2016.06.19更新
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いったん玄関まで戻って靴を履き、本日の職務に就く。ヒナタの声に関して、庭園を警護している紫蘭の数名の臣下に向けて、キバが説明してくれた。キバと赤丸も、先ほどのネジと同様、どこか心配そうな視線をこちらに向けながら、自分の持ち場へと去っていった。
少し心細かったけれど、ネジの言葉を思い出し、その信頼を裏切らないよう、心に誓う。
臣下の男たちは、一穂と同じ、白と赤と紫の装束を着ていたが、穏やかな風貌の彼とは違い、どことなく粗暴な印象を受けたので、ヒナタは少し警戒した。
終始小声で何かを話していて、とてもじゃないが警備にあたっているようには見えなかった。しかし、これは外部からの奇襲を防ぐための任務。彼らには構わず、庭園の外へと気を張っていなければならない。いつでも白眼を発動できる態勢を取った。
しばらく、何事もなく時間が流れていった。ここへ来たときに覚えた不安は、取り越し苦労に終わるのだろうか。些か拍子抜けしたけれど、何も起こらなければ、それに越したことはない。
何気なく空を見上げる。昨日、海辺で見た澄んだ青とは対照的な、どこまでも褪めた蒼……。モノクロともいえる暗い空には、黒鳥が列をなして羽ばたいていた。今にも雨が降り出しそうな涙雲を見ていたら、不意に先ほどの一穂の言葉を思い出した。
――大名同士の小さな諍いや、国内での利権争い。
こんなに綺麗な、そして火の国よりもずっと小さな国でも、行くあてのない闘争が巻き起こっているというのか。誰もが平等に笑い合える世界というのは、もはや幻想でしか為し得ないのだろうか?
……言いようのない胸のつかえに、押しつぶされそうになった。
次第に辺りが灰色に染まってゆき、ぽつり、ぽつりと、繊細な糸のような雨が、視界を阻む。すかさず上着の襟元に手を掛けたが、今日はフードのないネジの服を着ていたことを思い出し、早々に引っ込めた。
たとえ冷たい雨に打たれていても、ネジの大きな上着に包まれていたら、不思議と、少しも寒くはなかった。
「おい、ずいぶんぼうっとしているようだが、お前も紫蘭様を狙っているのか? そんな貧相な身なりでは難しいだろうがな」
すぐ近くで聞き慣れない声がして、不覚にもびっくりしてしまった。考え事をしていたため、臣下の男たちに囲まれていることに、気がつかなかったのだ。
この失態をネジに知られてしまったら、相当に叱られるに違いない。自己を省みると情けなくなった。
ヒナタは意を決して、彼らの方へと向き直った。目つきの悪い、攻撃的な空気を纏った男が、重々しく口を開く。
「あの一穂とかいう奴、自分が一番の側近だからって調子に乗りすぎだろ。今日木の葉から来たこいつの兄に、立場を追われてしまえばいいのに。まあ、いずれにせよ俺が倒すんだがな。お前はヒナタだったか? なんか女みたいな名前だな。オレはこいつも気に入らねぇ。紫蘭様の隣の場所は渡さないからな」
「……」
「ああ、確かこいつ喋れないんだったな。なんだ? 心理的な外傷とかか? そんなんで、よく忍を名乗れるよな」
品性の欠片もない笑いに晒されて、腹が立たないわけではない。しかし、絶対に喋るなという小隊長の命令に背くわけにもいかず、下手な作り笑いで受け流そうとした。
だが、この手の輩が簡単に引き下がるはずもなく……。
「なんで笑えるんだよ。忍という者には、プライドとかないのか?」
「それにしても弱そうな奴だな。本当に男なのか? それすらも怪しいな」
「でも、ちょうどよかったんじゃないか? 前方に配備された忍犬使いはそこそこ強そうだし、こいつだったらオレらでも十分にやれるだろ」
「どうする?」
「さっさとこいつを倒して次にいこうか。……今日こそ絶好の機会なんだ」
適当にやり過ごそうとしたが、様子がおかしい。少なくともこの者たちの手助けをするためにここへ来たはずではなかったか?
……臣下たちはどう考えてもおかしなことを口走っている。
訝しく思い、霧雨に霞む視界の中、とっさに柔拳の構えを取ろうとした。その直後――。
「……っ!」
目の前が瞬く間に暗転し、弱々しい雨に濡れた地面に叩きつけられてしまった。
それから間髪を入れずに、全身に鋭い痛みが走った。眼前には、幾度も幾度も、鮮やかな火花が散っている。対抗しようにも、五人の男たちから繰り広げられる容赦のない攻撃に、反逆の糸口が全然見つからなかった。が、ここで倒れるわけにはいかない。ヒナタは確かに聞いたのだ。彼らは、謀反を企てているようなことを口走っていた。
外部からの侵略を阻止するはずが、内部に敵が潜んでいたとは想像だにしなかった。このことを紫蘭たちが知ったら、悲しむのではないか。彼女らを想うととても悔しかった。
けれどもネジとの最初で最後の任務を、失敗で終えるわけにはいかない。小隊長のネジが惨めな思いを以て里に帰ることなど、絶対に、あってはならないから……。たとえ刺し違えてでも、負けるつもりなどない。
――まっすぐ自分の言葉は曲げない。決して諦めない。ネジとキバを変えてくれたナルト同様、それがヒナタの忍道なのだ。
ヒナタは地面に突っ伏したままで、両手に、目一杯のチャクラを溜めた。ところが、
(……八卦……)
空掌を繰り出そうとした瞬間、腕に大きな衝撃が走り、小さな体が、弧を描いて宙を舞った。そこへまた容赦のない物理技が叩き込まれる。せっかく溜めたチャクラを、あっという間に手放してしまった。
何度立ち上がっても、何度立ち向かっても、彼らにはまるで敵わず、掠めることすらできないままに、時間だけが過ぎてゆく。
しかして抵抗の意思も虚しく、ネジに借りた上着が破れて、ぼろぼろになるほどに追い詰められてしまった。胸に巻いていた晒がほどけて、丸みのある体型が少しずつさらけ出されてゆく。
「おい、こいつやっぱり女だぞ。どうりで弱いはずだな」
「さっさと殺して、次は外のあいつ、次にもう一人の髪の長い柔拳使いを封じて、一穂をやる。そしたらオレたちも晴れて紫蘭様の側近に格上げだ。いずれはこの国も手中に収めてやろうぜ」
「木の葉の忍とやらがこんなに弱いとは好都合だな。普段は城の警備隊が目を光らせているからなかなか実行に移せなかったが、ここまで簡単にいくとはな」
「……行かせない……」
「? なんだ?」
「……待って……こんなの、間違ってる。国を手に入れて何をするの? 誰かを犠牲にしても、負の連鎖が待っているだけ。一穂さんの立場を奪っても、どうせまた軋轢が生まれて、新たな諍いが起きるに決まってるわ。こんなに姑息なことをする人たちだもの。目に見えてる。それに、紫蘭様だって、あなたたちのような人を、側近にしたいとは思わないはず……」
「なんだって? 聞いたか? 偉そうに講釈を垂れてみても、しょせんは瀕死の雑魚。そんな状態で恥ずかしいと思わないのか?」
「そんなに言うのなら、とことんまで付き合ってやるよ」
思うように動かない体を、どうにか奮い立たせて、構えを取る。どんなときも、柔拳の作法を忘れてはいけない。しなやかなネジの型を見ていて、動きを見ていて、綺麗だと、ずっと憧れ続けてきたから――。
……もう最後になるかもしれない。
ヒナタには、きっとこの者たちを倒せない。
ならばせめて華やかに舞ってから散りたい。血で視界が滲んで、目の前が見えなくなっても。
やがて意識を奪われ、暗く蒼褪めた世界に、突き落とされたとしても……。
*
悪くはない人生だった。
十分に幸せだった。
たったひとつ、心残りがあるとすれば、
――また、あなたと笑い合いたかったな……。
ただそれだけ。
最後に想うは、幼い頃。やさしいやさしい、ネジの笑顔だった。
*
「……ヒナタ様! ヒナタ様! ヒナタ……ヒナタ……!」
蒼くくすんだ世界にて、耳に馴染む声が響き渡る。聞きたくて、聞きたくて仕方がない。強く望んで目を閉じたせいで、幻聴を引き起こしてしまったのかもしれない。
……心なしか体が軽い。冷たく濡れた地面に伏していたはずなのにあたたかい。なぜだろう?
「……ヒナタ様、お願いです。目を、覚ましてください」
何かにくるまれている。とても心地よくて、思わず笑った――。
「ヒナタ様? ヒナタ様、大丈夫ですか?」
その声は、ずっと止むことはなかった。さながら子守唄のように柔らかく、心を揺する。
これは最後のご褒美なのかもしれない。勇敢に戦い抜いたヒナタへの、
「ヒナタ様」
焦がれ続けたネジの腕の中、ただ、まっすぐに名前を呼ばれる。もう笑い合うことはできないけれど、十分すぎるほど幸せだった。このまま、夢の世界でずっと一緒にいられたら……。
夢? 今いるのは、夢か現実かそれとも終の果て? とにかく、ものすごく心地いいことは、確かだった。
「ヒナタ様」
絶え間なく響き続ける声に、ゆっくり、ゆっくりと目を開いた。真っ黒な視界の端、黒檀の、細い髪が揺れている。視線を、落として見れば、ぼろぼろになっていたはずの灰色の上着が元に戻っていて……。もう一度視線を上げて見れば、髪がほどけて血を浴びたネジが、心配そうに、ヒナタを見下ろしていた。
次の瞬間、ぎゅうっと力をこめられた腕の中、ようやく生きていることを実感した。
「ネジ、兄さん……どうして?」
思いの外かすれた声に、自分でも驚く。ヒナタに上着を掛けてくれたせいでむき出しになった肩には、やはり傷がたくさんついていて、胸がひどく痛んだ。
「一穂に聞いた……守衛の者どもが、何か企んでいるかもしれないこと。それで、あなたのチャクラをずっと探っていたんだ。身の危険を感じた大名が、なかなか外へ出してくれなくて、相当に参ったが……」
「紫蘭様は?」
「うるさいから、最終的に眠らせた。一穂には自分の大切な人は自分で守れと吐き捨ててきた」
「そっ、そんな……! どうして私なんかを助けてくださったのですか?」
「……放ってはおけないだろ」
「ですからなぜ……?」
「『守った』という事実がすべてだ」
「……ありがとうございます」
ネジはふいと視線を逸らし、決して微笑みかけてはくれなかったけれども、「大切な人は自分で守る」その一言だけで、天にも昇れそうだった。
……白い塀の向こう側から、ものすごい勢いで近づいてくる一人と一匹が見える。落ち着きのないキバが、例によって忍らしからぬ大げさな足音を立ててやって来たのだ。
この上ない安心感から、ヒナタはふわりと笑う。
「おい、ヒナタ! 大丈夫か? 無茶しやがって……駆けつけてやれなくてすまなかった。オレと赤丸で外の奴らを一網打尽にしたんだ。なかなかすごいだろ? オレだってやるときゃやる。ネジもすまなかった、ヒナタはオレの班の仲間なのに……」
「……別に、礼を言われるほどではない。好きでやったことだ」
「……ごめんなさい。結局私だけが何の役にも立てなくて……」
「いや、間に合ってよかった……ぎりぎりだったんだ」
複雑な面持ちのネジは、ヒナタが怪我を負ったことに心を痛めているのだろうか。キバと赤丸もひどく哀しい顔をしている。散々迷惑をかけたのに、それでもヒナタを案じてくれる彼らに、罪悪感と感謝の念が綯い交ぜになり、泣きたくなった。
ネジとネジの上着に包まれたまま、また空を見上げれば、すでに雨は止み、褪せた雲に無彩色の虹が架かっていた。
ヒナタは無力な自分を恥じ、大切な人たちを自分の手で守るべく、何が何でも強くなることを誓った。
――次こそは絶対に負けない。
いまは真っ暗な曇り空でも、その向こう側には、真っ新に澄んだ、綺麗な青い空――。
いま、モノクロの虹も、陽の光を受ければ、きらきら、きらきら、七色に輝き始める。
一緒に見たいから。これからも一緒に、戦い続けたいから。
また笑い合える日を夢見て、ヒナタは、まっすぐ前を向く。
――少しでも強くなって、ネジのいるこの世界を、平和へとつなぐ手助けがしたい。
柔らかな風が吹く。厚い雲を揺さぶる風が、蒼褪めた空に、一筋の光を導いてくれた。