2016.05.29更新
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木の葉の里を出て、深い緑と青に囲まれた静動の森へと突き進む。日が昇りきり、隈中真っ只中のその場所は、眩しいほどに澄んだ木漏れ日が、幾筋も射し込んできていた。薄紫色の大きな目を細め、短い前髪を風に散らしながら、サイズが合っていないせいで膨らむネジの服を押さえて、晴れやかな心緒で彼の後を追う。
小隊長のネジ、ヒナタ、キバと赤丸の順を指示したのは、ヒナタを気遣ってのことなのだろうか。……それはさすがに、自分に都合よく解釈しすぎだろうか。しかし、厳しい中に見えるネジのやさしさが何より好きなヒナタは、はじめての彼との任務を、内心喜ばしく思っている自分に気づいた。
(大切な仕事なのに……こんなこと、ネジ兄さんに言ったらまた叱られちゃうかな)
いまだ実力不足であることは、自分が一番よく分かっている。が、いつまでも守られてばかりでいるわけにはいかない。ネジとキバという大切な仲間と共に任務にあたることを、心底心強く思いつつ、今度こそ己の力で成功へと導きたいと、決意を結ぶ。誰よりも敬愛するネジに、いつもヒナタの身を案じてくれるキバに、勇姿をもって成長を示したい。
慣れない男装で思うように動かぬ体を奮い立たせて、何があろうとも、必ず強く戦い抜いてみせるという意思を、胸に刻んだ。
木の幹を蹴り上げ、背の高い天辺へと登る。木と木を素早く飛び移りながら、低い位置で丁寧に束ねられた、黒檀の長い髪を必死に追いかけた。まっすぐに伸びた背筋、凛としたその後ろ姿は、幼い頃から何も変わらない。
日向という閉鎖的な一族において、彼に負わせてしまった深い傷、それはヒナタの大好きな、穏やかな笑顔を奪ってしまった――。が、元来の清廉な強さは、陰るどころか一層輝きを増し、その孤独な高潔さには胸が締め付けられる一方だった。
遥か後方から見守っていることしかできない自分が、ひどくもどかしい。
直接的ではないにせよ、ネジの唯一の家族だった父・ヒザシの命を奪った代償は相当に重く、ヒナタの背負う十字架は、自身が死ぬまで……もはや死んでも消えないくらいに黒く染まって、かつては仲睦まじく寄り添っていた従兄妹同士の心を、奥深くまで蝕んでいた。
先の中忍選抜試験においてネジに負わされた傷、それは、到底看過できないことである、と周囲の者は言う。ところが、当のヒナタは、幼い頃に修復不可能なほどに亀裂が入り、軋轢を生じていた彼との関係に、ようやく光が射したような気がして、あたたかな希望を抱いていた。
――またネジ兄さんと笑い合えたら、他には何もいらない……。
(戦わなきゃ。隣に、また堂々と並べるように。負けない――私の手で、あなたの痛みをほんの少しでも緩和したいから)
程度の差はあれど、ネジとヒナタは忍として同じ能力の持ち主だ。任務に同行することなど、本来はまず考えられない。里が襲撃を受け、非常事態に人手不足が重なったことにより起こった偶然の巡り合わせである。
……不謹慎を自覚しながらも、おそらく二度とない貴重な機会を大切に、噛み締めて過ごそうと思った。
静動の森を越えて、渇いた地質が切り立つ砂漠へと差し掛かった。砂塵が舞う中、まるで平然としたネジから目を離さぬよう、手で眼を庇いながら必死に走った。少し後方から、キバの粗雑な足音と、赤丸の小さな呼吸が聞こえてきて、それは思いの外ヒナタを安心させた。見渡す限りの砂嵐と岩壁、大きな鷹が多数生息する地帯を越えたらやっと、広い広い海が見えてくる。そこへ着くとようやく、休みなく走っていたネジが足を止めた。
それを承けてヒナタとキバも歩を休め、小隊長からの指示を待つ。春には、桜が咲くのだろうか? ネジに倣い、青葉の光る立派な木の下、三人と一匹で輪になって腰を下ろす。
「いったん休憩にしよう。このままだと予定よりも早く着けそうだ。特にヒナタ様、あなたにはそろそろきついでしょう」
ネジの口を衝く、幼い子を相手にしたような物言いに腹が立たないこともないが、気に掛けてくれていることは素直に嬉しい。キバと赤丸と顔を見合わせて、頷き合うと、晩春の涼やかな風が吹く中、荷物を下ろして空を見上げた。
――青い青い、ただひたすらに澄んだ空。
互いに、純粋に想い合っていたあの頃のことを思い出す。弧を描いた七色の虹も、真っ青な空も、小さな背中を並べて共に見た景色。今も決して色褪せることのない、あたたかな幸福に満ちた宝物のような記憶。
離れ離れだったこの十年間、片時も、忘れることはなかった。
「……喉は渇いていませんか? あなたはいつも勝手に無理をして、かえって周りに迷惑を掛ける。キバ、お前もこの頑固者と同じ班だと苦労するな」
こんな風に、さりげなく気に掛けてくれるところも、何も変わらない。
昔を思えば、ずいぶんぶっきらぼうになってしまったけれど……。ネジの本質は、自分を差し置いても、いつだって誰かを想ってばかり。特に、目下の相手には無条件にやさしい人なのだ。横柄な振る舞いのせいでいつも誤解されるネジを見ているのが、ヒナタは辛かった。
しかして少しむきになった様子のキバが、口を開く。
「人は自分を映す鏡とはよく言ったものだ。お前こそ一番の頑固者のくせに」
赤丸が、ぶんぶんと頭を縦に振っている。ネジは一瞬鋭い視線をそちらへ向けたものの、ヒナタとキバの二人に、冷たい飲み物を渡してくれた。それはひどく乱暴な仕草だったけれど、不器用なネジの最大限の気遣いなのだ。神速に、心があたたまった。
ヒナタは沸き上がる喜びを抑えきれずに、にっこりと微笑んで受け取った。
……そして晴れやかな声で言う。
「ありがとうございます。相変わらず、やさしいんですね……」
思わず、本音が口を衝いてしまった。仏頂面で答えたネジは、
「……そういうのは、言わなくていい」
どこか苛立ったような口調だったが、心から嫌がられているようには見えなくて、安心した。
ネジのくれた飲み物を、ゆっくりと味わうよう、そっと口に入れた。そういえば、幼い頃にもこうして、心を配ってくれたような気がする。また三人と一匹で空を見上げながら、束の間の休息を、穏やかに過ごした。
それから海沿いの道を走りきり、夜、目的地の小さな城下町まで辿り着くと、少し手前の岩陰にて、明朝まで野営することになった。
ネジとキバが競い合うように捕ってきた食料を、大切に口に運べば、これまで食べた夕飯の中でも、一番といってもいいくらい美味しくて、幸せな味がした。
皆での食事を終えたら、ネジが見張りにつくからと、ヒナタとキバと赤丸は仮眠を取らせてもらえることになった。きっと、彼はいつだってこうなのだろう。普段属する班員のことも、自分のことは後回しにしても、いつも大事にしているのだろう。如何せん、言葉が粗暴で伝わりにくいけれど、ネジは誰よりも人想いな人だ。ヒナタはネジのそんなところが大好きだ。
本人に言えば、また眉間に皺を寄せて、不機嫌な面持ちになるのかもしれないが……。
好きなものは好き。今でも大切な従兄であることに変わりないのだから、仕方がない。
濃藍の澄んだ空に瞬く、銀色の星々を、キバと赤丸と共に仰向けになって眺める。
少し離れた海から聴こえてくる波の音に耳を澄ませれば、心が洗われて、晴れ晴れとした気分になった。
その少し向こう側にはネジがいて、素っ気なく背中を向けながらも、こちらを気に掛けてくれていることが控えめに伝わってくる。ヒナタはひどく安心して、心地よい心緒で眠りについた。
キバと交わした小声での会話にも、心底安らぎ、ネジの傍でとてもあたたかな夢を見る――。
――なぁ、おいヒナタ。あいつとの関係はどうなんだ? 相変わらず憎たらしいが、嫌じゃないのか? 傍から見てて、すげぇ腹立つんだが……。完全にお前のことを馬鹿にしているし、自分が一番強いと信じて疑わない態度が気に食わねぇ。あのナルトに惨敗したくせによ。まあ、それはオレもなんだが。
――ふふ、私は大丈夫だよ。でもありがとう。ネジ兄さんはああ見えて誰よりやさしい人だし、私のことをちゃんと心配してくれてるんだよ。それに、ナルト君は強いよ。きっと誰より強い。
――そうなのか? ずいぶん前向きだな。しかし、ヒナタだってナルトが勝つとは思ってなかったんじゃ? オレが負けたのは仕方ないにしても、あいつが負けるとはな……。
――そうだね……。意外だったけど、終わってしまえば当然の結果だったような気もする。キバ君もネジ兄さんも、ナルト君と戦って変わったように見えて、私はそれが嬉しいな。
――お前はいったいナルトの何なんだよ……。
――ナルト君に憧れる一人のファンかな? 可笑しい?
――ああ、ならオレもそうかな……いや、断じて違う。オレこそが火影になるからライバルってとこかな。
――応援してるよ。キバ君もネジ兄さんもナルト君も。みんな強くて格好いい。私も頑張らなくちゃ。
――お前のことはオレと赤丸が応援してやる。きっとシノも紅先生も、ちゃんとヒナタを認めてるよ。
星明りの下、小さく頷く赤丸の姿が見えた。胸がいっぱいになって、涙が零れそうになった。
ヒナタは決して一人じゃない。大切な人たちが、こんなにもまっすぐに、心を注いでくれる。
一介の忍として、彼らの目指す平和への道筋を、少しでも先へと進める、力になりたい。
強く決意を結んで見た夢には、ヒナタとヒアシ、ネジとヒザシ、ナルトとその両親が幸せそうに微笑み合う、望んでも叶うことのない、儚くもあたたかい空想の未来が広がった。
親と子が簡単に引き裂かれてしまうような殺伐とした忍世界は、もう終わりにしなければならない。
ネジと共に就く貴重な任務で、足手まといになるわけにはいかない。絶対に成功させてやる。力を尽くして、ネジにもいつか認めてもらいたい……!
昨夜そんなことを考えていたら気づけば眠りに落ちていて、眩しい陽光で目を覚ました。
依頼主との対面はすぐそこだ。一睡もしていないネジを気遣いながらも、慣れないチームで挑む初の任務に、心を引き締めた。