2015.09.21更新
2015.09.28修正
晩春の黄金色の花が、木の葉の里を鮮やかに彩り始めた。
一重咲きと八重咲きの、山吹と八重山吹。どちらかを自分に喩えるならば、恐らく後者だと、ネジは自嘲気味に考えた。なぜなら、前者は実を結び、後者は実を結ばないから。見た目は八重咲きの方が、ずっと華やかだというのに……。
忍として誰よりも高みを目指そうと、陰ながら、血を吐くような努力をしても。自分ではまだまだだと思う――果然不本意ではある――が、伝統ある日向一族始まって以来の天才だと、皆から賞されようとも。血統に恵まれず、決して報われることのない不遇な自分を、その実を結ばぬ花に重ねてしまうのだ。
先日、急な任務の為に里を出たコウは、未だ帰って来ない。
宗家からの命を受けて、仕方なく、本当に仕方なく、期間限定の姫君の付き人に就いた。ずっと、距離を置いていた従妹……大好きな父の死に、少なからず関与した従妹。分家に生まれ、彼女らに一生を捧げると無理矢理に誓わされた自分には、抗うことは出来ない。抗えば、その先には死が待っている。光を、求めて……自由に空を羽ばたきたくて。長らくの間、ひたすらに独りでもがき続けてきたのだ。まだ、死ぬ訳にはいかない。
しかし、ネジはやはりヒナタが苦手だと思う。いつだって、おどおどした彼女を見ているだけで苛々する。
忍としての能力は格段に劣るとはいえ、せっかく血統に恵まれて立場を約束されているのだから、堂々としていればいいのにと思うと余計に腹が立つ。もはや嫌いだとさえ思う。それでも、立場上、彼女を無碍に扱うことは出来ないから。今日もまた、偽者のぎこちない笑顔を貼り付けて、宗家の屋敷へと顔を出した。
「……ネジ兄さん! 来て下さったのですね」
ネジの腹の内も知らずに暢気に笑うヒナタを、本音では心底馬鹿にしている。何の苦労もなくのほほんと暮らしてきた彼女は、建前という言葉を知らないのだろう。本当に馬鹿な姫だと蔑むことで、未熟なネジは、どうにか自分を保っていられたのだった。
――また、あなたに触れてもいいですか?
自分が見せた気まぐれな優しさ――むしろ憐憫とも言うべきか――に、涙を流して喜ぶヒナタに、何を思ったのか、淡い笑みを湛えて頭を撫でた。ただ、懐いてくる猫を可愛がるような、その程度の軽い気持ちだった筈。あの夜はどうかしていた。
それなのに、いつもネジを恐れて萎縮してばかりいたヒナタが、何を勘違いしたのか、気散じ極まる態度で接してくるようになった。やはり、腹が立った。
「今日は、どちらかお出掛けですか? お供いたしますので、何なりとおっしゃって下さい」
「……やだ、ネジ兄さんったらかしこまって。私たちは従兄妹同士なのだから、普通に話して下さい」
――従兄妹同士……あなたにとってはそうでも、オレにとっては従者と主人だ。この人は、何も分かっていない。
苛々する。だが、無垢な姫君を害することのないよう、おくびにも出さずに付従ってやる。滑稽にも、勘違いしたまま暢気に過ごしていればいい――。そんな、意地悪で破滅的なことを考えた。
十三詣りに着た着物を洗い張りに出し、妹のハナビの為に寸法直しをするのだと言うヒナタの手には、彼女にはおよそ似合いそうもない華やかな黄色の振袖が携えられていた。忽ち、無駄な邪推をしてしまう。恐らくネジの考えは、当たらずとも遠からずだと思うが。これくらいならば許されるだろうと、彼女の劣等感を刺激せぬよう精一杯の皮肉を込めた。
「綺麗な着物ですね。いずれ日向を背負って立たれる姫君には、そのくらい華やかなものが相応しい」
しかしてヒナタの答えは、またしても、ネジを訳も分からず苛立たせた。
「そうでしょう? ネジ兄さんもそう思いますか? これはね、そもそもハナビが着る前提で選んだ反物だったの。私には母のお下がりの、淡藤色や桜鼠の、可愛い着物があるから……」
屈託のない笑顔で話すヒナタを、ネジは心底憐れに思った。本来ならば、長女のヒナタが優先されて然るべきなのに。むしろ五つ下の次女の当て馬のような扱いに、何の疑問も抱いていないようだ。呆れてものも言えないくらいだった。それに、呉服屋に遣いに出るなど、使用人に任せればよいものを、自らの足で赴こうとするその謙虚な姿勢を、幾分不愉快にさえ思った。
「……ヒナタ様。差し出がましいようですが、あなたのような立場の方が、妹君の世話に徹するなど、常識では考えられないように思います。あなたは、何故そんなにもお人好しなんだ?」
「お人好し? 私が? ネジ兄さんは、私をいい風に言い過ぎです。姉として、当然のことをしているまでなのに。それに、私は才能溢れるハナビのことを、心底応援しているのです。もちろん、一族の期待を一心に受けるネジ兄さんのことも……心から尊敬しています。迷惑だったらごめんなさい」
曇りのない真っ直ぐな目で想いを語るヒナタに、痛みにも似た焦燥感を覚えた。目を閉じて呼吸を整え、何とか心を落ち着かせた。
「……迷惑などとは、思いませんよ。ちなみに今日は、呉服屋に行って、その後どうするのですか?」
「ネジ兄さんの屋敷の近くに、菜の花が沢山咲いているでしょう? お父様とハナビに、お浸しを作って差し上げたいの。私よりもずっと修行に明け暮れている二人には、疲労が溜まっているでしょうから。よろしければネジ兄さんも、一緒に夕飯いかがですか?」
負けず嫌いのネジには、全く以て理解出来そうにない。この人は、何故こんなにも人思いなのだろう。自分自身は誰にも大切にされていないというのに……。
可哀相な人だと、心底、同情した。
*
夕飯を終えて縁側でくつろぐネジに、ヒナタが緑茶を出してくれた。
心を許し合ったと思って油断しているのか、ネジの隣にちょこんと腰を下ろすヒナタを、気づかれぬよう鋭い視線の端に捕らえた。そして彼女の付き人になってから、些か疑問に思っていたことをやんわりと問うてみた。
「……ヒナタ様。最近、鍛練の方はいかがですか? オレに気を遣って時間を取れないというのならば、何かいい方法を考えますよ」
再び、ちらりとヒナタの方を見遣れば……その白い肌が、ゆっくりと青褪めてゆくのが分かった。小さな口を一度結んでからそっと息を吸って、如何にも自信なさげに話し始めた。
「いつ修行をしているのか、ということですか? 誰にも、言わないで下さいね。きっと、私のことなど、誰も期待していないし……そもそも、人様に見せられるようなものではないから……夜、屋敷を抜け出して、演習場で、ひっそりと……独りで、黙々とやっています。それが、私には、お似合いだと思うから……」
――ああ、それで。傷だらけの腕に、気づかなかったのか。
自分のことを、分かっているのかそうでないのか、この人の胸の内はまるで読めない。
ただこれだけ言えるのは、彼女には彼女なりの悩みや苦しみがあって、その中で不器用にもがきながら、前へと進もうと必死なのだということだ。恵まれているがゆえに、愚かな姫君なのだと……宗家の甘ちゃんだと、内心では扱き下ろしていたけれど。いやむしろ、中忍試験でやり合った際、本音を包み隠さず、思い切りぶつけてしまったけれど。
――あなたは生まれながらに、日向宗家という、宿命を背負った。力の無い自分を呪い、責め続けた。けれど人は変わることなど出来ない……これが、運命だ。もう苦しむ必要はない……楽になれ!
滾る熱を、抑えることが出来なかった。ヒナタを見ていると、理性では全く制御出来ないほどの重苦しい情動が途端に湧き出てきて、瞬く間に支配されてしまうのだ。彼女の存在は、やはりネジにとっては腹立たしい。
嫌い、だから――。ヒナタのことが、嫌いだから。
暫く考えを巡らせていると、目の前に、見慣れた紺藍の髪が揺れた。真っ直ぐに切り揃えられた前髪と、伸びかけの後ろ髪を縛る蝶々結びが、首を傾げた彼女の顔をさらりと掠めた。まだ幼かった頃に初めて会った時……可愛い人だと思ったことを、今では心底恥じている。半人前の、忍として情けないほどに力不足な、憐れな人に。一瞬でも心を奪われたことが、悔しくて悔しくて、仕方がないのだ。
――可愛くない。断じて、可愛くない。
ともすれば、また触れてしまいそうになる衝動をどうにか抑えた。こんなにも真っ黒な自分へ変わらず柔らかな笑みを向けてくれるヒナタに、何故だかひどく腹が立つ。
本当に、苛々する……!
「……ヒナタ様。あまり自分を卑下するものではありませんよ。オレからすれば、あなたは十分過ぎるほどに恵まれている。少しはオレの気持ちも考えて下さい」
立場を弁えず、思わず口を衝いた言葉は……優しい彼女を困らせるものだと、分かっていたけれど。
どうにも止められなくて、やはりその表情を曇らせてしまった。
「ごっ、ごめんなさい! 私ったら……また、配慮の足りないことを……あの、本当に、ごめんなさい。もう二度と、あなたを悲しませるようなことはしないと、誓ったばかりなのに……」
――何故?
「……何故、あなたがそんなにも、オレを想う必要がある?」
つい本音で問えば、ヒナタは眉を下げたまま、ひどく哀しそうに言葉を紡いだ。
「だって……私にとってのあなたは、今でも……大好きな、従兄のままだから。あなたが私を、疎ましく思っていることは知っています。それでも私は、幼い頃の、あのあたたかい日々が……到底、忘れられそうにないのです。一方的でも構いません。私はあなたを、敬愛しています」
ようやく理解した。ヒナタの真っ白に澄んだ心が、自分の黒く濁った心を、まるで汚れているかのように映し出すから――。だから、ヒナタが苦手なのだ。
――迎合しない。断じて、迎合しない。
過剰な暴言を吐かれて、体もボロボロにされて、それでも、ネジを思い遣ることを止めない。そんな聖女のような眩しさが、負の感情に支配され続けている自分を、真っ直ぐに照らすから。痛くて、どうしようもなく息苦しくて、その清らかな瞳に負けそうになってしまう。自分の方がずっと強い筈なのに……誰にも見せたことのない脆さを、浮き彫りにされてしまう。
「……まったく。あなたは、本当にお人好しだな。オレのような者に、構うことはない。あなたとオレが、相容れることは難しい」
――違う。こんなことが言いたい訳ではない。でも、止められない。
「だいたいヒナタ様は、誰にでもそのようなことを軽々しく口にするのですか? ならば止めておけ。今に舐められて、下に見られるぞ」
そう冷たく言い放てば。ヒナタは立ち上がり、ネジに背中を向けて応えた。ゆっくりと見上げれば、花のような甘い香りが、ふわりと鼻を掠めた。
「……あなただけです。誰にでも言っている訳ではありません。舐められるとか、下に見られるとか、そんなことはどうでもいい。私があなたを好きだと、そう思うのだから仕方ないでしょう? 勝手に思っておくので、放っておいて下さい」
――だからそういうことを、軽々しく口にするものではない。
負けた。明らかに力で劣るヒナタに、思い切り打ち負かされた。やはりこの人には敵わない。ネジは、半ば自分を嘲るように笑った。振り返った彼女の横顔も笑っていた。
「……もういい。オレは帰ります。演習場に行くのならば、送って行きますが」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。皆が寝静まってから一人で向かいます。これは、自分自身との戦いですから」
ほんわかしているように見えて、実は頑固で、一本筋が通った揺るぎない強さを持っている。柔らかくて、優しくて、人思いで……向こう見ずなヒナタに、苛立つ心は消せないけれど。
きつく絡まった糸が、少しだけ、ほどけたような気がした。
――息が、苦しい。
陰ながらの努力を決して見せることなく、まるで平気な顔をして、沢山の苦悩を抱えている。本当は自信のない自分を奮い立たせて、無理をして……負けずに踏ん張っている。そんなヒナタを、思わず応援してしまいそうになるのを、どうにか堪えた。
次は負けない。何故こんなにも突っかかりたくなるのかは分からないが、次は、絶対に彼女を打ち負かしてやろうとひそかに思った。
――覚えておいて下さい。オレは今夜のことを、決して忘れない。
帰り道、仄かな薔薇のような香りが鼻を掠めた。晩春を彩る、満開の山吹の匂いだ。
しかし、ヒナタの纏う甘い香りほどに、心を動かされることはなかった。