2016.06.19更新
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「いいか? 絶対に喋るな。何があっても絶対に喋らないでくれ」
「……は、はい」
「本当に大丈夫か? あなたはそそっかしいから信用できないな」
「だ、大丈夫です……」
「とにかく喋るな。オレからの命令はそれだけだ」
「……」
(一度言ったら分かるのに……兄さんったら、何をそんなに……)
いつになく険しい顔をしたネジが、ヒナタの肩を掴み、何度も言い聞かせてきた。そのしつこさにはさすがのヒナタも辟易したが、きっと不器用な彼の精一杯のやさしさだと思うから……。そう、吊り上がった眉、眉間に刻まれた皺も、すべてが、彼のやさしさから出来たものだ。
いつだって真剣にヒナタの身を案じてくれる彼に、少しでも報いたい。任務完遂への決意を、改めて強く結んだ。
「分かりましたね? 喋ってはいけませんよ。ずっと口を噤んでいてください」
「ええ、もちろんです。小隊長の指示に従います」
そんな不毛なやり取りを隣で聞いていたキバは、明らかに面倒くさそうな顔をしていた。が、取り立てて否定している様子もなく、どこか、微笑ましく見てくれているようにも感じた。
そして、ご多分に漏れず、赤丸も困った顔をしていたが、彼もまた、ネジを好意的に見てくれているような気がした。
濃藍の空も、銀色の星も、まるで嘘だったかのように散り散りになって、白藍の空には、金色の太陽が、きらり、まぶしい光を放っている。
海沿いのその場所は、幼い頃にネジと見た青い景色に似ていて、心がひどく落ち着いた。
一行は、野営地の岩場を片付けて、今一度、装備の確認をした。
「最強の下忍」と称されるネジの服に包まれていると、何やらよく分からない自信がこみ上げてきて、どんな敵も、容易に蹴散らせそうな気さえする。しかして、大きな上着の裾を引っ張って整えると、ネジとキバと赤丸と視線を交わし、頷き合った。
海岸の道を抜け、海と山に囲まれた小さな城下町の門前までやって来た。
すると、白地に赤い紐の付いた水干に、深紫の指貫袴といった風体の守衛が、穏やかに出迎えてくれた。一穂と名乗ったその男の、短めの淡い栗色の髪、べっ甲の眼鏡、人当たりの良さそうな様相は、気難しそうなネジとは正反対に見えた。
ヒナタは女であることを絶対に気取られぬよう、額の辺りに力をこめた。ところが、彼はまるで気にも留めずに、人懐こい笑顔を向けてくれた。
「木の葉の里の方々ですね。お待ち申しあげておりました。依頼主の大名様があの城のふもとにある屋敷でお待ちです。さっそくご案内いたしますのでこちらへ……ちなみに、本日、この国は厳戒態勢が敷かれています。普段は城内の警護についている者が出払っていますので、外部からの侵略を許しやすくなっていることでしょう。くれぐれもお気をつけください」
「小隊長の日向ネジと申します。彼は忍犬使いの犬塚キバ、それからこちらは弟のヒナタです。任務の内容は火影様から仰せつかっています。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
何でもここは巫女の国らしく、国土全体が大きな神社のような作りになっている。そしてその中心には、石造りの無機質な城が建てられていた。はじめて目にする荘厳な景色に気圧されていたら、横にいたネジが、上着の裾を、さりげなく引っ張ってきた。ヒナタはすぐさま我に返り、キバと赤丸と共に、守衛に会釈した。
「はるばるお越しいただきありがとうございます。よろしくお願いいたします」
「オレに任せとけって。護衛任務は得意中の得意だからな」
「キバ、口を慎め。お前は常識というものを知らないのか」
「まあまあ、ネジさん、私は大丈夫です。むしろ友好的に接していただけた方が嬉しいですよ」
「ぶしつけな奴でして、本当に申し訳ありません……」
「いえ、とんでもないです。ちなみにそちらの忍犬さんは何と?」
「へへ、赤丸ってんだ! 小さいけど強いんだぜ!」
「赤丸さんですね、ヒナタさんも本日はよろしくお願いいたします」
「ワン!」
「……」
「弟は、ちょっと今声を失くしておりまして……戦闘には差し支えないのでどうぞご心配なく」
「忍の世界に身を置いていたら色々ありますよね。早くよくなるといいですね」
「ええ、ありがとうございます……」
彼の落ち着いた物腰には些か安心感を覚えたが、これは思っていたよりも難易度の高い任務なのではないか。普段とまったく変わらぬネジの様子を見ていたら、もたげた恐怖心が、少しは和らいだのだけれど……。街を見渡してみれば、道行く人々はどこかよそよそしく、お世辞にも明るいとはいえない雰囲気だった。
現時点では想像の域を越えないが、何とも不穏な空気を感じる……。言葉では言い表せない、直感的な何か。
一層気を引き締めて、大切なネジとキバの足を引っ張ることのないよう心を律した。
俯き加減の人々とすれ違いながら、街の中でも一際目立つ、大きな城の方へと向かった。火の国に比べればこの国はずっと小さく、中心部までがちょうど一里ほどだったので、一時間も歩けばすぐに辿り着くことができた。
依頼主の女大名が待っているという屋敷は、木の葉の里で名門といわれる日向家の建物より、段違いに立派に見えた。視界に収まりきらないほど、ずっと先まで続く白い塀は、まさに圧巻であり、周囲に、一穂の部下と思われる守衛が、何人も宛がわれていた。
あの狭い世界で、里を掌握したかのように振る舞う我が一族が、何とも情けなくなった。
「どうぞ上がってください。ここが、我々のお仕えする紫蘭様のお屋敷です」
ともすれば、玄関だけで数十人が介せるほどに広い屋敷へ、遠慮がちに足を踏み入れる。
朱色の房が垂らされた深紫の幕に、蘭を模した紋が、白ではっきりと染め抜かれていた。
神社のような門構えの上がり口周辺に、広い庭園へと続く石畳が敷かれている。紅い太鼓橋が架かる池には、起き抜けよりもにわかに煙ってきた空模様が、どこか朧げに映し出されていた。趣きのある風情に目を奪われて、思わず声に出しそうになったが、ネジの口うるさい忠告が頭をよぎったので、どうにか引っ込めた。
(すごく素敵……もう少ししたら紫陽花が咲くのかな? 何だか、恋の俳句に出てきそう)
ネジが聞いたら呆れるような、至って呑気なことを考えながら、守衛を先頭に、ネジとキバと赤丸のあとをついて歩く。さて、日向宗家とは比べ物にならないほどに長い、長い廊下を抜けた先に、金色に装飾された、紫色の蘭が描かれた戸が見えてきた。そこに件の女大名がいることは間違いなさそうだ。
前を行く赤丸が、心配そうな面持ちで振り返ってきたので、ヒナタはまるで事も無げに、笑ってみせた。赤丸も、笑う。いつでも気に掛けてくれる彼には、感謝しきりだった。
戸の前に立つと、先ほどまでは穏やかそうに見えていた守衛の表情が一変した。
三回ノックして、戸の向こう側に、厳かに語りかける。
「紫蘭様。木の葉の里の忍を連れてまいりました。お部屋に上げてもよろしいでしょうか?」
「一穂か。ずいぶん遅かったんだな……まあよい、さっさと入れ」
返ってきた言承けは、品のある綺麗な声に、まったく似つかわしくない口調だった。
しばしの沈黙のあと、内側からゆっくりと戸が開けられる――。
……藤紫の薄い布が掛けられた向こう側に、大名と呼ぶにはあまりに不釣り合いな、ヒナタらと大して歳の変わらぬ女がいた。彼女の纏う桜色と朱色の装束は、神職のものに似ていた。
守衛に続いて部屋の中へと入ると、紫蘭が、伏せていた目をおもむろに向けてきた。
(とても綺麗な人……!)
淡い黄色の長い髪に、鮮やかな朱色の鈴の髪飾りが揺れている。そこから、水のように澄んだ儚げな音が鳴り響いた。赤みのある薄紫色の目には、ネジとヒナタの冷々たる白眼とは違って、艶やかな光が雅びに満ちていた。堂々としたうつくしさに些か圧倒されていたら、再び鈴の音を奏でながら立ち上がった紫蘭が、不愛想に言葉を零した。
「お前たちの中で、一番の実力者は誰だ? そこの髪の長い男か?」
一瞬眉を顰めたネジが答える。
「申し遅れました。木の葉の里より参りました、小隊長の日向ネジです。班員の犬塚キバ、同じく弟のヒナタです。この度のご依頼は紫蘭様の護衛だと伺っております。出過ぎたことを言うようですが、三人で就きますので、誰が一番とか、そういったことはあまり関係ないのでは?」
「……そこのアホ面はともかく、一番小さいの、紺色の髪のお前、いかにも頼りなさそうだが、大丈夫か? 私は命を狙われているんだ。中途半端な力量では困るのだ」
「なっ、なんだと? アホ面ってオレのことか? お願いする立場でそれはないだろ……!」
「キバ、お前こそ立場をわきまえろ」
騒ぎはじめたキバの口を無理やりに押さえて、羽交い絞めにしたネジが続ける。
「依頼主様が、命を狙われているとまでは聞いておりません。詳しくお聞かせ願えますか?」
「一穂、説明しろ」
「……先ほど、こちらへご案内する道中にお話ししましたね? 本日は、城内の警護に就いている者が出払っています。我が国では、大名家同士の小さな諍いが絶えず、警備が手薄になる今日のような日に、奇襲を掛けられる事件が頻発しています。紫蘭様のような若い女性大名は、ターゲットになりやすいんです」
「いったい何を争っているのですか?」
「国内での利権ですね。もう少し言うと、紫蘭様は未来を予知する能力をお持ちですので、そこを買われている現状が、気に入らない者が大勢いるようです」
「予知?」
「私には未来が見えるのだ。ネジと言ったな。お前のこともこの鈴で占ってやろうか?」
「……せっかくですが結構です。自分の未来は自分で切り拓きますので」
「なかなか言うな。しかし、お前のような奴は嫌いじゃない。……ここは巫女の国だ。私も一介の巫女であり、この特殊な能力は忍の世界で言う血継限界のようなもの。ずっと女が優勢のこの国は、慢性的に男手が足りない。移住したくなったらいつでも来い。私が使ってやる」
(だから男の忍を希望していたのね……でも、ネジ兄さんが移住とかしたら、やだな。木の葉の里で、私のそばにいてほしいな)
ようやく合点がいく。紫蘭の髪飾りからは、底知れぬ不思議な力を感じたのだ。
「よし、決まった。ネジは私のそばに就いていろ。キバは屋敷の前方を、ヒナタは庭園の警備。一穂はここに残れ」
「ええ、承知しました。私だけでは心許ないので助かります。ネジさんよろしくお願いします」
「……こちらこそ」
「おう! 任せろ! オレの実力を見せてやるよ。屋敷の中には誰一人として入れねぇからよ。安心して三人で茶でも飲んでろ」
「キバ、だから口を慎めと言っているだろう。お前は言葉を知らないのか?」
「まあ、よい。ネジに免じて許してやる。……ところで、ヒナタとか言ったな。お前、さっきから何も言わないがどうしたんだ? 怖くなったか?」
「……弟は今声を失くしていて、言葉を発することが出来ません。でも、ご安心ください。彼はとても強い忍です。少なくとも、オレは認めています」
「オレもだぜ! ヒナタ、一緒に外の警備頑張ろうな」
「……」
「ならば安心だな。それでは頼んだぞ」
それは依頼主を安心させるための、ただの方便だったのかもしれない。
けれどもネジの言葉が、ヒナタは泣きたいくらいに嬉しかった。必ず報いてみせる、再び強く決意した。
ヒナタから視線を逸らさないネジに後ろ髪を引かれながら、キバと赤丸と共に、紫蘭の部屋を出て、それぞれの担当へと向かった。
空は一層煙って、冷めた空気が湿り気を帯びはじめていた。