2015.11.09更新
――大切な人。かけがえのない人。傍に居たいと願ってやまない人。
確かにヒナタはそう言った。自分にとってのネジは、主人と従者では無い。大好きな人なのだと。
夜、ヒナタは決まって独りでいる。宗家の目の届かぬところで、修行に集中したい為だと言って。よって任務のない日は、ネジはヒナタを探しに行く。白眼を以てすれば簡単だが、敢えて、使わずに……自らが持つ本来の目で、彼女を捕らえたいから。
演習場にいなければ、恐らく、どこかで季節の花を見ているのだろう。そしてまた、ナルトを想って涙しているのだろう――。辿り着いたのは、桔梗の咲き乱れる草地だった。気品溢れる、深紫の、星の形をしたその花は、秋風に揺れ、さらさらと、心地よい音色を奏でていた。ネジの気配に気づき、ゆっくりと振り返ったヒナタの目に映る深紫の星は、藍白の光を拾って、きらきら、二藍に輝いていた。とても綺麗だと、不覚にもそう思ってしまった。
ヒナタが見る世界を、自分も必ず見ている。たったそれだけのことを実感する為に、懲りずに彼女に寄り添うネジは、やはり今も、籠の中に囚われたままなのかもしれない。
「ネジ兄さん! 今夜も来て下さったのですね……あの、別に修行をさぼっている訳ではありませんよ。少し、休憩です。まだ、あなたに見せられる段階には達していませんが……いつかきっと、決して越えられなくとも……隣に並べるくらいには、成長いたしますので。ですから、それまで諦めずに待っていていただけますか?」
そう言って、ヒナタは優しく微笑んだけれど。その向こう側に、幾ら努力しても、決して報われぬ現実への、絶望の色が見て取れた。
ヒナタの笑顔も泣き顔も全部、自分にくれればいいのにと思う。だって、ヒナタはネジの、鏡だから。生まれてくる場所を間違えてしまった。その結果、しなくてもいい苦労を背負い込み、数え切れないくらいに深く傷ついてきた。
ヒナタは血統には恵まれているのに、実力が追い付かず、誰にも必要とされない。果ては実の父親にまで見放されて、一族内では腫物を触るような扱いを受けている。一方のネジは、忍としての能力には恵まれているというのに、分家の血筋が、出生が、いつだって邪魔をする。果然父まで失って、何を支えに生きていけばよいのか、分からなくなったことさえあった。
でも、今は違う。ネジにはヒナタが居る。気難しく、周囲の者と打ち解けるのが苦手なネジを包み込んで、あたたかく受け入れてくれる。そんなヒナタに囚われて、どうしようもないくらいに侵されてしまう。名もないその感情に、ようやく答えを見つけられたのは、先日、自分の為に涙するヒナタに征服感を覚えたから。ヒナタの心を自分で満たしたい。ヒナタの心を蹂躙したい――。
ヒナタが好き、などと生温い言葉を宛がうには、ネジの想いはあまりにも深すぎるけれど。
「強くなければいけませんか? ヒナタ様は、ヒナタ様なりの幸せを見つければいい。あなたはオレが守ります。それでは駄目なのですか?」
息苦しくなって問えば、ヒナタの答えは、ネジの心をまた引き裂いてしまう。
「……だって、いつか私は、ナルト君の支えになりたいから。忍として、見劣りする訳にはいかない。強くならなきゃ」
そこには、ネジの知らないヒナタがいた。濃青の、夜の闇に浮かぶ真っ白な花にも見えていた彼女が、急に大人びて見えて――。清らかな筈の従妹が、どこか妖艶にさえ映った。
そんな、思わず息を飲むほどに綺麗なヒナタが、恋い慕う相手とは――ネジとはまるで正反対の――華やかな世界に身を置く男。堅苦しく古風な自分が、到底敵う筈もない。むしろ一度手合わせした際、清々しいほどに恰好悪く完敗している。ヒナタは自分の負わせた怪我の所為で気を失っていて、その姿を見られなかったことが唯一の救いだった。
……勝てる訳がない。弱いヒナタを引っ張ってきたのは、他でもない。自分ではなく、ナルトだから。
*
ある秋の日の任務帰り、近くにいた小隊から、ヒナタの属する八班が深手を負ったと聞いた。
班員と別れて、慌てて駆け付ければ。そこには、二藍の忍装束が、無残にも血の赤に染まり、ひどく青褪めた顔で横たわるヒナタがいた。途端に全身を駆ける戦慄の波に飲まれて、握り締めた拳には、血が滲むほどだった。
処置をしてくれた医療班の申し出を断って、同じ一族の者だからと、気を失ったヒナタを抱いて里へと向かった。ネジの白い上衣も赤く汚れてしまったけれど、それがヒナタの血なのだと思うと、喜びさえ覚える自分がいた。ヒナタに出逢ったことはネジの終わりを意味していたのだろうか。こんなにも苦しいのならば、彼女という存在を、知らないままでいたかった。
曇り空の夕刻、陽は完全に陰っていて、木の葉の森は、濃青の暗い光に包まれていた。ネジに医療忍術の知識はないが、せめて血と汗を拭ってやろうと、一度、川のほとりにヒナタを下ろした。すると――。
「……離さないで」
小さな、ともすれば聞き逃してしまうくらいの、か細い声が耳を掠めた。その声の方を見下ろせば、不安そうにネジを見上げるヒナタが、力なく腕を掴んできた。
「……大丈夫。応急処置は済んでいます。見ていられないので、少しだけ、あなたを綺麗にさせて下さい」
ネジは精一杯の優しい笑顔で、そう呟いた。しかしヒナタは、どうしてもネジから離れなかった。
「ネジ兄さん……ごめんなさい。今だけ、お願いだから、抱いていて下さい。怖くて、不安で、どうしようもないんです」
「ヒナタ様、大丈夫です……オレが傍に居ます。ゆっくり息をして下さい……怖くないから」
小刻みに震えるヒナタの髪を、とりわけ穏やかに撫でてやった。気持ち良さそうに笑うヒナタは、驚くほどに綺麗だった。離れたくないと言うので、膝の上に抱いたまま、川の水で濡らした手巾で、見える範囲の怪我の痕をなぞった。
「……んっ、んん」
苦し気に眉を寄せるヒナタが、ひどく艶っぽく見えて、ネジは不謹慎にも、行き場のない熱を覚えてしまった。弱っているのをいいことに、血に塗れた忍装束のジッパーを下ろして、網状のインナーを露にした。鎖骨から下に付いた血も拭いてやると、ヒナタはまた不安そうに、こちらを見上げた。すぐさま我に返り、乱した着衣を元の体裁に戻した。ようやく安心した表情を見せたヒナタが、弱々しい力で縋ってきた。ネジもすぐに応えて、怪我が痛まないようにそっと抱き締めた。
「わ、私……本当に駄目ですね……強くなるだなんて、とんでもない。いつも、誰かに守られてばかりで。今だって、多忙なネジ兄さんの手を煩わせている上に、幼い子供のように、甘えてしまって……」
「いいんです。その為にオレが居るのですから。生きている限り、必ずあなたの傍で……」
「傍で、何ですか……?」
「どんな明日が待っていても、あなたのことだけは守り抜きます」
――たとえあなたが、他の誰かのものになったとしても。
――たとえオレが、死んでしまったとしても。
口に出して言ってしまえば、きっと、優しいヒナタを困らせることだろう。その後に続く言葉は、どうにか飲み込んだ。ところがヒナタは、やはり幼い子供のように、ネジの心情を過敏に感じ取ったのか、その胸に、思い切り顔を埋めてきた。あまりにいとおしくて、華奢な体を包む腕に、少しだけ力を籠めた。
「あ、あの……出過ぎたことを申し上げますが、破滅的だったり、自己犠牲的な考え方は駄目ですよ? ネジ兄さんの存在は、一族だけでなく、もはや里にとってもなくてはならないもの……私なんかを守るよりも、もっと大切なことがある筈です」
ヒナタ以上に大切なものなど、ネジには一つも無い。何を言われようとも、己の信条を貫こうと思った。一体、いつからこうなったのだろう。ヒナタのことが、嫌いだった筈なのに。
嫌い。そうやって言い聞かせていた間も、ネジの心の中には、いつだってヒナタが居た。その存在を、片時も忘れたことはなかった。もっと早く認められていれば、彼女の心を、他の男に奪われることはなかったのだろうか?
……昔は、あんなにも近くに在ったのに。
「そんなものは無い。自分を棄てるつもりもない。オレにはあなたしか居ない」
ヒナタを不安にさせないように、精一杯の言葉を紡げば、ネジの服に添えられた手に、僅かに力が籠められた。そして、ヒナタからの言承けが、ネジの胸を深く貫いた。
「ずっと、傍に居て下さい。どんなことがあっても、離れないで……」
それは、従兄として? 仲間として? 従者として? いや、何だっていい。ヒナタが生きていて、幸せならば。
どんな形であれ、ヒナタがネジを求めてくれている。それだけで十分だ。
やっと手に入れた宝物に、生まれて初めて心から安堵し――。
……穏やかに笑った。
*
――言に出でて、云はばゆゆしみ、朝顔の、穂には咲き出ぬ、恋もするかも。
口に出して悪いことが起こるといけないので、朝顔(桔梗)の花の如く、目立たぬように恋をするのです。
言出而 云者忌染 朝皃乃 穂庭開不出 戀為鴨(万葉集・第十巻)