうとき、着ていく服がない。
考えた末、妹のハナビに相談することにした。ハナビが提案してくれたのは、薄手のブラウスとショートパンツの組み合わせだった。襟元に細かなギャザーが寄ったそれは、女の子らしくてとてもかわいいのだが、如何せん胸が開きすぎているような気がする。さらには肩が出るようになっていて、ずれ落ちないように結ぶ細いリボンも、どこか心許ない。言葉を失っていたら、ハナビが、
「姉様は絶対に白が似合いますよ! それに脚だって綺麗なんだから、自信を持ってもっと出せばいいのに……。白いブラウスと水玉のショートパンツ、絶対かわいいと思います。紺色に白の水玉だから、それほど抵抗もないでしょう? 一緒に出掛ける相手がネジというのが解せませんが……特別に貸して差し上げます」
「ありがとうハナビ……でも、びっくりされないかなぁ?」
「……ある意味驚くかもしれませんが、絶対大丈夫です。私が保証します。何かあれば、私が奴を倒します!」
「ふふ、『何か』って何? 可笑しい……。じゃあ、お言葉に甘えて借りるね。ありがとう」
明るく背中を押してくれたので、思い切っていつもと違う服装に挑戦してみることにした。
一緒にすすめてくれた、花の飾りがついた麦わら帽子は丁重にお断りし、高い位置で髪をまとめることにした。
腰まである髪をお団子にしたら、服に合わせて青いリボンの髪飾りを挿した。
……あとはネジの迎えを待つのみだ。
縁側で風に吹かれていたら、どこからともなく夏の終わりを感じた。今年の夏は、ほどんど一緒にいられなかった。今日の夕方会ったら、次会えるのはいつになるのだろう? 考えたら、息が苦しくなった。
*
少しずつ遠くなってゆく空を見上げていたら、不意に、茶色い髪が靡くのが視界に入った。
「お迎えに上がりました」
思わず後方へ倒れそうになったヒナタを遠慮がちに支えてくれたネジの手は、殊の外あたたかかった。
「やだ……かしこまちゃって」
「それは最近のヒナタだろう」
「そうかな?」
「そうだよ」
ふわりと微笑むネジの表情がひどく儚げに見えて、どうしようもなく胸が痞えた。
「今年は浴衣じゃないんだな」
「……うん。一人ではりきっているみたいで恥ずかしいから」
「そういえば去年もそんなことを言っていたな。変わらない……ヒナタは何も変わってない。でも……」
「でも?」
「……いや、何でもない。今日はヒナタらしくない恰好だが、それはどうしたんだ?」
「ハナビに借りたの」
「ああ、それで……」
「……あの、変かな?」
「……別に。しかし、帰りはちゃんと送り届けないといけなくなった」
「一人でも帰れるよ? 兄さんは任務があるんだからそのまま行ってくれていいよ。無理を言って誘ったんだし」
「無理じゃない……嬉しかったよ」
道すがら久しぶりに交わした会話は、辺りが薄暗くなってきているおかげで、どうにか平静を保って受け答えすることができた。
……ただ、呼吸が浅くなるほどに苦しかった。
しかして、川べりの宵の七夕祭りはすでにはじまっていて、澄んだ水流に浮かぶあでやかな反物、青い光、色とりどりの灯篭が、夏の夜を鮮やかに綾なしてくれていた――隣のネジを見遣れば、目もあやな情景に捕らえられる視線がこの上なく綺麗で、不可能だとは分かっていても、そんな目で自分のことも見てほしい。気づけばヒナタはそんなふうに考えていた。
日が沈みきらないうちに里を出るとネジは言っていた。あまり長くはいられない。限りある時間を噛み締めて過ごそうと思った。
縁日を横目に歩いていたら、少し入った奥に、紅い社が見えた。ぼんやりとした灯りの浮かぶそこは、小さな神社の境内にある社務所だった。目を凝らして見れば、暖色から寒色への階調を描く短冊が、背の低い木にたくさん揺れていて、その飾りと同じ色と形のお守りが、そこで授与されていた。
「……あそこに行きたい」ヒナタは勇気を出して声を上げた。
祭りの喧騒から離れて、静かな拝殿へと足を運ぶ。社務所は無人で、賽銭さえ入れたら自由に選べる方式になっていた。
手を清めて鐘を鳴らしたら、並んで願い事をする。いつかと同じ状況に、もはや懐かしささえ覚えた。つい最近の、今年の始めのことなのに……。
願うは同じく、
――ネジ兄さんが幸せでいられますように。
――ヒナタが幸せでいられますように。
あれから少しも変わっていなかった。
拝礼を終えたらネジに向き直り、ヒナタは言った。
「この短冊の中だったら、ネジ兄さんは何色が好き?」
「そうだな……この中だったら青かな?」
「そしたらお守りをお揃いにしたいな……十七歳のお誕生日のお祝い、というほどでもないけれど……。青いのを二つ買おうかな」
「ヒナタも青でいいのか?」
「うん……。兄さんとお揃いがいいの」
楓の織り柄が入った青い短冊型のお守り。「幸せ」を願い、ネジに手渡した。「ありがとう」と笑う彼は、そのあと下唇を噛み、殊更苦しそうにしていた。迷惑だったかと残念に思って、ヒナタはまたしても俯いてしまった。……そうこうしているうちに時間が迫ってきた。そろそろ帰らなければならない。すっかり弱まった陽光が、空を深い青に染めていた。
黙りこくったままで帰路につく。話題を探してみても、浮かんでは消え、言葉を発することが怖くなってきた。すると、珍しい「どんぐり飴」の屋台が目に飛び込んできて、あのときの礼を言うさいごの機会かもしれないからと、ヒナタは必死に呼吸を整えた。
「あっあの……! ずっと前……『どんぐり飴』のお土産を買ってきてくれて、すごく嬉しかった。ありがとう。ちゃんとお礼を言えなかったから、心残りだったの……」
やっと言えた――。安堵したのも束の間、ネジはどこか不服そうな顔で、
「……一つも食べていないようだったから、迷惑かと思っていた」
思わぬことを口にした。
何やら誤解を招いていたようだ。
違う……そんなわけがない。ヒナタは慌てて弁明する。
「えっ、えっと、違うの……あの、あのね……」
「何だ?」
「その……。だ、だから……」
「?」
「だっ、だから――。勿体なくて、食べられなかったの……!」
「えっ……?」
あまり見せたことのない驚いた顔で、ネジは固まってしまった。
……不安になったので、恐る恐る問いかける。
「あの……。私、何かおかしいこと言ったかな?」
宗家までの帰り道、そのままネジは口を開かなかった――。
これまで何度も送り届けてもらった、立派な門の前まで帰ってきた。気まずくて仕方なかったが、またしばらく会えなくなるのが寂しくもあった。……互いに俯いたままで沈黙が流れる。静寂を破ったのは、ネジの方だった。
「……さっきの、どういう意味だ? 勿体なくて食べられなかったというのは」
核心をつく質問に、ヒナタの鼓動が跳ね上がった。
……伝えてもいいものだろうか? いや……自分でもまだよく分からないというのに、どうして言葉に出来ようか。
宵闇の中、無言のままで視線を交えていたら、
「ネジィー! やはりここにいたんですね! 君も隅に置けないなぁ。束の間の休みに、こんなに綺麗な女性と会っていたなんて」
「そうよそうよ、いつの間にそんなモテ男になったのよ。ヒナタはあんたには勿体ないわよ」
「やっやだ、リーさんったら……テンテンさんまで……」
唐突に茶化されて慌てていたら、ネジが如何にも鬱陶しそうに応答した。
「……集合時間はまだ先だろ?」
「まあ、そうなんですが……テンテンとお茶屋さんにいたら、今回の班長のガイ先生が来て……早めに里を出ようかって言うものですから」
「あんたの行動なんてお見通しなのよ。絶対ここにいると思ったら案の定……」
「……うるさい。分かったからもう行こう」
ヒナタは幾らかほっとしていた。あの質問に答えていたら、どうなっていたか分からない。
馬鹿げた思考を呆れられて嫌われてしまっていたかもしれないから……。
それから、ヒナタに向き直った三人が順番に言う。
「ヒナタ様……それでは行ってまいります」
「またお会いしましょう!」
「夏バテや夏風邪には気をつけるのよ」
嵐のように去っていく三人を見えなくなるまで見送ったら……つい今しがた買った青いお守りを握りしめ、改めて願いを込めた。
――来年も、一緒に……また、共に過ごしたい。
――どうかご無事でいてください。
次はまた二人で会って、「ヒナタ」と名前を呼び、かしこまらずにくだけて話してほしい。
里に帰ってきたら、できれば一番に会いにきてほしい――。
我が儘ともいえる願望を胸に秘めながら、今日もヒナタは、ネジを想う。