2015.10.01更新
近頃、ヒナタのことがどうも見ていられない。
誰にも期待されていない、彼女は言ったけれど。それがどんなに苦しいことなのか、忍として出来のいい方のネジには、到底知り得なかった。
決して投げやりな訳ではなく、そして恨めしく思う訳でもない。忍としての才能に恵まれぬこと、その暗い現実を素直に受け止め、そこからどうにか這い上がろうと必死にもがいている。案の定誰からも見て貰えないのに、それでも立ち上がり、前を向いて歩き出す。
――忍の道は諦めて、早く楽になればよいものを。
無駄な努力を重ねるヒナタを、痛々しくて見ていられなかった。
「ヒナタ様。その弱々しい突きは何だ?」
深夜、独りで鍛練に励むヒナタに、不本意ながらも声を掛けた。単に気が向いたから、この可哀想な姫君を、慰めてやろうと思ったのだ。
――どうせ、互いに孤独だから都合がいい。
そう、断じて他意はない。他意は、ないのだ。
「……ネジ兄さん!」
ネジの声に振り返ったヒナタは、曇りのない、澄み切った笑顔をしていた。しかしこの顔を見ていると、途端に心が軋めき始める。何故なのかは、分からないけれど――。
春、一時的に、彼女の付き人をした。苛々や不快感、もどかしさ、様々な感情が綯い交ぜになり、何故だか強く掻き乱されてしまった。釈然としないが、ヒナタの存在が、ネジの心を支配して離さないのだ。一体、何だというのだろう。
「……来い」
暇つぶしに、少し、相手をしてやろうと思った。
だが懸命に繰り出される柔拳は、ネジには僅かな傷も付けられない。正直、子供を相手にしているのかと驚くほどだ。一度手合わせした中忍試験の頃から、何も変わっていなかった。些か落胆した。
――やはりあなたは、忍には向いていない。
間違いない。彼女に、見込みはない。潔く諦める方が身の為だ。力のない自分を、敢えて戦いの世界に置くことはない。
「まったく、話にならないな」
「……ごめんなさい」
「何故オレに謝る必要がある? 謝られたところで、あなたが強くなる訳でもないのに」
「だ、だって……私を、気に掛けて下さっているでしょう?」
――気に掛ける? オレがあなたを? そんな訳がないだろう。
初夏の湿った風が、二人の、色違いの髪をさらった。
元より長かったネジの髪は、すでに腰辺りにまで到達しようとしている。一方、短かったヒナタの髪は、ようやく肩を掠めるほどになった。そんな彼女を見ていると、つくづく、弱そうだと思う。あの短い髪が、どうにか彼女を戦闘向けに見せていたのに。これでは、か弱い女の子にしか見えない。
一層ふわりとした雰囲気を纏うようになったヒナタを、最近、何故だか直視することが出来なくなってきた。
どうしようもなくなって、気づけば意味のないことを問うていた。
「だいたいその髪は何だ? 何故、急に伸ばし始めたんだ?」
どうかしている、思った時には遅かった。視界の端に、恐る恐るヒナタを捕らえれば、やはり綺麗な瞳を向けて、笑いかけてくれていた。息苦しくなって、すぐさま視線を逸らした。
「変ですか? 私もネジ兄さんみたいに……長い髪をたなびかせて、格好よく戦いたくて……伸ばしているのですが」
――格好いい? オレが? この人には、醜いところばかりを見せてきたのに。
そういうことを、簡単に口にするべきではないとネジは思う。自分が相手だからよいものを、中には勘違いして、隙だらけのヒナタに付け入ろうとする輩が出てこないとも限らない。何とも感情の持っていき場がなくて、考えただけで欝々とした。
「……あなたは、変わった感性の持ち主だな」
「そうですか? ネジ兄さんは、いつでも真っ直ぐで一生懸命で、何より強くて……私からすれば、眩しいくらいに格好いいです」
――どういうつもりだ? この人は、一体、何を思っているんだ?
傾いだ心を立て直そうにも、真っ直ぐに向けられる清らかな視線が痛くて、何も考えられなかった。
「ところでヒナタ様。あなたは、まだ忍の道にしがみついているのか? あなたのように軟弱な人は、大人しく家庭に収まっている方がお似合いだと思うが」
戸惑いを隠すかのように、褪めた声で捲し立てた。ふと見遣れば、ヒナタには珍しく、感情の読めない顔をしていた。しかし反省はしない。間違ったことを言ったつもりはない。彼女を想って、誰もが口に出せぬ本音を、親切にも伝えてあげたのだから。今は辛くても、ゆくゆくは必ず彼女の為になる筈だ。
ヒナタは哀しむでもなく、落ち込むでもなく、もう一度、柔拳を仕掛けてきた。
やはり話にならなくて、さすがに憐れに思えてきた。仕方がないので、思い切り手加減して、努めて優しく封じてやった。もはや目を瞑っていても勝てそうだった。
ネジに両手首を掴まれたまま、臆することなく、ヒナタは彼を見上げて問いかけた。
「……ネジ兄さん、教えて下さい。私の、何がいけないと思いますか?」
しかしてネジの答えは、何とも意地の悪いものだった。
「……何って。全部、だろう?」
冷たく言い放てば、ヒナタはどことなく苛立ったような表情を見せた。この顔もヒナタにしては珍しい。ところが腹を立てられたところで、本当のことを言ったまでだ。ネジにはどうすることも出来ない。残虐な心に気づかれぬよう表情を殺した。
暫しの、沈黙が流れた。
夜も疾うに更けた演習場は、濃藍の空に浮かぶ月明かりに照らされて、たなびく草木が淡い光を放っている。月を微かに覆う雲は、その強く儚い輝きを受けて、淡青に煌めいていた。
手首を掴んだまま、至近距離で見下ろした彼女の顔は、初めて見る大人びたもので――。何か言いたげなその態度に、加虐的な衝動を覚えた。力のないヒナタのことなど、自分次第でどうにでも出来る。そんな、驕りにも似た情動が途端に湧いてきて、ネジのなけなしの良心を奪ってゆく……次は、どうやってこの人を痛めつけてやろうか?
一度目を閉じて、尚も動きを封じたままでヒナタを見遣れば、濁りのない、淡紫の瞳に射抜かれた。
「ネジ兄さん……あの、ありがとうございます……」
「……は?」
小さな唇から紡ぎ出された思いもよらぬ一言に、一気に調子を崩されてしまった。無表情を崩さぬよう、掴んだ手首をするりとほどいた。ヒナタは、心なしか残念そうな顔をしていて、またしても胸を掻き乱された。
支えを失った手を鎖骨の辺りで結んで、ヒナタが小さく息を吸った。
「……一族の人は皆、腫れ物に触るように接してきて……建前ばかりを並べて、頼んでもいないのに持ち上げてきて嫌なんです。その表情や声色から、何を思っているのかは火を見るより明らかなのに。ネジ兄さんだけです。本音でぶつかってきてくれるのは」
続いた言葉も、やはり思いもよらないものだった。さらさらと頬にかかる髪を耳にかけるヒナタは、まだか弱い女の子にしか見えなかったけれど。彼女は自分の置かれた状況に甘んじているのだとばかり思っていたネジは、少々面食らってしまった。それに、未熟にも思わず口を衝いてしまう皮肉や嫌味を、綺麗な心でふわりと受け止めてくれる。
どうにも、居た堪れなかった。
――この人は、一体何なんだ?
(何故、こんなにも健気なんだ。見ていて、遣り切れなくなるくらいに)
「ヒナタ様。あなたがもし分家に生まれていたら、信じられないほどの批判を受けて、すぐに捨て駒にされていたことだろう。宗家に生まれたことを、感謝こそすれ恨む理由は何もない。それに……残念だが、オレだって建前ばかりの嫌な人間だ。そうやって、簡単に気を許してはいけない」
自分でも分からない。ヒナタをどうしたいのか、それから一体、何をしたいのか。ヒナタの瞳に映る自分を見ていると、心がざわついてどうにもならなかった。
彼女からの拒絶の言葉を待っていたら、不意に目の前を、多量の鋭い滴が遂下した。それは瞬く間に大粒の塊へと変わり、慌ててヒナタの手を引いて、近くの木陰になだれ込んだ。そしてすぐに手を離したつもりが、上着の裾に違和感を覚えた。ふと斜め後ろを見遣れば、ヒナタが服の裾をぎゅっと握って引っ張っていた。彼女は小刻みに震えていた。
――淡い青色の、角ばった線が空を滑り落ちた。
少し間を置いて、轟音が鳴り響く。もうすぐ真夏を迎えようという今、突然の雷雨に襲われることも珍しくない。ネジは大して気に留めることもなく、ヒナタの手をやんわりとほどこうとした。ところがヒナタは一向に離れようとしない。さすがに困ってしまった。
しかして雷鳴の隙間の、辺りが静まる隙を見て、ネジは吐き捨てるように声を上げた。
「……ヒナタ様。手を、離して下さい。皺になります」
――雨も、雷も、全く止む様子を見せない。
再び訪れた沈黙の後、消え入りそうな声が聞こえた。視線を遣れば、ヒナタは尚も裾を掴んだまま、潤んだ瞳でネジを見上げてきた。稲妻に照されたその目は、いつにも増して淡い紫色をしていた。
「あの……今だけ、少しだけでいいので、このままでいさせて貰えませんか?」
その被虐的な姿に、やはり苛立ちを覚えた。すかさず、きつめの口調で応酬した。
「……あなたは、同じ班のキバやシノにも、節操なくこのようなことをしているのですか?」
「せ、節操? ちっ、違います! ネジ兄さんだから……つい、昔のことを、思い出してしまって……」
昔のこと……そういえば、ヒナタは雷が苦手だった。そんな彼女に、いつでも駆けつけて、怖いものから守ってやると伝えた気もする。だがそれはあまりにも幼すぎた為、未熟ゆえに吐いた言葉だ。大した意味はなかった筈。
「さあ……何のことか、覚えていないな。だが仕方ない。宗家の姫君の言うことだ。オレは、従うしかないからな。でも安心して下さい。オレは男だが、あなたに煽られたからといって何てことはない。あなたを力で組み敷くことなど造作もないが、そんな情けないことはしたくない」
「……煽る? 組み敷く?」
ヒナタはきょとんとした顔で、不思議そうに問うてきた。少し背の低いヒナタは、どうしてもネジを見上げて話すことになる。軽く首を傾げたその様子は、幼い頃から何も変わらないように思えた。父が存命だった昔の、あのあたたかい頃の記憶を覚えていない訳がない。でも、それを彼女に伝えてしまうのはどうにも癪だった。知られてはいけないと思った。
「あっ、いや……別に……」
「組み敷くとは、どういう意味ですか?」
「……忘れて下さい。そこには、食いつかないで下さい……!」
意思に反して発した言葉に、幾らかの後悔を覚えた。自分でも、何故そんなことを言ったのかが分からなかった。
――突然の雷雨は、尚も勢いを増すばかりだった。
上着の裾には、未だ違和感が残ったまま、力なく握られたその小さな手に、全神経が集中してしまう。心なしか、先程よりも距離が詰められた気がする。ネジは眉間に皺を寄せ、口を固く結んで如何にも不機嫌といった顔で耐えていた。しかしヒナタは全く以てお構いなしだった。自分のことを、あんなにも恐れていたくせに――。
「……ヒナタ様。この程度のことに怯えているようでは、一人前の忍になるなど論外ですよ。あなたは誰かに守られながら、ぬくぬくしている方がお似合いだ」
「……ごめんなさい。雷だけは、本当に駄目で……では今だけ、少しだけでいいので、私を守っていてくれませんか?」
雷鳴が響く度、びくびくと体を寄せてくるヒナタに、相当に苛立った。何か言わなければ気が済まなかった。
「仕方ないな。本当に、仕方なくだからな。オレはあなたに肯定的な感情を持っている訳ではない。絶対に勘違いしないで下さい」
そう、仕方なく、本当に仕方なく、ネジの服の裾を握り締めるヒナタの手首に、そろりと自分の手を添えた。雨に打たれたせいか、その華奢な手首は冷たくなっていて、何故だかひどく心が痛んだ。自分でも意味が分からなかった。
またしても口を衝く鋭い言葉を、どうしても止めることが出来なかった。
「だいたいあなたは危なっかし過ぎて、先を案じてやらないと何をしでかすか分からない。そんな自分を、情けなく思いませんか? 程々にしておかないと、いつか痛い目を見るぞ」
「それは、本音ですか? それとも、建前ですか? 前者なら、嬉しいのですが……」
――私があなたを好きだと、そう思うのだから仕方ないでしょう?
何かがおかしい。誰にも相手にされなくて寂しいから、意地悪でも構ってくれる自分に、見苦しくも縋ってくるのだと思っていた。違うのだろうか? もしやヒナタは、心の奥底からネジを求めてくれているのだろうか?
――悔しい、また負けそうだ。
次こそは、絶対に打ち負かしてやろうと決めていたのに。いや、負ける訳にはいかない。乱されたままの頭で考えを巡らせたものの、ヒナタの言葉に全てを打ち消された。
「……どうしても、気を許してはいけませんか? 私には、ネジ兄さんが建前ばかりの嫌な人には、到底思えないのですが……だって、ネジ兄さんは今も昔も、ずっと私に優しくしてくれるから。あなたを慕っては、いけませんか?」
――慕う? 慕うとは、一体?
――私があなたを好き。
心を、急速に上ってゆく熱に、どうしようもないくらいの眩暈を覚えた。
「……駄目です。慕わないで下さい。前にも伝えたことだが、あなたとオレが、相容れることは難しい」
どうにか絞り出した言葉は、やはりヒナタへの加虐心に囚われたものだった。離れろ、離れてくれ――。痛切に思った。それなのに……あろうことか、先ほど手首に添えた手に、冷え切ったもう片方の手を重ねてこられた。ヒナタは今、相当に寒い想いをしているのではないかと不本意にも引き摺られる心が、殊更、鬱陶しく思えた。
「そうですよね……さすがに、迷惑でしたね。ごめんなさい」
幾らか沈んだように聞こえるその声に、勝った、と喜んだのも束の間、直後に冷たい感覚が離れてゆき、心底残念に思ってしまった自分に、些か戸惑ってしまった。
――また、負けたのか?
気づけば雨は止み、辺りは元の静けさを取り戻していた。容赦なく吹き付ける風に、瞬く間に散らされた雲の隙間から、小さく輝く星々が顔を出していた。そろりと見遣れば、ヒナタは何故か笑っていた。即座に視線を逸らし、仏頂面を貼り付けた。
「……傍について下さって、ありがとうございました。私はもう帰ります。ネジ兄さんは、どうされますか?」
「……宗家まで、送って行きます……」
つい先程まで触れ合っていたことが嘘のように、褪めた空気が流れた。それからは、いつものように三歩下がって付いて来るヒナタを、一度も振り返ることが出来なかった。
――知りたい……! この人は、一体、何を思っているんだ?
(くそ、悔しい。本当に、悔しい。どうしてこんなにも、心を攫われるんだ)
手に触れた指の感覚を、到底忘れられそうになかった。
ネジは、また彼女に囚われてしまった。