2015.11.21更新
胸まで伸びた髪をゆるく編み、ユキノシタのかんざしを挿す。
雪の下に在っても枯れない花を模した髪飾りは、強くなり切れないヒナタにとって、お守りのようなものだった。
かつては行き違い、歪んだ関係だった従兄とは、嘘のように仲良く寄り添っている。季節は、静やかな冬。ふわりふわりと、視界いっぱいに舞う雪の花が、二人の故郷に、迎春の報せを告げた。
いつしかネジは、妹のハナビや、実の父を置いて一番というくらい、ヒナタが心を許す相手となった。ここのところ、これは夢なのではないかと不安になるほどに、至って優しく、柔らかな時間が過ぎてゆく。
――こんなにも幸せでいたら、いつかその反動で、何らかの因果が巡ってくるのでは……。
身支度を済ませて、窓の外の銀世界を見遣りながら、少々破滅的なことを考えた。そんなことをネジに言ってしまったら、一体、どんな顔をされるのだろう。彼を待つ間、ようやく笑うようになったその穏やかな顔を、ふと、思い浮かべてみる。
……鏡を見ているように、そっくりな二人。
もはや互いが互いでなければ成り立たない、そんなかけがえのない存在だ。
「ハナビ……この格好、変じゃないかな?」
「大丈夫です。姉様らしく、上品な装いですよ。ネジと並ぶには勿体ないくらいです」
「よ、よかった……忙しいネジ兄さんと初詣に行けるなんて、またとないチャンスだから。失敗のないようにしなくちゃ」
「いや、失敗を案じるべきは、むしろネジの方なんじゃ……?」
些か呆れた様子のハナビに、えりあしに落ちた後れ毛を、綺麗に直して貰った。
白の小紋と紅梅の重ね衿、そして地柄の入った白花色の帯は、亡き母が遺してくれたものだ。戦いの世界に身を置くヒナタは、忍装束ならば幾らでも替えがあっても、自分を飾る服など殆ど持ち合わせていないのだ。寒いので、以前ネジにお下がりとして貰った紺桔梗の羽織に包まる。体格の違い過ぎる彼のそれはやはり、随分大きかったけれど。
……何故だか、他のどんな上着よりもあたたかかった。
例に漏れず、約束の時刻よりも早く宗家へと訪れたネジを、玄関まで迎えに行った。ヒナタの姿を捕らえた瞬間、驚いた表情のまま固まった彼の袖を掴み、先ずは客間へと通して新年の挨拶を取り交わす。それからすぐ、父と妹を置いて家を出た。
思えば皆で迎える年明けは、ネジの父が存命だった頃以来のことで――。ヒナタにはどうすることも出来なかったとはいえ、改めて胸が痛んだ。離れ離れでいた時間、ネジが孤独に過ごした時間を、どうにかして、埋める術はないだろうか。考えても考えても、やはり、答えは見つからない。
何を置いてもヒナタを大切にするネジを想うと、どうしようもなく苦しかった。
*
晴れやかな朝。正月特有の明るく澄んだ空気に、新しい希望が胸をさらう。道すがら、どこかよそよそしいままのネジを見上げて、もう一度言葉を投げ掛けた。
今日はまだ笑ってくれないネジに、思わず弱気になって、
「ネジ兄さん……あの、今年もどうぞよろしくお願いします。こうやって、新しい年をあなたと迎えられて、私はとても幸せです。いつか反動で、しっぺ返しがくるんじゃないかって……少し怖いくらい」
誰にも言えない、行き場のない不安を口にした。
すると、ヒナタと目を合わせることはなく、揺れる髪飾りに視線を遣ったネジが、ぎこちない表情で口を開いた。
「……あなたの思考は、オレにはまるで見当もつかないな。でも、大丈夫。いつだって人想いなあなたの元には、ちゃんと幸せが訪れるから」
そう言って目を伏せたネジの横顔は、とても綺麗だったけれど……今にも消え入りそうに儚くて、胸がひどく締め付けられた。彼を、幸せにしたい。これまで、与えて貰う一方だったヒナタは、こういう時、どうすればいいのかが分からなくて、またしても己の無力を知る。
それに、人想いなのはネジの方だ。どうして彼はこんなにも、自己犠牲的なのだろう。
――オレは、何があってもあなたを守るから……。
――どうか、オレのことを忘れないで。
……悲しくなるくらいに、真っ直ぐ。
愛する家族の為、一族の為、延いては里の為――。迷わずその命を差し出した、日向の英雄の血を引いているからだろうか。もう二度と、尊い犠牲を出したくない。強く、強く念うけれど。今のヒナタにはまだ力が足りない。
多くを望むつもりはない。ただ平凡で、優しい日々を紡いでゆきたいだけだというのに。
しかしその為には、他を脅かすほどの、絶大な戦力が必要なのだろうか。まだ答えは出せないけれど、彼が強くなれと言うので、出来る限り応えたいと思う。いつだってヒナタを案じてくれる、兄のような存在のネジを悲しませることのないよう、最大限強く在りたい。いつまでも庇護されてばかりではいられない。
相変わらず、花びらのように散る雪の中、狭い石段を上ったところにある、小さな神社を目指す。かすれた朱の鳥居をくぐると、春から夏にかけては鮮やかな緑に綾なすその場所が、見渡す限りの白に包まれていた。
「……寒くないか?」
「う、うん……」
一つ年上の従兄であり、幼馴染。そして同じ一族の仲間であるネジと、視線を合わせて言葉を交わす。
……そんな当たり前の、至極簡単なことが、どうしようもなく嬉しい。
「このあたたかい日々が、いつまでも続けばいいのに……」
「……そうだな」
今日初めて見たネジの笑顔は、やはり綺麗で儚くて――。見ていられなくて、思わず俯いた。瞬間、雪に足を取られて、転びそうになったヒナタの体を、ネジがふわりと支えてくれた。過去の中忍選抜試験において、圧倒的な力の差で打ち負かされた時とは、比べ物にならないくらいに優しい力で、ヒナタを抱き止めてくれた。
……少しして、笑っていた筈の、ネジの表情が曇った。
「……どうした? そんなに痛かったのか?」
ヒナタの変化に、すぐに心を傾けてくれるネジには、極力心配を掛けたくない。そう思って、最近、彼の前では、ずっと強がっていた筈なのに。不覚にも泣いてしまったのか。
「あ! ご、ごめんなさい……違うの。ネジ兄さんの腕が、あまりにも優しくて……離れ離れでいた頃を思うと、嬉しくて……あなたに余計な心労を与えることのないよう、それよりも、少しでも力になれたらとずっと考えていた筈なのに……本当にごめんなさい」
ほんの一瞬目を見開いたネジが、また柔らかく笑って、声を掛けてくれた。
「なんだ……そんなの、全然気にすることないのに。オレがあなたに心を注ぐのは、あくまでもオレ自身の問題だから、その為に悩まれたりしたら、かえって苦しくなってしまうだろう? だから、泣かないで? ……ヒナタ」
名前を呼ばれることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
……どうして? どうしてこんなにも、息が苦しくなるのだろう。ネジを想うと、何故か心が氾濫して、行き場を失ってしまう。
「ネジ兄さん……わ、私は……あなたにだけは、犠牲になって欲しくない。絶対に、強くなるから……あなたを、籠の中から、解き放ってみせるから……それまでどうか、待っていて……」
「ありがとう。でも、無理はしないで。オレにはその方が辛いから……」
とりわけ清らかな笑みを湛えたネジが、ヒナタのかじかんだ手を取って、大きな手であたためてくれた。少しずつ、体温を取り戻してゆく指先に、ネジの苦しいほどの想いが伝わったような気がして、ひどく切なかった。
また転ばぬようにと、遠慮がちに手を繋いでくれたネジの手に、勇気を出して、指を絡めた。震えながらもぎゅっと握り締めると、ネジもそれに応えてくれた。
石段を上り切っても、二人が手を離すことはなかった。ようやく指をほどいたのは、神社の中の、拝殿に辿り着いてから。水舎で手を清めると、せっかくあたため合った手が、また冷え切ってしまった。正月とはいえ、雪の降り積もる日に初詣に訪れる者はいないようで、その場所はきんと静まり返っていた。
鈍い鈴の音を鳴らして拝礼する。それぞれ、願いは一つだった。
――ネジ兄さんが、幸せでいられますように。
――ヒナタが、幸せでいられますように。
「ずっと、傍に居られますように」
心の中で呟いた筈の願いが、思わず口を衝いてしまった。すぐ隣にいるネジに、聞こえていない訳がない。その姿をそろりと見遣れば、どこか陰のある、冷たくて、でも綺麗な笑顔に、また心が痛んだ。
……しかしてネジの言葉が、
「オレの幸せは、ヒナタの中にしかないんだ。だから、あなただけは幸せでいて? オレに出来ることなら、何でもするから。傍に居て欲しいと言うなら傍に居る。もし必要でなくなれば身を退く……全てはあなた次第だ」
瞬く間に、ヒナタを貫いてしまった。
「ネジ兄さん……っ」
思わず、ヒナタには大きすぎる、逞しくなった体を抱き締めた。幼い頃と全然違う、そのごつごつした腕や背中が、離れて過ごした時間の重さを、否応なく物語ってしまう。
また遠慮がちに、すぐさま抱き締め返してくれた腕の痛みを、ヒナタは決して忘れないと誓った。
「……これから先、何があっても、あなただけは幸せに生きて。生きて、あなたには似合わない忍の世界に居ても、どうか元気で、笑っていて欲しい」
ネジの紡ぐ、言葉も想いも、ヒナタには苦しすぎて、受け止めることが出来ない。
……しかしどうにか整えて、嘘のない心を返す。
「私も、同じ……私だって、あなたには幸せになって欲しい。自由を掴んで欲しい」
ところがネジの次の言承けに、粉々に打ち砕かれてしまう。
「自由なんて無い。オレは、もう何も望まない。いや、望めないと言った方が正しいか……オレは四歳のあの日に、あなたに囚われたまま、今も抜け出せずにいるから」
自由でいて欲しい筈のネジが、今もなお自分のせいで、縛られているのだろうか。
あの頃のまま、悲劇的な運命に捕らわれ続けているのだとしたら、現実はあまりにも皮肉過ぎる。
……そんなの、嫌だ。
「どういう、こと……?」
「要するに、オレには、あなたが一番大切だということだ。だからオレの為にも無事でいて? それ以外はもう、何も望まない」
「……駄目。ネジ兄さんが居なければ意味がない。一緒に日向を変えたい……」
「ならば、先ずはあなたが幸せでいること。それが大前提だ」
「どうして? 私は二人で幸せになりたいの……」
「……オレはあなたが思っている以上に、切実にあなたを想っている。もし大人になっても同じ気持ちでいられたら、その時にまた考えればいい」
しゃんと伸びた背中を、その長い黒檀の髪を――。気づかれないよう、遥か後方から、そっと追い掛け続けてきた。ようやく追い付いたと安堵したのも束の間、また彼はヒナタを振り払い、先へと行ってしまうのだろうか。
日常に根付くネジとの日々は、殊の外あたたかくて、絶対に失いたくないというのに。
「……嫌。そんなの駄目。大人になるまでなんて待てない」
飛び切り優しく、慈しむように頭を撫でてくれるネジが、心底いとおしい。何も知らなかった幼い頃と同じか、若しくはそれ以上に深い愛情が膨らみ、純白だった心を、紅梅から真朱へと染め上げてゆく。
……不意に、切り揃えた前髪に、柔らかく、甘い痺れが走った。驚いて動けずにいると、次は冷たい頬に、繊細な唇が触れた。
そっと見上げれば、ひどく悲しそうな顔をしたネジと目が合って、それからすっぽりと、再び腕の中に収められた。
「……あなたが悪いんだからな。オレはこれまでだって何度も忠告したのに」
涙が、零れた。理由は分からない。でも、ネジがくれた控えめな口づけに、胸が壊れそうなくらいに切なくて、いっぱいになって溢れ出してしまった。もはや、その悲しみさえもいとおしくて、何も出来ない自分がもどかしい。
雪に埋もれても枯れることなく、寒さに耐えて春を待つ。そんな、ユキノシタのような強さを誇れる忍になって、いつか彼を支えたい。
――晴れやかな未来を、曇りのない自由を、誰よりも誠実な彼に贈りたい。
――これからも傍で寄り添い、いつまででも微笑み合っていたい。
陽の光を拾って、きらきらと輝く雪に照らされながら。
ネジの腕の中で、ヒナタはもう一度彼に乞うた。
――何があっても離れないで。