2015.11.12更新
随所に咲き零れる露草が、白い忍装束を、縹色に染めた。
何度も、何度も通っては、その姿を目に焼き付けて――。報われることはないと分かっていても、どうしても想うことを止められない。秋の朝、衣を染める戀の花に、願掛けをする。未だ、淡い縹色のこの衣が、いつか濃い露草色に染まるまで……せめてその近くで、あなたを見守っていたいと。
朝露に触れただけで落ちてしまう「月草染め」は、まるで、自分の願いのように儚いと思う。その存在を忘れられないように、ヒナタに確実に染み込ませるように、色褪せないうちに、幾度でも会いに行こうと決めた。
ヒナタに会うのは決まって夜だった。独りで鍛錬に暮れる小さな手を、少しでも強く、高みへと導く為に。強くなってどうするというのだろう? 答えは明白だった。そしてそれは、ネジにとっては気鬱なものだった。
――あなたを、心から尊敬しています。
――懐かしい関係に戻れて嬉しいです。
――大好きです。
小さな唇が紡ぎ出す全ての言葉が、胸を締め付けて離さなかった。
……いつからこうなった? いや、ずっと、ずっと昔から。何も変わってなどいない。
到底受け止め難い現実に、鍵を掛けて沈めていただけ。数え切れないほどの季節を越えて、実に長い間、想い続けてきた。どうしても、認めたくなかったけれど。認めてしまえば、これまでの軌跡の何もかもを、失ってしまうような気がして。
例に漏れず、今日もまたヒナタと朝を迎えた。東雲の空には白い月が沈み、少しずつ薄橙色の陽が昇り始めている。かつて独りで見た朝日とはまるで違う、ともすれば涙を誘うほどの綺麗な朝。ヒナタへの抱え切れない感情に答えを見つけてしまえば、こんなにも簡単に、見える世界さえもが変わってゆく。全く以て馬鹿げていると、自分でも可笑しいと思うけれど。
「……露草の青ですか? 任務服が、染まってしまいましたね。私の所為で」
「ああ、これくらい何てことはない。それよりも、ナルトが帰って来る前に、強くなっていないとな。大丈夫。最近のあなたは随分成長していますよ」
「ふふ、嬉しいです。優秀な兄さんに直々に修行をつけていただけるなんて、私は、一族一番の幸せ者ですね」
屈託なく笑うヒナタが、いとおしくて仕方なかった。
*
歯痒さを抱えたまま、秋は緩やかに更けてゆく。
ヒナタは、どんどん強く綺麗になって――。胸に掛かるくらいだった髪は、その殆どを隠せるほどに伸びていた。長い髪がよく似合うのは、日向の者ならば当然のことだ。しかし、黒や茶の髪色の中に、たった一人紺藍の、艶のある細い髪は、何故だか殊の外目を引いてしまう。恐らく彼女を目で追っているのは自分だけではない筈だ。冷ややかな顔立ち、鋭い様相を纏う者が多い一族の中で、可憐で清楚なヒナタは、極めて異質な存在なのだ。当の本人は、まるで意識していないようではあるが。
露草に染まる衣は、ようやく縹へと変化した。淡縹だった頃に比べれば、ヒナタを想う心がどうしようもなく膨らんで、今ではもう、息も出来ないくらい。こんなにも苦しい感情があるなんて、忍として心を殺してきたネジには、到底知り得なかった。ヒナタがナルトを想う気持ちも、同じくらいか、若しくはそれ以上に苦しいのだろうか。
……綺麗なだけじゃない戀。優しい言葉だけでは、語り尽くせない。
「あの……ネジ兄さんに、お願いがあるのですが」
「何ですか? オレに出来ることならば、何でも」
――ヒナタと、そう呼んで下さい。ついでに、敬語も止めませんか?
ある時そう請われて、一度だけ、たった一度だけ声に出して言ってみた。
「ヒナタ」
殊更嬉しそうに、ふわりと微笑むヒナタに、また、囚われただけだった。
――ならばあなたも敬語を止めて下さい。でないと、立場上、オレも止められない。
「わ、分かりました……あの、何を、言えばいいかな? こういうの、久しぶり、だね……小さい頃以来」
「そうだな。もう、十年以上前になるかな? じゃあ、平常語でも聞かせて欲しいな。あなたが今のオレを、どう思っているのか」
「……それは内緒。でも、私も聞きたいな。ネジ兄さんが今の私を、どう思っているのか」
「そんなの、言うまでもない。見ていたら分かるだろう? 分からないと言うのなら相当に馬鹿だ」
「分からない。私も言うから、言って欲しい……ねぇ、お願い」
そんな風に言われてしまっては、適当に取り繕うことも出来ない。ヒナタが望むのならば、伝えてもいいだろうか? もはや身を焦がすかもしれない重苦しい気持ちを。ゆっくりと息を吸って、
「オレは……あなたを……何を置いても、 」
……途中で止めた。
不満そうに頬を膨らませるヒナタは、やはり幼い頃と同じ。真っ白で儚くて、無条件に守ってあげたい存在。そう、ネジにとってのヒナタは、可愛くていとおしくて、どうしようもなく大切な人。ずっと変わらない。変わりようがない。だって仕方がないのだ。好きだから。愛しているから。理由など何もない。
「ネジ兄さん。私はね、私は……またこうやって、兄さんの傍に居られることが、嬉しくて仕方ないの。小さな頃から何も変わらない。私はずっと、あなたのことが大好きだから」
本当に、性質が悪い。ヒナタは何も分かっていない。そんなことを言って、ネジが何を思うのか、その一言で、どんなに心を縛られるのか、尚以て理解しないのだから。
再び、息を吸った。少しだけなら、ほんの少しだけならと、
「ありがとう。オレも嬉しい」
……想いを伝えた。
露草の花が、揺れている。色褪せない二人の記憶を、優しく標すように。
ただただ鮮やかで、かつて共に見た青い空を、今も変わらぬ自由への憧憬を……真っ直ぐに、照らし出しているようで――。
出逢った悲劇に、永遠の苦しみに、いつまででも抗ってやろうと、改めて心を結んだ。
*
――月草に、衣ぞ染むる、君のため、綵の色衣、摺らむと念ひて。
月草(露草)で衣が染まりました。あなたの元から、帰る朝に。そう、こうやって何度も通って、色衣に染めようと思います。
月草尓 衣曽染流 君之為 綵色衣 将摺跡念而(万葉集・第七巻)