2015.11.15更新
不意に触れた手が冷たかったので、思わず、両手で包み込んだ。
冬空の静けさ、きんと鳴り止まぬ冷たい音。それでも深夜、人知れず修行に励む従妹を、心底いとおしく思う。誰の為でもいい。弱い自分を律して、懸命に強く在ろうとする姿に触れれば、その小さな手を、光の射す方へと導かずにはいられなかった。たとえそれが、己の終わりを意味していたとしても。
鋭い柔拳を繰り出していた小さな手は、突然のことに驚いて、一瞬ぴくりと結ばれたものの、またすぐにほどかれ、ネジの大きくてあたたかい手へと、緩やかに預けてくれた。
「寒いね……」
はにかみながら紡がれた言葉は、至って月並みで、ありふれたものだったけれど――。ヒナタの口から飛び出せば、それは忽ち、綺麗な言葉へと変化する。
願いも祈りも届かぬこの世界で、唯一見つけた宝物。それが、ヒナタだったから。自分の望みは叶わずとも、せめて彼女にだけは幸せになって貰いたい。ヒナタの片恋の相手が里へ帰ってきたら、何かが動き出すような気がする。戦いの世界に身を置く者として、己の信念の為ならば、いつだって散る覚悟は出来ている。しかしヒナタにだけは生きていて欲しい。生きて、幸せに、笑っていて欲しい。
……その為にも、果然不本意ではあるが、自分の身を守れるくらいには、強くなって欲しいと念う。
「いつの間にか、年も更けてきたな……もうすぐ、あなたの十五の誕生日だ」
「嬉しい。覚えていてくれたんだね」
「忘れる筈がないだろう」
「それも、そうだね……」
ネジの言葉を、違った意味で捉えたであろうヒナタが、空いた片方の手で、呪印が刻まれた肌を、恐る恐る撫でてくれた。額あて越しに、とりわけ優しく、穏やかに。殊更悲しそうに、ともすれば泣いてしまうのではないかというほどに、辛そうな面持ちで――。
そう、ヒナタの三つの誕生日、ネジは決して解き放たれることのない、籠の中の鳥になった。無理矢理に誓わされた絶対服従の証は、今もその額に、深く刻み込まれている。その運命を随分長い間受け止め切れなくて、ひどく苦しみ続けてきた。だが、今は違う。何故だか放っては置けない主人を、従者としてではなく、一人の男として守り抜きたいと思う。もはや理由などは何も無い。ヒナタへと注がれる烈しい感情を、無視するなんて、到底出来ないから。
氷の張った足元は、冴えた月の光を拾い、鳥の子色に色づいている。優しくくすんだ黄色は、控えめなヒナタを彷彿させて、冬の何気ない事象にさえ、全てヒナタを重ねてしまう自分が、どこか可笑しくもあった。冬は、ヒナタの季節――ヒナタに出逢って、そして囚われた――未だ色褪せることのない、思い出の季節だから。
冷たい金属越しに額をなぞる手がくすぐったくて、その小さな手を、再び、大きな両手の中に捕らえた。驚いたように肩を竦めるヒナタを、また、引き寄せて抱き締めたくなった。
「寒いな……」
「うん。寒いね……」
「あなたが案じることは何も無い。いつだって真っ直ぐで一生懸命なあなたを、同じ一族の者として誇りに思う。だから、何も気にしないで。オレは、大丈夫だから」
「ありがとう。こうやって兄さんが傍に居てくれたら、寒さなんて全然苦にならない。あなたの為にも、早く強くならないと」
――オレの為に? 違うだろう? まあいい。あなたの言葉に一喜一憂することにももう慣れた。
今思えば、ヒナタをずっと遠ざけていた日々は、まるで時計が止まってしまったかのように、白く煙った色に包まれていた。けれどもまた寄り添うようになり、再び動き出した針は、ネジにはもう、止めることなど出来ない。
陽と影のような二人の関係は、これから先も、少しも変わることはないだろう。
……だから、今いる季節も、過去、確かに共に歩んだ日々も、絶対に離さず、大切にしようと思った。
冬の澄んだ夜空を、きらきらと瞬く星々に、ヒナタの隣に、彼女が幾つになるまでなら並んでいられるのかを、切実に問いたかった。五歳くらいの頃から、約十年間離れ離れでいたことを、どんなに悔やんでも今更どうにもならない。本当はずっと傍に居たい……ヒナタの隣の場所を、誰にも明け渡したくない。
――でも、仕方ないな。ヒナタの幸せは、オレの幸せでもあるのだから。
たなびき重なり合う色違いの髪に、小さな小さな、雪の欠片が舞い降りた。そう、確かにヒナタの言うとおりだ。こうやって傍に居れば、寒さなど全然苦にならない。むしろあたため合うことの口実にさえ使えて、都合がいいほどだ。
暫くの間、ネジには小さ過ぎるその手を離せずにいると、ヒナタが頬を薄桃色に染めて、ふわりと微笑みながら口を開いた。
「あ、あの……手、手を……は、恥ずかしい、です」
「……敬語は止めるんじゃなかったのか?」
「あ! そうだった……あ、あの、は、離して? このままじゃ、私……」
「このままいたら、どうなるんだ?」
幼い頃のように、悪戯な笑みを浮かべて、年下の従妹を弄ぶ。
……今だけ、今だけだから、意地悪も許して欲しい。
ヒナタがネジの元を去って行くまでの、あと僅かな時間。せめてほんの少しだけでも、ヒナタの中に、自分の存在を、刻み付けておきたい。
忘れないでいて欲しい。こんなにも大切で、こんなにも愛していることを。いつか誰かと共に歩む道を見つけても、同じ空の下で、微笑みあたため合った日々を、鮮やかなままで覚えていて欲しい。
「ヒナタ様」
「……敬称は止めるんじゃなかったの?」
「ああ、そうだったな。ヒナタ……」
「はい……?」
「雪も降ってきたことだし、今夜はもう止めにするか?」
「嫌。止めない。忙しいネジ兄さんのことだもの。また、いつ長期任務に出てしまうかも分からないのに。離れたくない」
「……また、あなたはそんなことを言って。まったく懲りないな」
「……だって仕方ないよ。本当のことなんだもん」
真っ直ぐな心を向けてくれるヒナタが、もはや冷酷にさえ思えてくる。とはいえ、ネジが一方的に想いを募らせているだけなのだから、畢竟、致し方ないのだけれど。そもそも、ネジにとってのヒナタは、一番近くて、一番遠い人。愛してはいけない人、だったのだ。なんて馬鹿だったのだろう。自嘲してみたところで、現実は何も変わらない。
せめて、ヒナタだけでも。この残酷な世界にいても、柔らかな幸せを手にして欲しい。
それだけは絶対に譲れぬ、死ぬまで消えない願いだ。いや、もはや死んでも消えないかもしれない。
――好きだ。ヒナタのことが、どうしようもなく。
降り止まぬ雪のように、際限なく積もってゆく儚い想いは、いつまででも抱えていくつもりでいる。知られる訳にはいかない。知られてしまったら、傍には居られなくなってしまう。
紡いだ記憶が色褪せて、いつか思い出して貰えなくなったら、自分は一体どうなってしまうのだろう。諦めて笑うのか、悲しくて泣くのか……全く以て見当もつかない。ただこれだけ言えるのは、ヒナタの居ない世界には、自分も居ないも同然であるということ。声を聞くだけで、傍に居るだけで一瞬にして縛られてしまう心を、静やかに、まるで事も無げに、受け止めているしかない。
手を、放せば。一瞬、ひどく残念そうな顔をしたヒナタに、心を強く揺さぶられた。駄目だ。そんな顔をされてしまったら、
「……っ、にい、さん?」
滅茶苦茶にしてしまいたい衝動を、抑え切ることが出来ない。
……きつく、きつく抱き締めれば、ふわりと掠める花のような香りに、胸を思い切り掻き乱された。
「オレは、何があってもあなたを守るから……だから、どうか、オレのことを忘れないで」
思わず口を衝いたのは、自分でも信じられないくらいに重苦しい言葉だった。
「も、もう……ネジ兄さんったら、何を言っているの? 忘れない。忘れる訳ないから、大丈夫だよ」
今にも千切れてしまいそうな感情の糸は、繋いでも繋いでも、また綻び出して――。もう何色にも染まらないほど、綺麗なヒナタの色に、侵されてゆく。薄い氷を重ねたような、優しく澄んだ色に。
どうして出逢ってしまったのだろう。幾ら問うても、答えなど見つからない。
――ヒナタの為に、ヒナタの幸せの為に出逢えたのならば、それほど嬉しいことはない。
――どうなってもいい、どうなってもいいから、今だけは傍に居させて欲しい。
そっと抱き締め返してくれた細い腕を、無理矢理に押さえ付けて、自分のものにしてしまいたい。決して離れられぬよう、消えない標を刻みたい。
そんなことを出来る筈がない。叶わぬ夢だと、分かっているけれど。どうしてもヒナタが欲しい。
蠢く情動を、やはり何でもないことのように、半ば強引に、力ずくで抑え込んだ。