2015.11.03更新
任務先の野営地にて。夜、青褪めた世界に咲き誇る、経青緯黄の女郎花を見ていた。
幾分冷たくなった秋風に吹かれ、寂しげに揺れる繊細な花は、ある人を彷彿させて、何故だかひどく苦しかった。
……そう、最後に彼女を見たのは。
「ナルト君、早く帰って来ないかな……会いたい……」
また、一月ほど会えなくなるから。この目にしっかりと焼き付けておきたい。そっと近づいた後ろ姿は、届かぬ想いに身を焦がし、涙に濡れていた。
ずっと遠ざけ続けていたけれど、ようやく隣に並べるようになった。笑い合えるようになった……これから、もっと近づけると思っていた。それなのに。やっと打ち解けた筈の従妹に、声を掛けることが出来なかった。
その想い人は、ヒナタには相応しくないとネジは思う。木の葉の名門一族に生まれて、過保護とも言える扱いを受けてきた彼女は、世間知らずなのだ。だから彼のような、型破りの男に惹かれてしまうのだろう。同族内で長らく虐げられ、窮屈に生きてきたネジにも分からなくはない。しかし、ナルトという男は、ヒナタとはあまりにも住む世界が違い過ぎる。上品で淑やかな彼女と、凡そ釣り合う相手ではない。これまでの日向の慣習に逆らわず、同族婚にて血統の純潔性を保つべきだ。あんな粗暴な男に、ヒナタはやれない。
では、誰が? 誰がヒナタの相手に相応しいと言うのか。幼い頃から彼女を庇護してきた付き人のコウ……それでは力不足だ。非力な姫君を守り、支えてゆく為には、一族を代表する、屈強な者でなければ。自分だったら絶対に、ヒナタを守り抜く自信があると言うのに。
……守る? ヒナタを? どうしてそう思うのだろう。忍としての彼女が、自分よりも明らかに劣るからだろうか。それとも捨て猫を憐れむような、そんな気まぐれにも似た感情からだろうか。恐らく特別なことなど何も無い。全く以て馬鹿げている。
……父親でもないのに余計な心配を巡らせる自分が、どうしようもなく滑稽だった。
しかし俺だったら、俺が傍に居れば、あなたを幸せに導くことが出来る。もし、それを伝えたら?
――私は、ネジ兄さんが下さる大切な言葉を、絶対に忘れませんからね! ずっと覚えているので、覚悟していて下さい。
あなたは、喜んでくれるだろうか。
丸く、青い月を見上げながら……ヒナタも今この瞬間に、どこかで同じ空を見上げているのだろうか。そんな下らぬことを、真面目に考えた。夏の終わり頃、柔らかなヒナタの体温を感じてからというもの、ひどく胸が痛むのだ。ネジの前で屈託なく笑う彼女を見ていると、息苦しいほどの熱を覚えて、辛かった幼少期の記憶さえも、淡く優しい色に塗り替えられてゆくような気がする。
思えばヒナタは、いつだってネジを案じてくれていた。どんなに突き放しても、どこまで傷つけても、諦めずに、ずっと想い続けてくれていた。彼女を想うと、どうしてこんなにもあたたかい気持ちになるのだろう。
未だ闇に囚われたままのネジにとって、いつしかヒナタは、唯一の光となっていた。
鈴虫の声が、こだましている。鈴の音のように澄んだ、甘やかな声を思い出した。早く任務を終えて、無事に里へ帰って……早くその声が聞きたい。一体自分はどうしてしまったのだろう。ネジは、些か自嘲気味に笑った。
*
これまでに経験したことの無い、虞にも似たもどかしさを携えて、ようやく生まれ育った場所へと戻ってきた。ヒナタは、相変わらずふわりと微笑んで、あたたかく迎え入れてくれた。
「……ネジ兄さん、おかえりなさい。ご無事で、何よりです」
その消え入りそうな笑顔は、誰を想ってのもの?
鎖骨に掛かった髪が揺れて、さらさらと風にたなびく様子は、少し驚くほど。
……ヒナタは、本当に綺麗になった。
見た目の綺麗な女など、それこそ掃いて捨てるほど、星の数くらいに居る筈なのに。敢えて、自分に似たこの人に見惚れてしまうのは……一体、何故なのだろう。きっと、任務に疲れておかしくなってしまったのだ。だが、ずっと恋しかった姿を捕らえれば、ひどく安心して、気づけばネジは笑みを零していた。
「あ! やっと、笑ってくれましたね。嬉しい……ネジ兄さんの笑顔は、どんな美人さんのものよりも、とても綺麗です」
やはり、息が苦しい。少し笑ったくらいでこんなにも喜んでくれる。もはや儚いほどに清らかなヒナタを、もっと、もっと幸せな気持ちにしたい。本当にどうかしている。疲れているから、そう思うのだろうか。分からない。ただこれだけ言えるのは……彼女の居るこの里を、この世界を、今はもう嫌いではないということ。一時は全てが忌々しくて、何もかもが消えてなくなればいいのにと思うほどに荒んでいた。ところが、あの苦しかった日々が嘘のように、ヒナタの声や仕草、紡がれる言葉には、随分救われてきた。礼などは、言えないけれど。言ってしまったら、ネジの中で、何かが音を立てて崩れてしまうような気がするから。
……ありがとう。ここに居てくれて。
仕方なく、心の中で呟いた。無言の声が聞こえたのか、ヒナタは一層微笑んで、それからネジの袖を掴み、歩き出した。突然のことに、縺れた足をどうにか整えて後を追った。
「ネジ兄さんに、見せたいものがあるんです」
間もなく、夜の深い色に包まれてしまう。こんな森の果てに、一体何があると言うのだろう。それくらいに辺鄙なところへと連れられて、少々訝しく思っていたら、そこには。
黄色、黄色、黄色。
辺り一面の女郎花。
少し前に独りで見た――くすんだ経青緯黄の、青い月に照らされた――花とは、まるで違って見えた。それは、間違いなく同じ花の筈なのに。宵闇に煙った視界が、ヒナタによって柔らかく照らされていて、優しくてあたたかい。この感覚は何なのだろう。
「綺麗でしょう? 修行中に、見つけたんです。独りで見るのは味気なかったのに……こうやって二人で居ると、まるで別の世界に来たみたい」
ヒナタも同じ気持ちでいてくれた。ただそれだけのことが、どうしようもなく。
「……嬉しい」
不覚にも、思ったことが、口を衝いていた。
すると一瞬目を見開いたヒナタが、緩やかに首を傾げて、これ以上ないくらいに笑った。畢竟嬉しかった。
秋の夜、涼やかな音色に囲まれて、冷たい風が吹く。しかしヒナタといると、それすらもあたたかく心地よい。暫くして、すっと息を吸い込んだ小さな唇から、優しく紡がれる言葉を待つ。期待してしまう。また、自分を求めてくれるのではないかと。
「最近、シノ君はよく別任務に駆り出されて、キバ君も、赤丸との修行で忙しくて……それに、ナルト君は一年以上帰って来ない。寂しいです」
……違った。
一年半前、中忍選抜試験で対戦し、これでもかと言うほどに深く、ひどい傷を負わせた。だが結局はネジを許し、受け入れ、寄り添ってくれるヒナタに、驕りにも似た感情を募らせてしまった。そんな自分が、ひどく滑稽で情けない。同じ一族の仲間で、従兄で、幼馴染。ヒナタにとってのネジは、それ以上でも、以下でも無い。それからどんなに抗っても、主人と従者であるということを忘れてはならないのだ。優しいヒナタは、否定するかもしれないが。
「……オレがここに居ます。それでは駄目ですか?」
少し掠れた声で、意を決して口にした言葉は、さわさわと吹く風の音に、掻き消されてしまった。届かない。どんなに想っても、ヒナタは一番近くて、一番遠い存在だから。
……想う? ヒナタを? 自分でも分からない。どうしてこんなにも苦しいのか。彼女を見ていると、苦汁を嘗めた幼少時代を、否応なく思い出してしまうからだろうか。心の中が真っ黒に蠢いて、息も出来ないくらいに侵されて、支配され続けている。幼い頃からずっと……ずっとこの人に。この重苦しい感情を、一体何と呼ぶのだろう。
「ネジ兄さんが傍に居て下さるのは、当たり前のことでしょう? だって、私たちは……」
「主人と従者、だからな。そんなことは、言われなくても分かっています」
「違います。私にとってのあなたは」
「違わない。それ以上は、何も言わないで……」
耐え切れなくて、目を伏せた。詰まらぬことにいじける自分が可笑しかった。
相変わらず、辺りには、鈴の音のような虫の声が響き渡っている。夜風は冷たくて、容赦なく肌を差す。ヒナタが冷え切ってしまわないかと、また心を引き摺られた。
「大切な人。かけがえのない人。傍に居たいと願ってやまない人」
不意に背伸びをしたヒナタが、ネジの頭をぽん、と撫でてくれた。一瞬にして、心を貫く言葉を紡ぎながら。狡い人だ。こんな風にされてしまっては、自由でいたい筈の心が、また囚われてしまう。
瞬く間に溢れ出した想いに気付かれぬよう、ネジは慌てて仏頂面を貼り付けた。ヒナタは切ないくらいに儚い笑顔を向けてくれた。胸が痛んで、今にも粉々になりそうだった。
今なら、言えるかもしれない。もう一度、
「オレが傍に居れば、あなたを幸せに導くことが出来る……と思いたい。迷惑、ですか?」
途端に早まる鼓動に押し潰されそうになりながら。もう一度、
「オレも、あなたが大切です。かけがえのない存在……」
ところが。
喜んでくれると思って必死に紡いだ言葉は、ヒナタを思い切り、泣かせてしまった。
触れたいのに触れられない。もどかしくて、眉を寄せた。そう、ヒナタは意外にも、あまり、涙を見せない方なのだ。こうやって、子供のように啼泣する姿は珍しい。それが自分のせいなのだと思うと、申し訳ない反面、征服感のようなものが込み上げた。やはりどうかしている。彼女を目の前にすると、普通ではいられなくなってしまう。
「ずっと、大好きなあなたに、そんな風に言って貰えて、嬉しい……」
嗚咽に乱れた声でヒナタは言った。心を掻き乱されて、どうしようもなくなって、その小さな体を、少し乱暴なくらいに引き寄せて――。幼い頃とは随分違う、逞しくなった腕の中へと収めた。
……自分でも理解出来なかった。何故、そんなことをしたのか。
でも、どうしても止められなかった。
*
――我が里に、今咲く花のをみなへし、堪へぬ心に、なほ恋ひにけり。
自分の里に咲く、女郎花のような可憐な人のことを、耐えられないほどに慕わしく思う。綺麗になったあの人のことが。
……ひどく恋しい。
吾郷尓 今咲花乃 娘部四 不堪情 尚戀二家里(万葉集・第十巻)