2015.09.13更新
2015.09.28修正
伸びかけの細い紺藍の髪を紐で縛り、蝶々結びをする。
これまで短く切り揃えていたヒナタにとって、それは、願掛けのようなものだった。
憧れの人が木の葉の里を去り、幾らかの時が流れた。季節は、静かな春。ひらひらと舞い散る桜吹雪を見ることもなく、彼は行ってしまった。思えばヒナタは幼い頃から、うずまき柄の彼の背中を――。ずっと、追い続けていた。
半年前の中忍選抜試験において、明らかに格上の、従兄のネジと一戦を交えた時もそうだ。
――いいぞー! ヒナター! ガンバレー!!
憧れの彼の声援があったからこそ、真っ直ぐに前を見据えて、根性で踏ん張ることが出来た。結果は、惨敗だったけれど……。
――ナルト君……私は次にあなたに会うまで、あなたのような揺るぎない強さを身に着けられるまで。髪を、切らないことに決めました。
――憧れのあなたが、絶対に諦めないという強い意志を以て勝利したネジ兄さんのように。一族の期待を一心に受ける彼に倣い、長い髪をたなびかせて、格好よく戦いたいから。
正直なところ、怒りや哀しみ、憎しみといった負の感情を剥き出しにしてぶつかってきたネジを、今でも苦手に思う。全てを諦めたような……それでいて、不遇な自分をどうにか強く保とうと、冷たい熱を滾らせた瞳がどうしようもなく怖いのだ。
人前では強がっていても……本当は迷いだらけの自分を、全て見透かされそうな気がして。
――それは違うわ……ネジ兄さん。だって……私には見えるもの……私なんかよりもずっと……宗家と分家という運命の中で……迷い苦しんでるのはあなたの方……。
自分の、その配慮の足りぬ一言が、彼を追い詰めてしまったことは言うまでもない。だってネジは、明らかに力で劣るヒナタを無闇に傷つけるようなことはしたくないと、試合を棄権するよう勧めていたから。そんな彼の忠告に全く耳を貸さず、無謀にもしつこく食い下がり、返り討ち遭ったのは自分の責任なのだ。それなのに。独りぼっちのネジと比べればずっと恵まれた立場の自分が、言葉でも彼を傷つけてしまった。
残酷な運命の中、いつも独りで、誰にも頼ることなく、必死に努力を重ねて――。自棄になっても仕方ない境遇だったにも拘らず、ずっと、前を向いて駆け抜けてきた彼を。
……思い切り、突き落としてしまった。後悔しても、もう遅いけれど。
天才と賞され、若くして多大なる力を誇っていたとしても、彼の中に流れるのは皮肉にも分家の血。宗家の当主である、ヒナタの父・ヒアシに認められたところで、古く、堅苦しい日向一族において、ネジの立場がそう簡単に変わるとは思えない。
……額に刻まれた、宗家への絶対服従を意味する呪印は、死ぬまで消えることはない。その現実は、今でも変わらないというのに。
あれからネジは、対立し続けていた宗家と和解し、表面上はヒナタとも穏やかに接してくれるようになった。しかしあの試合で触れてしまった彼の本音は、あまりにも深くヒナタを貫いてしまった。
今もなお痛くて、到底、忘れられそうになかった。
――ネジ兄さん……ごめんなさい。私が哀しみの淵に追い遣ったあなたを……希望を奪い取ってしまったあなたを、いつまでも……どこまでも苦しめてしまって。
ネジの幸せを考えてはみても、宗家と分家というしがらみの中、これから先も縛られ続ける上に、その原因を作った張本人である自分に出来ることなど、何もないだろう。それに、自分は彼に疎まれていて、そうやって気遣われること自体が癪なのではないかと、距離を保ったまま、互いに心を重ねることはなく、いつまでも虚しい時間が過ぎてゆくばかり。
そんなある日の夜のことだった。
落ちこぼれの自分に、唯一優しく接してくれる付き人のコウが、どうしても外せない任務で、ヒナタから離れることになった。あまり、将来を期待されていないとはいえ、宗家の姫君であるヒナタに誰も付けぬ訳にはいかないからと……急遽、宛がわれたのは他でもない。
「……ネジ兄さん……どうして、あなたが私の元へ?」
「コウの代役です。オレでは、不服ですか?」
「いっいいえ! そういうことではありません……でも、あなたは私を……いえ、何でもありません。今夜から、暫くよろしくお願いいたします」
「……こちらこそ」
素っ気無く言い放ったネジは、いつもの忍装束ではなく、日向の家紋入りの、黒い着物を着ていた。何故か額あても付けておらず、痛々しい呪印がはっきりと目視出来た。
しかして彼を玄関から客間へと通す為、主人が出掛けた静かな屋敷をゆっくりと歩いた。道すがら廊下に差し込む月明かりを、ヒナタは不安げに、縋るように見上げた。ネジは、自分は客ではないからここでいいと言って、縁側の途中で立ち止まった。
重苦しい空気をどうにか払拭しようと、そろりとネジを見遣ったヒナタが口を開いた。
「……あの、ネジ兄さん。どうして、そのような出で立ちで来られたのですか?」
「ああ……急に里を出ると言い出したあなたの父上と妹君に、半ば強引に、召集命令を受けたもので」
「……それで、急いで、お越し下さったのですか? こんな時間に、私の為に?」
冴えた月が、ネジの整った顔を照らした。片方の口角を上げて、些か歪んだように見えるそのぎこちない笑顔は、ヒナタを、恐怖へと陥れた。
「……勘違いしないで下さい。これはオレの意思ではない。宗家の命令は、絶対だから……抗うことは、許されないから」
ヒナタは、やはりネジを苦手だと思った。仮にそう思っていたとしても、ヒナタなら本人を目の前にして口に出すべきではないと判断するからだ。そう、ネジとヒナタは根本的に違い過ぎるのだ。
それでもネジの忍としての輝かしい才能に、憧れを抱いていることも事実だった。そんなことは、ヒナタを疎ましく思う彼には、到底伝えられそうにないけれど。思えば、父や妹、付き人のコウを置いて二人きりになるのは、幼い頃以来のことだった。この状況が、改めて恐ろしくなった。
話題を、探す。ここで黙りこくっていると、余計に恐怖に飲まれそうだったから。
「そっそういえば、ネジ兄さん……サスケ君奪還任務の時、短くなった髪は、元の長さに戻りましたか?」
ネジは縁側に座り込み、胡坐をかいて、腕組みをしながら答えた。真っ直ぐに前を見据えて、ヒナタの目を見ることはしなかった。
「……見て、分かりませんか?」
その声はひどく褪めていて、ヒナタの胸を切り裂くかのように鋭かった。
訪れた沈黙にどうにも居た堪れなくなってしまった。お茶を入れて来ると告げて、早々にその場を立ち去った。
暫くして温かい緑茶を入れたヒナタが、ネジの元へと戻って来た。やはり彼は無表情のまま、心の内を窺い知ることは出来なかった。
ヒナタは苦手意識を奥へと追い遣り、どうにかネジの隣に腰掛けて湯飲みを差し出した。父がいる時は、作り笑顔でも、穏やかに対応してくれるのに――。今夜のネジは、全身に警戒心を貼り付けて、絶対に迎合しないとばかりに、冷たい空気を放っていた。
ネジは礼も言わず、ヒナタの手元を凝視している。怖くて、すぐさま手を引っ込めようとすると、その大きな手に、不意に手首を掴まれた。ヒナタはひどく驚いて、瞬く間に震え出した手を下げようとした。
だが、ネジの力があまりにも強くて、どうすることも出来なかった。
「あ、あの……ネジ、兄さん……?」
恐る恐る声を掛けると、ネジがもう一方の手で、ヒナタの着物の袖を捲り上げた。途端に中忍試験での恐怖が蘇って、動けなくなってしまった。
「……ヒナタ様。これは一体?」
「……っ!」
ネジの声色は、やはり冷め切っていた。その鋭い視線に、逃げ出したくなった。
――こ、怖い……!
声が、出ない。過去、圧倒的な力の差で打ち負かされたという事実が、次第にヒナタの理性を奪ってゆく。しかしネジはそんなヒナタの様子にもお構いなしで、感情の読めない低い声で続けた。
「これは、何だと聞いているんだ。早く答えろ」
今にも泣き出しそうなヒナタの目に飛び込んできたのは、自分でも何故気づかなかったのか分からない、直視し難いほどの痛々しい傷痕だった。まだ成熟していない細い腕に、無数の赤い痣が、重なり合うように滲んでいた。
「あ……あの、あの……こここれは……じ、自分でも、覚えていなくて……」
しどろもどろのヒナタを圧して、ネジは尚も無表情のまま、右手にチャクラを溜めていた。
そしてその手を、傷痕にそっとかざしてくれた。手首を掴む左手には、痛いくらいに力を籠められたままだったというのに。ヒナタは何が起こっているのか分からず、恐怖に戦慄いた表情でじっと見ていることしか出来なかった。
少しして袂から白い包帯を取り出したネジが、ヒナタの華奢な手首から、指先へと右手を滑らせた。
「あと少しの我慢だから、じっとしていろ。もう、二度とあなたに触れることはしないから……だから、そんな顔をしないで」
内心では怖がっていることをいとも簡単に見破られて、向けられる視線はあまりにも鋭くて、言葉も乱暴そのもので――。それでもヒナタの指に触れるネジの繊細な指は、ひどくあたたかくて、泣きたいくらいに優しかった。
大輪の、赤い花を散らしたような傷痕を、器用に包帯で巻いてゆくネジの手つきを、綺麗だとさえ思った。
その痛々しい腕が、あっという間に白くて柔らかい包帯にくるまれた。ネジはすぐさま手を離した。
「……あなたは相変わらずだな。自分のことに無頓着過ぎる。あなたの立場ならば、そのような状態の腕を、手当てもせずに放置しておくなど考えられないと思うが……」
「わ、私のことなんて……誰も、気にしていないから……でも、嬉しかった。立場的に仕方ないとはいえ、こんな私を気遣っていただいて、ありがとうございます」
ふと、ネジの方を見遣れば、哀しいとも苛立っているとも取れる、複雑な表情でこちらを見ていた。辛くて、苦しくて、ヒナタは何を思ったのか、不意にネジの額の呪印に触れて、慈しむように撫でていた。
――自分でも何故そんなことをしたのかは分からない。
だが、仲睦まじく寄り添っていた幼い頃のように……心を込めて、ヒナタはネジに触れたのだった。一方のネジは、眉間に皺を寄せてきつく瞼を閉ざし、その唐突な行為をただひたすらに受け入れていた。それも立場上仕方ないからなのかとヒナタは寂しくなった。
「……ネジ兄さん、あの……ずっと言えなかったのですが、中忍試験の時、ひどいことを言ってしまって本当にごめんなさい」
今ならば……今夜ならば伝わるかもしれない。刺さるほどの後悔の念と、苦しいくらいの反省の意を、ヒナタはどうにか言葉にした。
すると、徐に目を開いたネジが、ヒナタを一瞥した後、視線を逸らして応えた。
「いや……謝るのはオレの方だ。父のことや、宗家と分家のこと……互いに生まれたくて生まれてきた訳ではなく、あなたに非がないことは分かっているのに。それでも優しいあなたに当たり散らすことでしか、自我を保っていられなくて……ヒナタ様には、本当に悪いことをした」
思いもよらぬネジの言葉に、ヒナタの藍白の瞳からは、大粒の涙が零れた。
泣いた所為で見る見るうちに赤く染まる白い肌を、ネジは同じ色の瞳で黙って見つめていた。困っているとも心配しているとも取れる、複雑な表情だった。それから少々考え込んだ後、徐に口を開いた。
「ヒナタ様……さっき、もう二度と触れないと言ったけれど……やはり、あなたに触れてもいいですか?」
清く、儚い月明かりの下。不器用に笑うネジはまるで、かつて実の兄妹のように寄り添っていた、あの頃のように……ヒナタを今でも大切に想ってくれているかのような、優しい顔をしていた。
そんな筈はない、勘違いしてはいけない……そう思いながらも、十年の時を経てようやく柔らかい笑みを向けてくれたネジに、ヒナタは胸がいっぱいになった。言葉に出来なくて、一生懸命頷いて見せた。そして、遠慮がちにそっと頭を撫でてくれたネジの手が、あまりにもあたたかくて――。
涙が、止まらなかった。
いつも不甲斐ない自分が、忍としてずっと格上の彼に、どうすれば力を添えられるかと。考えてみたところで……到底、答えを出せそうにないけれど。それでも。
普段から殆ど笑わないネジが、自分だけに向けてくれた笑顔が相当に嬉しくて……。
いつかまた、その隣で心から笑い合えたらと、強く願わずにはいられなかった。
その為にも、もう絶対に、彼を悲しませることはしないと誓ったのだった。