2015.10.11更新
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約束当日の朝は、随分早くに目が覚めた。
時計に目を遣ると、短針は、五の少し左側を指している。すでに日は昇り始めていて、寝室の障子からは、眩しいくらいの光が差していた。
それからネジは、午後、準備を終えたヒナタを迎えに行くまで、時計の針を何度も確認しては、僅かしか動かぬ長針に、心がひどく急かされたのだった。雨が降らなかったことに心底ほっとする自分を、またしても可笑しく思った。
待ち焦がれてようやくやって来た夕方、短針が、四を指す十分前に家を出た。すぐ近くの宗家へは、五分と経たずに着いてしまった。仕方がないので、まだ部屋から出てこないヒナタを縁側で待つことにした。その傍らに、控えめに一本飾られた笹には、色とりどりの短冊が揺れていた。ふと目に入った、一際小さな文字で書かれた撫子色の紙を見遣れば――。
――七夕祭りの日、私とネジ兄さんに、急な任務が入りませんように。雨が、降りませんように。
そこには、ヒナタのものと思われる、ささやかな願い事が書かれていた。
(行く相手は誰でもいいのに、祭りだけは、楽しみにしているんだな)
ヒナタを想えばやはり息苦しくて、途端に悲観思考へと引き摺られる心に、どうにもならないもどかしさを覚えた。勝ち負けとか悔しさとか、今となっては相当に馬鹿げたことのように思うが、ヒナタへの真っ黒な想いは、到底、言葉では言い表すことが出来ないのだ。自分でも、どうかしていると思うけれど。
暫くはそこで待っていたものの、約束の時間を過ぎても出てこないヒナタに痺れを切らし、部屋まで行ってみることにした。認めたくはないけれど、ネジは、この日を殊の外楽しみにしていたのだ。だが今日は、ヒナタの前では仕方なく付き添う保護者に徹していようと思った。彼女にしてみれば、ネジはその程度の、取るに足らぬ存在だということは十分に理解しているから。
しかして、恐らく今は誰もいない屋敷の、決して日当たりがいいとは言えない部屋へと進んだ。そこは、伝統ある日向一族において、直系の長女ともあろう忍が与えられる部屋にしては、ひどく簡素なように思えた。戸の前に立つと、努めて穏やかに声を掛けた。
「ヒナタ様……? お迎えに上がりました。一応、浴衣を持ってきたのですが……どうしましょうか?」
戸の向こう側から、一瞬、大きな音が聞こえた。それから少しして、徐に開かれた扉の隙間からは、信じられない光景が、目に飛び込んできた。
「お待たせして、ごめんなさい……さあ、どうぞ入って下さい」
思えば、ネジがヒナタの部屋に入ったのは、父が存命だった十年以上前に遡る。久しぶりに見たその場所は、桜色で統一された色味が、如何にも女の子のものであるということを象徴していた。また、彼女が纏う花のような香りが部屋いっぱいに漂って、眩暈すら覚えるほどに甘かった。そしてそこにいる部屋の主もまた、ネジの平常心を奪うには十分の風采をしていた。
淡萌葱の畳の間に映えるのは……白地に淡い水色と淡紅梅の、撫子柄の浴衣。控えめに散らされた純朴で可愛らしい花は、ヒナタの持つ清らかな雰囲気を、上品に引き立てている。背中に揃いの淡紅梅の兵児帯を弾ませて、呆然とする自分の手を引こうとする彼女が、あまりにも綺麗で、直視することが出来なかった。
「……あの、さっき、大きな音に驚きませんでしたか? 慌てていたら転んでしまって……着崩れた浴衣を直したのですが、おかしくはないですか?」
おかしいも何も、ネジには確認のしようがない。とてもじゃないが、この明るい時間に、彼女を真っ直ぐに見ることなど出来そうにない。
「……ネジ兄さん?」
至近距離で不思議そうに見上げてくるヒナタに、また心を乱されてしまった。眉間に皺が寄りそうになるのをどうにか堪えて、重くなった体を、何とか部屋へとねじ込んだ。それから、視線を合わすことなく答えた。
「あ、ああ……多分、おかしくないと思いますよ。ところでヒナタ様。オレも浴衣を着なければいけませんか? 別にこのままでもいいのですが」
「駄目です。それだと私だけがはりきっているみたいで、恥ずかしいでしょう?」
「いや……オレも、このままで十分はりきっているということで……」
この姿のヒナタに浴衣を着せて貰うことが、何故だか急激に恥ずかしくなってしまって、思わず、約束を反故にしようとした。しかし、ヒナタは引き下がらなかった。
「駄目です。さあ、着付けをするので脱いで下さい」
「……途中までは、自分でやります。ヒナタ様は後ろを向いていて下さい」
この人に逆らえる訳がない。観念して服を脱ぎ、下着の上から浴衣を羽織った。綿麻の生地が擦れる音が止めば、ヒナタはゆっくりと振り返った。手には、絹の紐が握られていた。
「……そのまま、前の合わせを押さえていて下さい」
絹の生地がするりと滑る音がしたかと思えば、何を思ったのか、ヒナタが腰に抱き付いてきた。いや、違う。正確には前から渡した紐を、後ろで交差させて戻してきたのだが――。腹の辺りに一瞬触れたヒナタの体温に、卒倒してしまいそうになった。ネジは固く目を瞑って、どうにかやり過ごした。ところが前に回した紐を蝶々結びにしたヒナタが、次は首に抱き付いてきた。いや違う。正確には襟を整えてきたのだ。それから背後に回って帯を巻いてくれたものの、また背中に触れたヒナタの体温に、漂う甘い香りに、頭がどうにかなりそうだった。
「……出来ましたよ。男の人は、簡単でいいですね。苦しくないですか?」
またネジの目の前に回ってきたヒナタが、胸元に手を入れて、最後の仕上げをしてくれた。ネジはもはや言葉を失ってしまっていた。まだ明るい夕方から暗くなる夜まで、果ては打ち上げ花火が終わるまでずっと二人でいるのかと思うと、またしてもひどい眩暈を覚えた。ヒナタは珍しく髪を横に流して纏めていて、浴衣の襟元から見える首筋は、幼い彼女からは想像もつかないほどに艶やかだった。
桜色の部屋に差す夕日が陰ってきた。そろそろ、川沿いの会場へと向かうことにした。道すがら、嬉しそうに話しかけてくるヒナタが可愛くて、自然と湧き上がる笑みを抑えきれなかった。
「ネジ兄さんは、知っていますか? 織姫と彦星は、七夕当日の夜ではなく、前日の夜から朝に掛けて逢うのだそうですよ」
「……考えてもみて欲しい。オレがそんなことに詳しかったら可笑しいでしょう?」
「えっ? そ、そんな……そんなことはないです! でも、ネジ兄さんは一見怖そうだから、何だか損しているように思えますね……私には、誰より真っ直ぐで優しい人に見えますが」
「……優しいのはあなただ。損をしているのも、あなただ。オレの前では構わないが、あまり男を喜ばせるようなことを口にするものではありませんよ……そういえば前にも言ったな」
「喜ぶ? ネジ兄さんに、喜んでいただけたのですか?」
「あ、いや……そういう訳ではない」
「どういう、意味ですか?」
「……忘れて下さい」
どうにも会話が噛み合わない。無垢過ぎるヒナタは、汚れたネジの手には負えそうになかった。
七夕祭りの会場に着くと、いつもは真っ暗な川沿いの道が、等間隔に並んだ、橙色の光に彩られていた。ところどころに立つ、淡萌葱色の大きな笹には、鴇色や蜜柑色、蒲公英色、杜若色の短冊が沢山揺れていた。立ち並ぶ夜店の明かりも相まって、目に飛び込む全ての色彩が華やかに見えた。はしゃいで先に行こうとするヒナタの背中には、尚も淡紅梅色の帯が跳ねている。
その後ろ姿を見ていると、何故か、この上ない幸せを感じてしまった。
――オレはただの付き添いの保護者だ。勘違いしてはいけない。
夜空と同じ色の浴衣を着たネジは、忽ち震え出す心を、どうにか律してヒナタを追い掛けた。暫くして、りんご飴の屋台の前で立ち止まった彼女の袖を捕まえた。
「ヒナタ様……はぐれてはいけないので、あまり離れないで下さい」
「ご、ごめんなさい……私ったら、子供みたいに……あの、いちご飴を買ってもいいですか? よかったら一緒に食べますか?」
「いや、オレはいい……オレがいちご飴を食べていたら可笑しいでしょう?」
「ふふ……それもそうですね。ネジ兄さんは、ミルクせんべいの方がいいですか?」
「……それも可笑しい。ヒナタ様はオレのことを何も分かっていない」
「そうかもしれませんね……本当は、もっと、知りたいのに……」
だから言ったのに。あまり男を喜ばせるようなことは口にするなと。自分が相手だからいいものを、すぐに勘違いされていいようにされてしまう。ヒナタが他の男からそのような扱いを受けることを想像したら、何故だかひどく複雑な気分になった。
買ってやった赤い飴を、その小さな舌でぺろりと舐めるヒナタから、またしても視線を外してしまった。もうすぐ、打ち上げ花火が始まる筈。終われば、ヒナタを帰さなければならない。帰りたくない――。自分は一体どうしてしまったのだろうかと頭を抱えてしまった。そんなネジのことはお構いなしに、ヒナタは、次に食べるかき氷の味を真剣に考えていた。
「ネジ兄さん、ネジ兄さん。かき氷は、何味がお好きですか? よかったら、半分こしませんか?」
「……え? いや、先ずはそのいちご飴を食べ終わってから考えたらどうですか? それに、半分こって……」
「嫌、ですか? 一人で食べたらお腹を壊しそうだから、半分食べて欲しいのですが」
「……分かった。分かったから、そんな顔をしないで下さい」
ここに来てからというもの、終始ヒナタに振り回されっぱなしで、些か情けなくもあった。どうしてこんなにも乱されてしまうのだろうか。全く以て分からない。分かる術がない。
ふと見上げれば、雲のかかった夏空は、何とも形容し難い淀んだ色をしていて、織姫星と彦星は見つけられそうになかった。しかし視線を落とせばとりわけ鮮やかで、花火が上がればもっと華やぐのだろうと、ネジはぼんやりと考えていた。
「レモン味にしようと思うんです」
唐突なヒナタの発言に、少々面食らってしまった。そういえば、彼女は先程から、かき氷の味を真面目に選んでいたのだった。
「……いいと思いますよ」
「よかった。半分、食べて下さいね? 約束ですよ」
「……大げさだな」
買ってやったかき氷を嬉しそうに頬張るヒナタを、心底可愛いと思った。いちごの赤も、レモンの黄色も……色白の彼女によく映えて、とても綺麗に見えた。だが半分に減ったかき氷をヒナタから受け取った時、花火が上がる予定時刻を、大幅に過ぎていることに気が付いた。
「ヒナタ様。まさかとは思うが、花火は明日だったということはありませんか?」
「……え? あ、あれ? 確か、今日だったと記憶しているのですが……でも、なかなか上がりませんね」
「多分、記憶違いだったのかな? もう、時間は過ぎていますよ」
「そっ、そんな……あの、ごめんなさい」
「謝ることはない。オレは十分に楽しみましたよ」
「でも……」
はしゃぎ回っていたのが嘘のように、途端に悄気てしまったヒナタに、自分まで引き摺られてしまった。
――何故だろう。あなたのそんな顔は、見たくない……。
霙状になったかき氷を一気に飲み干すと、ネジはヒナタの手を引いて、来た道を急ぎ足で戻った。やはりヒナタは俯いていて、その悲しそうな表情を見ていると、ひどく胸が痛んだ。
しかして射的の店の前まで来ると、遠慮気味に繋いでいた手をするりとほどいた。そして店主に支払いを済ませて、一番大きな獲物を狙った。いとも簡単に崩れ落ちてゆく的を、ヒナタはネジの後ろで黙って見つめていた。
「お客さん、上手だね。さすが忍を生業としている人は違うな。でも、さすがに反則だと思えるくらいだな……何が欲しい?」
「……そこの手持ち花火と、できればマッチもあれば」
「いや……それは下手な子供用のおまけだから……折角だから、もっといいものを選んだらどうかな?」
「……花火が、いいんです」
「お客さんがそう言うなら別に構わないが……ほら、オレの煙草用のマッチもやるよ」
「どうも、ありがとうございます」
呆気に取られるヒナタを連れて橋を渡り、祭りの喧騒から離れた対岸へと歩いた。浴衣の袖を控えめに掴んでくる小さな手に、また全神経を持っていかれた。
河川敷に下りるとそこには誰もいなかった。向こう岸の夜店からは、ゆらゆらと流れる川に沿って、金色の光が伸びていた。
振り返れば、ヒナタは相変わらず俯いたままだった。
「そんなに落ち込むことはないだろう?」
ネジの問いかけに、口を結んだままだったヒナタが、切ないほどに儚い表情で答えた。紡がれた言葉は思いもよらないもので、また一瞬にして、ネジの心を縛り上げてしまった。
「だって……ネジ兄さんは覚えていらっしゃらないかもしれませんが……昔、ここで一緒に打ち上げ花火を見ようと交わした約束を、どうしても果たしたかったんです。普通にお誘いしたら、きっと来て下さらないと思ったから、失礼なことを言って、ごめんなさい。私、ネジ兄さんが里に帰ってきたことが、本当に嬉しかったんです。だから、一緒に過ごす時間が持ちたくて……」
思わず抱き締めそうになる衝動を、力ずくで、何とか抑え込んだ。
「……別に、かしこまった理由がなくとも、一緒に過ごせばいいでしょう? オレはもう、あなたを拒むつもりはない。一年間の長期任務で、分かったことがあるんだ。オレはあなたが心配で、何故かは分からないが、あなたには、いつも笑って欲しいと思っている……ほら、打ち上げ花火ほど華やかではないが、今年はこれで我慢して下さい。また、来年も来ればいい」
目に涙を溜めながらふわりと微笑むヒナタに、手持ち花火を差し出した。射的屋の店主に貰ったマッチで火を付けると、火薬の匂いと共に、川を這う光と同じ色の、金色の星が飛び散った。
「手持ち花火もいいものですね……ありがとうございます……本当に、ありがとう……」
今にも蕩けてしまいそうなその笑顔に、また、胸が締め付けられた。
――この感覚は、一体何なのだろう? 何故だか、すごく痛い。
小さな花火の光に照らされた二人の顔は、この上なく穏やかで優しいものだった。浴衣の袖が触れるくらいの距離で並んだものの、それ以上近づくことはなかった。
二十にも満たない数しか入っていなかった花火は、あっという間に終わってしまった。ネジはやはり帰りたくないと思った。
「……ヒナタ様」
「はい……?」
「……いや、何でもない。そろそろ帰りましょう」
どうにか紡いだ言葉は、残念そうな顔をしたヒナタに、一瞬にして打ち消されてしまった。
「あと十五分だけ……そう、十五分だけ……えっと、そうですね……あ、月を、見ていましょう」
「今夜は新月だぞ」
「では、星を……星を、見ませんか?」
「……仕方ないな」
星など殆ど見えないというのに、土手の階段へと腰を下ろし、二人で空を見上げた。案の定何とも言えない濁った色をしていて、とてもじゃないが綺麗だとは思えなかった。刻一刻と過ぎてゆく時間に焦り、ネジは意を決してヒナタに問うた。
「……ヒアシ様から聞きました。あなたが、寂しがっていたと」
「あなたがいないことを、寂しがってはいけませんか?」
その答えに、忽ち傾いだ心を強く自覚した。気づかれぬよう、努めて冷静に言葉を返した。
「別に……いけないとは言わないが」
「言わないが、何ですか?」
「いえ……何も」
――寂しがってはいけないとは言わないが、ならばちゃんと、オレを見ていて欲しい。
意味が分からない。分からないけれども仕方がない。ヒナタへと無理矢理に引っ張られる心は、自分ではもうどうすることも出来ないのだから。意地を張るのは止めて、素直に受け入れているしかない。
「ヒナタ様。一つだけ、約束して下さい」
「はい、何でしょう?」
「そういうことを、他所では口にしないようにして下さい」
「どうしてですか?」
「どうしてもです」
「ふふ……分かっていますよ。ネジ兄さんだから、口にするんです」
「どうしてですか?」
「どうしてでしょう」
残り僅かとなった時間の中で、そんなとりとめのない会話を交わしながら、すっかり機嫌を直したヒナタに、精一杯笑い掛けた。するとヒナタは、飛び切りの笑みを返してくれた。
――よかった。笑ってくれて。
「そういえばオレが里に帰ってきた夜、とてもじゃないが嬉しそうには見えなかったが……」
「あ、あの時は……任務で汗だくだったから、恥ずかしくて……」
「そうでしたか? その割には……いや、何でもない」
ヒナタと一年間離れ離れになって、ようやく分かったことがある。ひたすら憎くて、嫌いだとばかり思っていたヒナタは、未だに大切な従妹のままであるということ。それから彼女が心配で心配で、仕方がないということ。
宗家を守る分家の者として、特別に意識している訳ではない。今更それを盾にするつもりもない。自然と湧き上がる感情だから、もはや黙って身を任せている他ないと思った。
ヒナタにとっての自分は、少なくとも取るに足らぬ存在ではなかった。それが知れただけでも今日ここへ来た甲斐があったというものだ。
――笑顔にも、逢えた。
ネジにとっての織姫星はヒナタだったのかもしれない。もっともヒナタの彦星は、決してネジではないと分かっているけれど。
――それでもいい。傍にいられれば。
ヒナタを見守っていたい。ネジが望むのは、たったそれだけの、至極単純なことだ。理由など何もない。そう思ってしまうのだから、仕方がないのだ。
帰り道、再び袖を掴んできたヒナタの手を取りたくなる衝動を、また力ずくで抑え込んだ。
それから今この瞬間に、雲の上で一年ぶりの再会を果たしているであろう二つの星に、願いを込めた。
――どうか来年も、共に過ごせますように。
遠ざかってゆく橙色の光に、柔らかな希望が映し出されているような気がして、ネジは久しぶりに、清々しいほどの幸せを感じた。
来年も、一緒に。またこの場所で、共に在りたい。
織姫星と彦星に、縋るように祈った。