2015.10.09更新
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あれから季節は巡り、気づけば一周していた。
最後にヒナタと過ごした夜、雷に怯える彼女に苛立ち、如何にも不機嫌そうに寄り添ってやった。幼くて、実に未熟だったと自分でも思う。しかしまだ十五にも満たなかった当時のネジには、それが精一杯だったのだ。
深夜、ヒナタを宗家まで送り届けて、それからは一度も会わないまま、一年もの長期任務へと駆り出された。その後すぐ誕生日が訪れ、再び任務先で誕生日を迎えようかという頃、ようやく里への帰還許可が下りた。一年ぶりの故郷に思いを馳せれば、不思議と、浮かんでくるのはただ一人だけだった。
――ヒナタ様。お元気でいらっしゃいますか? この一年間、何故かオレは、あなたのことばかりを案じていました。
――従兄として、宗家を守る分家の者として……いや、一人の人として。
(あなたが心配で仕方がない。何故なのかは、分からないが)
やはり理由は知り得ないけれど。沸き上がる感情に蓋をすることは、もう止めようと思った。彼にとって初めての長期任務は、幼かった彼の心境に、若干の変化を与えたのだ。
慣れ親しんだ土地を離れて、一年もの間、気を張って生活してきた。一人前の忍として、そのくらいは大したことではないと考えていた。ところが、半年を過ぎた辺りから、言いようのない不安がよぎるようになってきた。ヒナタは今どうしているだろうか? また独りで雷に怯えて、頼る者もおらずに心細く過ごしていないだろうか?
それからはずっと、ヒナタのことが、心配で心配で仕方なかった。その信じられない感情に、初めは随分戸惑ったけれど。
――どうせ、どうしたって気になるんだから……もう、意地を張るのは止めよう。
群青の空に緩やかに昇り始めた、消え入りそうな弓張り月を見上げながら……ヒナタのいる、木の葉の里へと急いだ。帰ったら、何を置いても彼女の無事を確認したい。どうしても、気になってしまうから。次にいつ入るか分からない任務の為にも、不安や心配の芽は、予め摘んでおきたかった。
時折かかる、厚い雲に覆われる月の光よりも、隙間から差す星明かりの方がずっと明るい。そんな、夏の夜だった。
「ヒアシ様。ただ今、一年間の長期任務より戻って参りました」
先ずは一族の宗主であるヒナタの父・ヒアシの元へと向かった。威圧感さえ覚えるその厳粛な佇まいに、昔は嫌悪感を抱いたこともあった。今は亡きネジの父・ヒザシと双子だというのに、全く似ていない……いや、二人は瓜二つだが、未熟だったネジは、その事実を絶対に認めたくなかったのだ。少し前までは、宗家の人間を、心の奥底から憎んでいたから……。
しかしてヒアシは、彼にそぐわぬ、どことなく穏やかな表情で迎えてくれた。
「……ああ、ご苦労だったな。ネジ、お前、随分背が伸びたな。心なしか、顔つきも落ち着いたように見える。若い頃のヒザシにそっくりだ。もっとも、それならワシにも似ていることになるが。だが、まあ安心しろ。ヒザシの方が、ワシよりもずっと柔らかい顔立ちをしていたから」
長らく秘めていた本音を見抜かれたかのようで、ネジは少々ばつが悪そうに応酬した。
「……父上が? ところで、ヒナタ様は母親似ですか?」
「……お前も言うようになったな。確かにあやつはワシには似ておらぬと思うが。ちなみに、ヒナタは今日、任務で出掛けている」
「……そうですか」
「ずっと寂しがっていたようだから、よかったら声を掛けてやってくれ」
後に続いた言葉も、全てを見透かされているかのようで、どこか可笑しくさえあった。表に出さぬよう、努めて無表情で答えた。
「……ヒナタ様が? 分かりました。戻られたら、挨拶に参ります」
心なしか、ヒアシは笑っているように見えた。ネジは、褪めた表情を貫いた。
今夜はヒナタに会えないかもしれない。途端に沈んだ心に、一年前ならば苛立ちを覚えたかもしれない。だが、今はそんな自分を、むしろ面白く思う。また会いに来よう、気を取り直して、自宅へと帰ることにした。
奥間のヒアシの部屋を出て、縁側の長い廊下を抜ける。幾つかの扉を通り過ぎれば、これまで何度も開いた、玄関の引き戸が見えてくる。そこは、上がり口とは思えないほど、ともすれば数人の人が住めそうなくらいに広かった。先程揃えたばかりの黒い靴を履いて、静かに外へ出た。分家の屋敷とは違う、立派な木の門をくぐった。
――不意に、懐かしささえも覚える、甘い花のような香りが漂った。
濃藍の空には、消え入りそうな下弦の月。夏の星明かりは、休むことなく瞬いている。しかし夜空を照らす儚い光よりも、もっと綺麗な淡い光が、ネジの目の前に飛び込んできた。
「……ネジ、兄さん?」
そう、そこにいたのは、見紛う筈のない。紺藍の、さらさらと流れる細い髪をたなびかせて、自分と同じ、藍白の瞳を煌めかせた――。
「ヒナタ様……」
この一年で急激に背が伸びて、未だ小さいままのヒナタとは、相当に身長差が開いてしまったようだ。とりわけ柔らかな表情で見上げてくるヒナタを見下ろすと、一層女の子らしくなった姿に、何故だかひどく心がざわついた。
相変わらず、弱々しい。去年の夏と変わったことと言えば、肩を掠めていた髪が、胸に掛かるくらいに伸びたこと、だけだろうか。
誰もいない門の前で、一瞬時間が止まってしまったかのような静寂が流れた。
――ずっと寂しがっていたようだ。
ヒアシの言葉を思い出し、思わず顔が綻ぶ。自分の帰りを心待ちにしていたであろうヒナタは、きっと、あの優しい笑顔を向けてくれるに違いない。早く、笑って欲しい。
笑うのは、昔から苦手だ。けれどもネジは、精一杯の不器用な笑顔を作って、ヒナタへと笑い掛けた。
――ほら、早く、笑って。
一方ヒナタは、感情の読めぬ顔で徐に口を開いた。
「……おかえりなさい」
そして一言だけ呟くと、ネジの横をするりと通り抜けて、家の中へと入って行ってしまった。ただいまを言う隙もなくて……ほんの一瞬の出来事に、思わず呆然としてしまった。寂しがっていたとは嘘だったのだろうか。些か、いや、大いに落胆してしまった。久しぶりに、腹が立った。
翌日、再び宗家を訪れたネジは、何が何でもヒナタに笑い掛けて貰おうと、半ば意地になっていた。もう意地を張るのは止める、そう決めていた筈なのに。ヒナタを相手にすると、どうも一筋縄ではいかなくなってしまう。拗れた心をどうにかほどこうと、早朝、庭の花に水を遣るヒナタにゆっくりと近づいた。ヒナタはすぐに気が付いたようで、嬉しそうに振り返った。
「あ、ネジ兄さん! 早いですね……お父様に、お話ですか?」
しかしてヒナタは、ネジの姿を捕らえただけで簡単に笑ってくれた。だがその笑顔は、どこかよそよそしく思えて、また、胸が掻き乱された。
十六にして早くも上忍に昇格しようかという自分が、未だ実力不足に見える、一人の女の子の反応に一喜一憂している。それはもはやどうにもならなくて、満ちてゆく感情の波を、ただひたすらに受け入れているしかなかった。
ネジは一度目を伏せて、心を落ち着かせて言葉を発した。
「……いえ、あなたの顔を見に来ました」
ヒナタは、彼女らしくあたふたした態度で応えた。その様はひどく懐かしくて、改めて、自分の居場所に帰ってきたという事実を噛み締めた。
「えっ? わっ、私? そんな……私なんか見ても、何もいいことはありませんよ……ところでネジ兄さん、随分背が伸びましたね。見える世界は変わりましたか?」
父・ヒアシと同じ質問に、些か可笑しくなってしまったけれど。後に続いた言葉は、如何にもヒナタらしい、至って微笑ましいものだった。ネジは、沸き上がるあたたかい感情を、特に隠さず答えた。
「……あなたは、相変わらずですね。見える世界……そうだな。色んな意味で、かなり変わったかな。ヒナタ様は、随分髪が伸びましたね。確か、伸ばしていると言っていたな」
「はい、そうなんです……一年ぶり、ですものね。あの、どうですか? ネジ兄さんみたいに、強くて格好よさそうに見えますか?」
――可愛い。そうだ、オレはこの人を、可愛い人だと思っていたんだ。
(下らない意地を張って、本当に馬鹿だったな)
この人を、からかいたい。思わず意地悪を言ってしまいそうになるのを、どうにか抑え込んだ。
「……それは、どうかな? でも、よく似合っていますよ」
「あ、あ、あり、ありがとう、ございます……」
頬を薄桃色に染めて俯くヒナタを、心底可愛いと思った。ところが次の一言で、一気に突き落とされてしまった。
「そ、そうだ……ネジ兄さん。七夕祭りの日は、非番ですか? もしよかったら、一緒に行きませんか? 行く人がいなくて困っているんです……駄目ですか?」
――なるほど。オレと行きたい訳ではないが、相手がオレだと、都合がいいということか……。
忽ち不機嫌になってしまいそうな衝動を、何とか堪えて返事をした。
「……別に、いいですよ」
理由は何であれ、ヒナタからの誘いを断ることなどネジには出来ない。宗家と分家の、絶対的な主従関係があるから? 違う。断れば、自分が後悔することを容易に想像できるから。ここで断って、もし別の誰かに声を掛けられたら? 嫌だ。それだけはどうあっても避けたい。
「よかった……お祭りは二日間あるのですが、七夕前日の、打ち上げ花火が上がる日に行きましょう。約束、ですよ? 絶対に、忘れないで下さいね」
「……今週でしょう? さすがに、忘れませんよ」
「そ、そうですよね……やだ、私ったら……ネジ兄さんは、私みたいにそそっかしい人じゃないのに。あ、一緒に浴衣を着て行きましょうね。着付けが難しければ、私にさせて下さい」
「ならばお願いしようかな……しかし、悪いな」
「そんな! とんでもないです……私こそ、無理を言って付き合っていただくのに、それくらいはさせて下さい」
断らなくてよかった。ヒナタならば、同じ班のキバやシノ、それから付き人のコウにも同じことを言い出しかねない。相手が自分だからいいものを、男に浴衣を着付けるなど、いくら何でも言語道断だ。
卑屈になったのも束の間、幾らか安堵して、軽い足どりで家に帰った。それから父が残してくれた留紺の浴衣と、灰青の帯を風にさらしておいた。
――当日、雨が降りませんように。
ここのところ雲行きのよくない空を仰ぎ、ネジは切実に祈った。