2015.10.24更新
寂し気な蜩の声が、ここ、木の葉の里にも、晩夏の報せを運んできた。
近々、日向宗家にて、饗宴が催されることになっている。皆で会席料理を囲み、この夏に上忍へと昇格した、ネジとコウの祝いをしようというのだ。それは謂わば建前で、普段虐げられてばかりの大人たちが、酒を飲んで羽目を外したいが為の会合であることは言うまでもない。
――面倒だな。何も目出度いことは無いというのに。オレたち分家の者が強くなればなるほど、宗家の肥しになるだけだ。全く以て阿保らしい。
堅苦しい正装に身を包み、思ってもいないことを口にして、偽物の笑顔を貼り付ける。そんな見せかけの祝宴に、一体何の意味があるのだろう。
ネジは、いつにも増して苛々していた。
「ほら、上忍になったオレたちの新しい羽織だ。今度の饗宴に着てくるようにと宗家から預かっている」
「……コウか。すまないな。それにしても億劫だな。下らない虚礼など、全て廃止にしてしまえばよいものを」
「ネジ……お前、もう上忍なんだから大人になれよ。これから、幾らでも不本意なことは起こり得る。今までだってそうだっただろう? オレたち分家は諦めるしかないんだ」
「それにしても腹が立つな。宗家の者どもは、別にオレたちの未来になど興味はない筈だ」
「でも、ヒナタ様はそうでもないだろう?」
「いや……分からんぞ。あの人が一体何を考えているのか、さっぱり分からない」
「ああ、そうだろうな。ネジには、見えないだろうな……」
「……どういう意味だ?」
「いや、何でもない」
含みのあるコウの物言いにも、殊の外腹が立った。どいつもこいつも、一体何だと言うのだ。
そもそも、位別に色分けされた羽織を身に着けるなど、階級によって人々を隔てている馬鹿げた社会そのものだ。如何にもこの不毛な一族らしい発想である。ネジはつくづく失望した。
中忍の頃に宛がわれた紺桔梗の羽織をしまい込み、上忍の証である紅を、日向の家紋入りのそれを、部屋の片隅に掛けておいた。しかし、視界に入るだけで、心が真っ黒に蠢いてくる。仕方なく、新しい羽織も箪笥の中へ押し込んだ。
*
煩わしい宴会の日は、早朝、蜩の鳴き声で目が覚めた。その特徴的な声はどこか物寂しくて、相変わらず孤独な自分を嘲笑われているかのようで嫌になった。ヒナタと心温まる時間を過ごしたのは、つい一ヶ月前のことだというのに……共に夏祭りに出掛けたのは夢だったのかと思うくらいに、ネジの中では遠い記憶となっていた。
――私、ネジ兄さんが里に帰ってきたことが、本当に嬉しかったんです。だから、一緒に過ごす時間が持ちたくて……。
――別に、かしこまった理由がなくとも、一緒に過ごせばいいでしょう?
あの夜はどうかしていた。熱にでも浮かされているかのように、まるで柄にもないことを口にした。ヒナタは終始嬉しそうにしていて、その清らかな笑顔を見ていると、また心を攫われそうになった。
宗家への悪意に満ちた自分を、真っ直ぐに慕ってくるヒナタの気が知れない。あんなにも柔らかく微笑んで、隙だらけの、ともすれば何をされても文句を言えないような態度で接してくる彼女に、些か戸惑いを覚えたほどだ。
――何だったら、一度痛い目に遭わせてやろうか?
奥に閉じ込めていた筈の、非道な考えが頭をよぎった。こんな気持ちで彼女に会って、また意地悪なことを言ってしまわないように気をつけなければ。無垢過ぎるヒナタに、皮肉や嫌みは一切通用しない。その純真な心に触れれば、自分がひどく汚れているような気がしてしまうのだ。いや、気がするのではなく実際に汚れている。真っ白なヒナタを見ていると、対して真っ黒な自分が映し出されてどうにもならない。そして油断すれば、こうやって瞬く間に心を侵されてしまう。尚以て本意ではないが、引き摺られてしまうものは仕方がない。気にしたところで、どうせ無駄だと分かっているけれど――。
長期任務により、一年間離れていた時は心が洗われたように澄んでいたというのに。また、彼女と顔を合わせることが日常になれば、忘れかけていた不穏な感情が、いつの間にか蘇ってきてしまった。
暫く考え事をしていると、白かった視界が、少しずつ鮮やかな色に染まってきた。宗家へは午前中に行かなければならない。まだ明るい時間から酒を飲んで、例に漏れず馬鹿騒ぎする大人たちを想像すると、何とも言えない嫌悪感を覚えた。
唐撫子の地模様で織られた、白い正絹の着物に身を包む。そう、幼い頃から身の回りの全てをこなしてきたネジに、着付けが出来ない訳がなかった。それなのにヒナタは、先月、至って簡素な着物を着る手伝いを申し出てきた。数ある和装の中でも、浴衣ほど単純なものはないというのに。一体何のつもりだったのだろう。ネジには、およそ理解出来る筈もない。
鳴り響く蜩の声を五月蝿く感じながら、新しい羽織を持って家を出た。もう暮れとはいえ、この暑苦しい季節に正装を強いられる意味が分からない。まるで節操のない者どものことだ。どうせ乱れるのだから、普段着でよいのではないか。無駄な時間を過ごさざるを得ないことに、ひどく苛立った。
宗家の屋敷に着くと、ネジの目に、信じられない光景が飛び込んできた。嫡子ともあろうヒナタが、揃いの唐撫子の着物を着て、その上に、下忍を示す翠色の羽織を纏っている。そこまでは何らおかしくはない姿だが……袖をたすき掛けにして、女中たちに交じって走り回っていたのだ。思えば、ずっと昔から、この人は己の身分というものに無頓着であった。しかしそれにしても、あんまりではないか? ふと宴会場を見遣れば、次女のハナビは一人だけ黄色の振袖を着ていて――。率先して動き回るヒナタを気にも留めず、当主と見紛うほどにふてぶてしい態度で座っている。何故だか、殊更頭にきた。
「オレたちは主賓だ。そんなところに突っ立っていないで、奥に座れ」
健気な後ろ姿にまた心を引き摺られていると、見知った男の声が聞こえてきた。長髪の古風な自分とは違う、短髪の爽やかな空気を漂わせた、二つ年上の親戚だ。同時期に上忍に昇格したとはいえ、その実力差は明らかで、手合わせをすれば間違いなく自分が勝利するだろう。だが彼の持つどっしりと落ち着いた雰囲気には、幾らか気後れしてしまう。もはや悟りの境地とでもいうのか、宗家からの不条理な要求を、彼はいつも余裕の笑みで受け止めている。その面に関して、実直なネジには、到底敵いそうもなかった。
「……コウ。果たして今日は、いつ解放して貰えるのだろうな」
「ネジ……お前、ここまで来たらもう頭を切り替えろよ。考えたって仕方ないだろう? ある意味、これも仕事のようなものだ。逃れることの出来ない勤めだ」
「しかし、誰一人として喜ぶ者はいないというのに、こんな上辺だけの集まりに、納得出来る訳がないだろう? 違うか?」
「まあ、そうだが……腹を立てたところで現実は変わらないのだから、受け流していればいい」
「……それが出来れば苦労はしない。オレはお前のようにはなれない」
紅に身を包んだ二人は、どこか大人びているような気がする。紺桔梗を羽織っていた中忍の頃のように、滾る感情を隠そうともせぬ態度は、周りの目にはしたなく映ることだろう。それも癪だからと、ネジはどうにか不機嫌をしまい込んだ。
しかしてつまらぬ祝宴は、最上位である黒の羽織を纏った当主・ヒアシの乾杯の音頭で始まった。
「木の葉にて最強と名高い日向において、また、若き上忍が二人誕生した。ワシは、お前たちを心から誇りに思う。宗家の面々は、分家より明らかに劣る自分たちを省みて、もっと精進しなさい。そして一族で一丸となって、今後の日向の発展に力を尽くしてくれ。だが、まあ、今日は祝いの席だ。堅苦しいことは一旦脇に置いて、親睦を深め合ってくれ」
――誇りに思う、だと? オレたち分家を捨て駒くらいにしか考えていないくせに。それに、宗家が分家に劣ることがあり得ぬような物言いは捨て置けん。生まれなど関係ない。結局は個々の能力ではないのか……!
一瞬にして傾いだ心に、蓋をすることが出来なかった。溢れ出した黒い感情に、またしても飲み込まれてしまった。そして、そんなネジをさらに煽るのは、相変わらず、忙しそうに駆け回る従妹の姿。馬鹿な大人どもに酒を注いで回っては、絶えず使用人にも気を配り、配膳の手伝いをしている。一族の者たちは、宗家も分家も、男も女も、その状況をさして気にする様子もなく、当たり前のように受け入れている。自分が主賓でなければ、すぐにでも止めさせるのにと思うと、本当に遣り切れなかった。
――だから言ったのに。舐められて、下に見られて、あなたは悔しくないのか? 仮にも、宗家の長女なんだぞ……!
折角の料理もまるで味がしなくて、四六時中ヒナタに注がれる心を、自分でも、食い止めることが出来なかった。隣のコウはやはり彼らしく、終始穏やかに振る舞っていた。時折腕を小突いてきては、些か沈んだように見えるネジを、さりげなく気遣ってくれた。腹立たしい気持ちと、申し訳ない思いが綯い交ぜになった。
「ご挨拶が遅れてごめんなさい! コウも、ネジ兄さんも、上忍昇格、おめでとうございます」
ようやく自分たちの元へとやって来たヒナタは、どことなく疲れているように見えた。手には大きな急須を持っていて、半分くらいまで減った湯飲みに、温かい緑茶を注いでくれた。彼女は、まだ何も口にしていないようだった。
胸の辺りまで伸びた髪を、紅い蝶々結びで縛っているヒナタは、いつもと雰囲気が違って見えた。その姿を近くで捕らえると、一気に込み上げた情動を、どうしても抑え切れなかった。
「……ヒナタ様。蔵に行って、酒を持って来て下さい」
「えっ? ネジ兄さんには、まだ駄目です。お茶で我慢して下さい」
「……いいから。早く持って来い」
いつになく高圧的なネジに、ヒナタは渋々従った。そして呆気に取られるコウを置いて、ヒナタの向かった先を追い掛けた。宴会場を振り返ると、案の定、大人たちは酒に飲まれて滅茶苦茶になっていた。
それから、庭の片隅にある蔵に入って行こうとする、ヒナタの背中の紐を引っ張った。一瞬、体勢を崩した彼女を受け止めて、無理矢理に手を引いて宗家の屋敷を出た。ヒナタは縺れた足取りで何とか着いて来たが、ひどく戸惑っている様子が、掴んだ手首から痛いくらいに伝わった。
「あ、あの……ネジ兄さん? お酒は? あの、どこへ行くのですか?」
「……あなたは黙っていて下さい」
無言のままに、すぐ近くの分家の屋敷まで連れてきた。玄関に入って鍵を掛けると、その華奢な体を、無機質な壁へと乱暴に押し付けた。押さえ込んだ肩は震えていて、ネジを見上げる目は恐怖に色づいていた。衝動的にしてしまったことだったので、ネジは自分でも訳が分からなかった。身分にそぐわぬ扱いを受けるヒナタを見ていると、何故だか腹が立って仕方がなかったのだ。
片手でヒナタの動きを封じるなど、ネジにとっては造作もないことだった。空いた方の手で、細いえりあしの、紅の蝶々結びをほどいた。さらさらと零れ落ちた紺藍の髪からは、またしても花のような甘い香りが広がった。
次いで腕の付け根辺りに揺れる、たすき掛けの紐をするりと解いた。ヒナタはされるがままで、抵抗しようともしないその消極的な態度に、一層苛立った。
思えばここにヒナタを上げるのは、父が存命だった頃の、ずっと昔のこと以来だった。父に花を手向けたいと言う彼女を、これまで何度も突っ撥ねてきたというのに――。自分でも、何故こんなことをしたのか、本当に理解出来なかった。
彼女を縛るものから解放してやると、ネジは、容赦なく口を衝く言葉を、止めることが出来なかった。
「あなたは、自分の立場を分かっているのか? 分家の為なんかに駆けずり回って……そんなんじゃ、いつまでたっても虐げられたままだぞ。少しは考えたらどうなんだ」
その荒々しい口調に、ヒナタはぎゅっと目を閉じて、体をびくんと震わせた。少しして、恐る恐る目を開くと、尚も怯えたまま、困ったように口を開いた。
「……私は、ただ、コウとネジ兄さんが、上忍になったことが嬉しくて……それに、普段厳しい世界に身を置いている皆様に、少しでも楽しんでいただきたくて……」
「馬鹿だな。誰も楽しんでなんかいない。皆、義理で参加しているだけだ。上辺だけの、虚しい集まりだ」
「そっ、そんな……皆、笑って下さっていたのに……」
「そんなの、見せかけに決まっているだろう? そんなことも分からないのか……!」
「う、嘘……いつもは遠慮がちな方も笑い掛けて下さって、喜んでいただけているとばかり、思っていたのに……」
これ以上は駄目だと分かっていても、ヒナタを想うと、どうしても抑えられなかった。本来は尊ばれるべき立場のヒナタが、一族の中であんな扱いを受けていることが、我慢ならなかったのだ。
「……いい加減、気づいたらどうだ? あの一族の中で、あなたはいつも馬鹿にされて、いいように扱われている。要するに、皆にとって、取るに足らぬ存在だということだ。仮にも宗家の長女が、情けなくないのか?」
しまった……! と思った時には、もう遅かった。
ネジの容赦ない言葉を承けて、ヒナタの瞳の色が、畏れから哀しみへと変わってしまった。そしてあっという間に溜まった涙が、勢いよく溢れ出した。白い頬を伝う滴がきらきらと輝いて、不謹慎にも、綺麗だと思ってしまった。
大切な筈の従妹を、泣かせてしまった――。ネジは、ヒナタを傷つけた自分に、ひどく傷ついた。
「……それは、ネジ兄さんにとっても、ですか? あなたにとっても……私は、取るに足らない存在なのですか?」
陽が傾き始めて、少し薄暗くなってきた玄関には、涙が落ちる音と、蜩の寂しげな鳴き声が、絶え間なく響いている。戸の隙間から差す光が紅い線を描いて、二人を真っ直ぐに繋いでいた。
言葉を、探す。彼女を想い過ぎるあまり、つい、空回りしてしまった。
「違う。オレにとってのあなたは……」
――無条件に、守りたい存在だから。放っては、置けないから……!
言えない。そんなことを、言える訳がない。
相変わらず、涙に濡れた目で見上げてくるヒナタを見下ろしていると、心が、壊れそうになった。
「……他人の昇格を喜んでいる場合じゃない。血統はあなたの方がずっと上なんだ。忍として恥ずかしくないのか? 悔しかったら追い付いて来い。強くなれ」
無意識に紡ぎ出された言葉は、やはり棘のあるものだった。また、余計なことを口にしてしまった……しかしヒナタはふわりと微笑んで、ネジを、その目に優しく映してくれた。胸が締め付けられて、手に持ったままの二本の紐を、千切れそうなくらいに握り締めた。
「ゆくゆく、上忍の長として、深紫の羽織を着るのはあなたです。そして、いずれは当主の黒を……私は、あなたを隣で支えたい。それで十分です」
小さな唇から、静やかに零れ落ちた言葉に、動揺を隠し切れなかった。逃げられないよう、彼女を壁に押さえ付けた腕に力を籠めて、その意味を問わずにはいられなかった。
「……隣? 隣、とは? それは、どういう……」
「その質問に答える前に、私の問いにも答えて下さい」
曇りのない真っ直ぐな視線が痛くて、ちゃんと、想いを伝えなければと思った。だんだんと上昇してゆく鼓動に、息が苦しくなった。だが、意を決して口を開いた。
「……あなたが、心配なんだ。心配で心配で、仕方ないんだ……! だから、自分をもっと、大切にして下さい」
言い終わるより先に、ヒナタから、目を逸らしてしまった。これまでひた隠しにしてきた本音を、彼女は一体、どんな顔で受け止めてくれるのか、それとも、拒絶されてしまうのか。怖くて、怖くて、直視出来ずに俯いた。
二人の間に、沈黙が訪れた。外の蜩は、尚も悲しそうに泣いている。
……暫くして、胸の辺りに、小さな手が触れた。慈しむようにそっと這わされた指に、驚いて顔を上げた。
ヒナタは、飛び切り可愛く笑ってくれた。
思わず、力が抜けた。それから壁へと押し付けていたヒナタから、ようやく手を離した。
……すると、何を思ったのか、ヒナタが、背中に腕を回してきた。次の瞬間、甘い匂いが、鼻を掠めた。胸がひどく締め付けられて、思い切り、目を瞑った。あたたかくて、柔らかくて、幸せで――。抱き締め返すことは、出来なかったけれど。その細い腕の中は、心底、安心する場所だった。
「嬉しい……ネジ兄さん、本当に、嬉しいです。大好きなあなたに、そんな風に思って貰えて」
「……ヒナタ様。ですからそういうことを、軽々しく口にしては駄目です」
「どうしてですか? 本当のことなのに」
「オレの声が、聞こえていますか?」
「はい、聞こえています。私の大好きな、鼻にかかった優しい声です」
「……まったく。あなたは、本当に馬鹿だな。どうなっても、知らないからな」
「あっ! 見て下さい! 夕陽が綺麗ですよ。上がってもいいですか?」
ヒナタの興味が、外へと移ってしまった。するりとほどかれた手に、遠ざかった体温に、忽ち乱された心を、立て直せる気がしなかった。もう一度引き寄せて、きつく抱き締めたい衝動を、どうにか抑え込んだ。宗家には随分劣るけれど、ネジの、分家の屋敷にも縁側があって――。そこから見える趣ある庭には、紅い夕陽がよく映える。ネジはヒナタを促して、十余年ぶりに奥に上げた。
「懐かしい……昔は、ここでいつも一緒に遊びましたね。またこうやってお話が出来て、私は、本当に幸せです。あっ、そうだ! ネジ兄さんに、お願いがあるのですが……」
仲睦まじく寄り添っていた幼い頃を思わせるような、屈託のない笑みを向けてくれたヒナタに、再び囚われてしまった。
そして、ヒナタの小さな願いが、胸を貫いた。
「中忍の紺桔梗の羽織は、もう必要ないですよね? あの、もし、よかったらなんですが……お下がりを、いただけませんか? お守りに、したいんです。一日でも早く中忍になれるように、努力いたしますので」
和服とはいえ、体格の違い過ぎるヒナタには、ネジの羽織は大き過ぎたようだった。袖の先からちょこんと出た指が可愛くて、思わず顔が綻んだ。
「……やはり、あなたは見るからに弱そうだな。でも、まあいい。何かあれば、オレが守るから」
「えっ? 今、何とおっしゃったのですか? もう一度聞かせて下さい」
「……いや、もう二度と言わない。むしろ忘れて下さい」
「また、それですか? 私は、ネジ兄さんが下さる大切な言葉を、絶対に忘れませんからね! ずっと覚えているので、覚悟していて下さい」
「……好きにして下さい」
また外を見遣れば、紅に染まっていた筈の広い空が、少しずつ、緋色に変化していた。硝子戸越しに夕陽を浴びた二人の影が、縁側の、朽葉色の床に重なった。
さすがに、もう戻らなければならない。ヒナタとの束の間のひと時に心を引かれながら、持ったままにしていた紅い紐を小さく結び、彼女の指に絡めた。それから縛っていた為に癖の付いた髪を、指で優しく梳かしてやった。ヒナタは終始心地よさそうに目を閉じて、その姿はまるで、飼い主に従順な猫のようだった。
宗家までの道すがら、ネジは、先程の答えをもう一度問うた。
――隣で支えたいとは、どういう意味ですか?
――さあ、どういう意味でしょうね? 気づけば、無意識に口にしていました。
――何だ。オレだけが、損した気分だな。
――でも、少なくとも、私は嬉しかったです。私にはあなたがいる。ただそれだけで十分だということが、分かりましたから。
――だから、そういうことを言うのは……。
どう足掻いたとしても、この人には決して敵わない。ネジは、改めて強く痛感した。じわじわと心を侵されてゆく淡い感情を、まだ受け止め切れそうにないけれど。何故か、嫌な心地はしなかった。
元いた場所へと戻ると、コウが、訝しむような視線を投げ掛けてきた。ネジが席を外していたのは、ほんのニ、三十分のことで、大半の者は酔いつぶれて寝ているか、起きていても呂律が回らないほどになっている。二人がここを抜け出したことに気づいていたのは、恐らく、彼くらいのものだろう。きっとその間じゅう、ヒナタの身を案じていたに違いない。どうにも言いようのない、優越感が込み上げた。
「おい、ネジ。お前、まさか、ヒナタ様に変なことをしていないだろうな?」
髪を下ろして、たすき掛けを解いたヒナタを見て、コウは過分な想像を巡らせたようだった。ネジは可笑しくなって、悪戯な笑みを浮かべて答えた。
「さあ、どうだろうな? どちらかというと、オレの方が変なことをされた、と言った方が正しいかな」
「……どういうことだ? 程々にしておかないと、後々面倒なことになるぞ。お前はもう少し身分を弁えた方がいい」
「……下らない。もう、そういうのはどうでもいい」
「まったく。お前は、昔から少しも変わらないな。しかし……ヒナタ様は、今も昔も、濁りのない綺麗な心でお前を想っている。気まぐれで振り回すのもたいがいにしておけよ」
「……綺麗な、心で? それは違うな。真っ新だからこそ残酷なんだ。お前は、何も分かっていない」
「分かっていないのはお前の方だ。とにかく、ヒナタ様を悲しませるようなことはするなよ」
振り回されているのはネジの方だ。予想外のヒナタの行動や言動に、さすがのネジも心を乱されっぱなしだというのに。コウこそ、何も分かっていない。
視線を感じて、ふと、向き直れば。ようやく自分の席に着いたヒナタが、首を傾げて笑い掛けてくれた。その、純真無垢な笑顔は、ひどく優しくて……ささくれたネジの心を、柔らかに包み込んでくれた。
――あたたかい。やはりオレは、あなたの笑った顔が……いや、違う。断じて好意的に思っている訳ではない。
……下らない。自分に言い聞かせて、ヒナタへと注がれる名もない感情に、気づかない振りをした。
――あなたを隣で支えたい。大好きなあなた。私の大好きな、鼻にかかった優しい声。
ところがヒナタがくれた言葉が、頭の中に何度も響き渡る。こうやって心を侵されることに、忌避感を覚えないこともないけれど。真っ直ぐに、ただ一直線に自分を慕ってくれるヒナタが、大切で仕方ないのもまた事実だ。悔しくない訳ではないが、感情というのは、得てしてそういうものだ。避けたって、忘れようとしたって、無意識に引き摺られてゆくものだから。もがいたって無駄なのだ。
――もういい。どうせオレは、今も昔もずっとあなたに縛られっぱなしだから。
――誰にも理解して貰えなくていい。あなたが笑えばそれでいい。
褪めた青から紅へと、少しずつ色づいてゆくこの感情は、もはやネジの手には負えないものとなっているから。ならばせめて、これ以上引っ掻き回されることのないよう、ヒナタへの烈しい想いを、余裕の笑みを湛えて受け流してやろうと決めた。
再びヒナタを視界に捕らえれば、指に繋いでやった紅い紐を、大切そうに眺めていた。そんな彼女に、やはり心は支配されるばかりで――。
その体温や、その柔らかい感触を思い出しては、疼くような胸の痛みを、苦しいくらいに自覚した。