2015.09.10更新
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二月の夜空には、西から南、天頂から東へと順に、秋と冬、冬と春の星座が、それぞれ一生懸命に、ただ静かに、涼やかな光を放っていた。
誇らしげに煌めくその星々を、ネジも遠くで眺めているのだろうか。それとも都会では、街の眩しい光に気圧されて、真っ暗な夜空が、寂しがり屋の彼の孤独を一層煽り立てているのだろうか。
――今夜は、どうも眠れそうにない。
ヒナタは庭に出て、東の空をゆっくりと見上げた。それから大切な人の星座を、両の掌で作った小さな丸の中へと収めた。
――蟹座の彼が、次の誕生日を迎える頃には……今年こそは、ちゃんと傍にいられる。
受験は疾うに終えた。栄養学専攻のある、女子大学への進学が決まっている。ネジのいる都会で、共に暮らすマンションも見つけた。すでに父の許しも得ている。残るは、あと僅かとなった高校生活を消化するだけだ。早く、彼の元に行きたい。彼の、笑顔が見たい。従兄であり、恋人でもあるネジからの付文を、何度も読み返しながら……最近のヒナタは専ら、そんなことばかりを考えていた。
――あなたがこちらに来るのを楽しみにしています。しかし、まだまだ冬本番。連日冷え込むので、どうか風邪など引かれぬよう、元気に過ごして下さい。
テスト休みを迎えたら、卒業式を待たずに、一旦彼の元へと向かう約束をした。約一年半続けたアルバイトは、この街を出る直前の、バレンタインの日を最後に辞めることになった。マスターのコウには随分世話になったので、最後に何か贈り物をしようと、ヒナタはぼんやりと考え始めていた。
ネジとの新しい未来を踏み出す為に、この街に悔いを残さぬよう、毎日を柔らかく、幸せに過ごすのだと決めた。
*
「ヒナタさん。長い間、お疲れ様でした。あなたがいて下さったおかげで、堅苦しいこの純喫茶を、どうにか軌道に乗せることができました。何とお礼してよいのやら……月並みな言葉しか思い浮かばなくて申し訳ないのですが、本当にありがとうございました」
アルバイト最終日は、マスターのコウと常連客の面々が、ヒナタの門出を祝ってくれた。涙が零れるくらいに嬉しかった。最後の片付けを終えたら、コウが今日くらいは一緒に帰ろうと声を掛けてくれたので、共に戸締りを確認して、店を後にした。
店のすぐ近くに住むコウが、その足で夜行バスに乗って新天地へと向かうヒナタを、見送ってくれることになった。
「コウさん……むしろ、私の方がお世話になっていたのに、最後の最後まで、気を遣っていただいて本当にありがとうございます。あなたとの日々は、とてもあたたかくて、時間の流れが柔らかで、沢山の幸せを貰いました」
「……私にとってのあなたは妹のようなものなので、どうか気にしないで下さい。一時期はどうなるかと心配でしたが、大切な彼との幸せも見つけられたようで、安心しました。遠くへ行っても、何かあればいつでも力になりますから、私のことを、忘れないでいて下さいね」
「そんな……私がコウさんのことを、忘れる筈がありません。いつだって兄のように、優しく寄り添っていただいて、とても、とても心強かったです」
「……よかった。あ、そうだ。あなたは誰にでも優し過ぎて、色んな厄介ごとを背負い込む傾向にあるような気がするので、都会に行ったら、どうか気をつけて下さい」
遠くに住むネジに会いに行く為、これまで何度も一人で来た道を、今日は初めてコウと歩いている。誰かが傍にいてくれるということは、思いの外、とても心強いものだ。幼い頃からずっと独りだったネジの傍で、少しでも彼を支えたい。真冬の刺すような寒さとは反対に、ヒナタの胸は、あたたかな希望で満ち溢れていた。
ステンドグラスの時計台を越えて、駅を通り過ぎ、電車の高架下にあるバスの発着所へは、あっという間に辿り着いた。この街にいる間、ずっとヒナタを、柔らかな思い遣りで包んでくれていたコウと離れるのは、些か寂しくもあった。
待合室の近くまで来ると、ヒナタは立ち止まり、先へ進もうとするコウの袖を掴んだ。
「あの、コウさん……人のいる場所では何なので、えっと、これを……受け取って欲しくて」
そして少し慌てながら、鞄から小さな包みと手紙の入った紙袋を取り出して、両手でコウへと差し出した。
「……ヒナタさん、これは一体?」
「バレンタインの、チョコレートです。大好きなコウさんに、親愛の気持ちを込めて。あっ、あの、私……コウさんみたいに美味しいお菓子が作れる訳ではないのですが……心は、尽くしました。よかったら、召し上がって下さい」
いつも柔らかな笑みを湛えているコウが、珍しく無表情でそれを受け取った。ヒナタは、迷惑だったかと少し不安になった。しかし暫くの沈黙の後、これまでに見たことのないようなはにかんだ笑顔を浮かべてくれたコウに、ヒナタも飛び切りの笑顔で応えた。
「あの……ありがとうございます。私のような者に、こんな……勿体ないくらいです。美味しいコーヒーを淹れて、大切にいただきますね」
「お口に合うかどうか、分かりませんが……これからも、お店、頑張って下さいね」
バスの座席から、兄のように慕っていたコウに手を振った。やがて視界に捕らえた姿が小さくなり、見えなくなるまでずっと見送ってくれた彼を、心からいとおしく思った。
――日向コウ様
一年半という長い間、本当にお世話になりました。
あなたの夢が詰まった喫茶店で共に過ごせた日々を、私は決して忘れません。
いつだって一生懸命に、柔らかな優しさを持って誰かと接しているあなたに、これまで、何度も救われてきました。
コウさんの大切なお店には、これからもあなたを慕う、沢山のお客様が集うことでしょう。
離れ離れになってしまいますが、この港町に帰って来る時は、必ず喫茶“サニープレイス”に顔を出しますね。
その時は、これまでと変わらない、私の大好きな、あたたかい笑顔で迎えていただけたら嬉しいです。
あなたとあなたのお店を、微力ながら、応援しています。
日向ヒナタ――
初めて書いた手紙は、ちゃんと読んでくれているだろうか。
いつだって実直なコウには、今以上の成功を掴んで欲しい。遠ざかってゆく港町に想いを巡らせながら、彼の幸せを祈った。
さて、あと数時間で、バレンタインデーが終わってしまう。嫉妬深い恋人の為に、コウとは別の菓子を用意した。それぞれ方向は違えど、大切な人の喜ぶ顔を想いながらのチョコレート作りは実に幸せだった。昨夜は殆ど寝ていなかったので、決して寝やすいとは言えないバスの座席でも、ぐっすりと眠ることが出来た。
時間に正確なネジのことだから、いつものように、十五分前には迎えに来ているに違いない。真冬の朝、寒さは絶頂の筈なのに。きっと、彼らしい大人びた笑みを浮かべて、ヒナタを待ってくれていることだろう。
――やっぱり、いた。
澄んだ朝、白い光に照らされた彼は、男の人だというのに“綺麗”という言葉がぴったりなほどに、とても清らかな顔をしていた。
「……やっと、会えた」
これまでに見たことのない、好きで、好きでどうしようもない人の、晴れやかなくらいのその笑顔は、やはりヒナタを貫いた。けれども、思い悩んだ日々が嘘のように、もう、少しも悲しくはない。ネジの傍にいたい……ヒナタが望むのは、たったそれだけのことだから。
「……やっと、会えましたね」
嬉しくて、嬉しくて――。笑いたいのに、不意に溢れた涙が邪魔をした。途端に涙声になったヒナタに、ネジは困ったように微笑んだ。
「……泣き虫だな。でも、あなたは前からそうだったな」
聞きたくて仕方のなかった声に、心が、ひどく震えた。
「……ごめんなさい。本当に、幸せで……」
毎日を緩やかに過ごしてきたヒナタにとって、こんなにも狂おしく、心を掻き乱される日々が訪れるなどとは、まるで想像もつかなかった。ようやく傍にいられる今だって、自分の中に芽生えた狂気にも似た感情に、戸惑ってしまうこともある。だがヒナタにはネジが大切で、胸を刺すような鋭い痛みを覚えながらも……それでも、彼を想うことを止められないのだ。
二人で住む部屋は、大きな観覧車が見える海の近くのマンションにした。少し地元の雰囲気に似たこの港町で、共に駆け抜けた苦しい日々を、あたため直しながら過ごすと決めた。
前もって荷物を送っておいた部屋に入ると、すでにネジが、ある程度の荷ほどきをしてくれていた。彼らしいその気遣いが、とても嬉しかった。
「ネジさん……ありがとうございます。ご自分のすべきことも沢山あった筈なのに……」
「……オレのすべきことは、先ず、あなたに関することだから……それに、あなたがここに来ることが、楽しみで、楽しみで……柄にもなく、そわそわしてしまって」
「ふふ……嬉しいです。でも、こんなにも幸せでいいのでしょうか? 決して、感謝の気持ちを忘れてはいけませんね。あっ、そうだ。日付が変わってしまったのですが……バレンタインの、チョコレート……んっ」
ヒナタの言葉は、ネジの、温く湿った唇に阻まれてしまった。待ちきれなかったとばかりに、瞬く間に全身を侵されて、真新しいシーツへと沈められたヒナタは、恥ずかしいくらいに昂ってしまった。
いつからこんなにも、どうしようもなく、彼を求めるようになってしまったのだろう。彼の熱に出会わなければ、全く知り得なかった感情だ。とりわけ優しく、慈しむようにヒナタを抱こうとするネジに、どこか物足りなさを覚えてしまうくらいに――。
「……ネジ、さん……お願い……も、もう、私……もっと……奥まで……」
「……まったく。あなたという人は。いつからそんなに、いやらしくなったんだ?」
「あなたの、せいです……いつも、あなたが私を、火照らせるから……あっ……! んんっ!」
「……あまり、煽らないでくれ。自制が、きかなくなってしまうから」
「いいの……もう、滅茶苦茶にして? あなたの、総てを受け止めるから……思い切り、侵して下さい」
「言ったな? 知らないからな」
もっと深く。壊れてもいいから。大量の熱に、溺れてしまいたい。
「ああっ! んっ……んん……んーっ! あ……! だ、め……き、もち、いい……!」
「……くっ……ヒナ、タっ! ほ、んと、に……どうした、んだ……!」
「あっ……ぁんっ! ネジ、さん……んん! んぅっ」
「……はぁ……はぁ……も、駄目、だ……」
「ま、まだ、やめない、で……お願い……あ! ああっ、ん、んーっ!」
理性を脱ぎ捨て、こんなにも乱れた姿を見せられる相手は、これから先もずっとネジを置いて他にいないだろう。そう、何度でも、いつまででも、繋がっていたいのだ。
やがて、自分の中からネジの熱が遠ざかってゆくのを、名残惜しく思いながら。
さらりと揺れる彼の髪に、ゆっくりと口づけを落とした。
――この人が、好き。どうしようもないくらいに……。
左手の薬指には、相変わらず、きらりと光る永遠の証。玄関のキーフックには、水色とピンクの、揃いの結び守が付いた鍵が、仲良く寄り添っている。そこには、ヒナタの受験を案じたネジがくれた、赤い合格守も、一緒に並んでいた。
増えてゆく小さな鈴の音が重なる度に、幸福が、まるで輪唱のように巡ってゆく。
過去も、現在も、未来も、この先二人に、何があっても。互いのことだけを、何よりも思い遣って……。出逢えた奇跡に、感謝の気持ち忘れずに。
――どうせなら、笑って傍にいよう。どんなあなたも好きだけど、あなたには笑顔が一番似合うのだから。
――はい……必ず笑って、笑顔で、あなたの隣に……。
どこまでいっても果てのない想いは、いつまでもいつまでも、大切に紡がれてゆくことだろう。
――あなたこそ私の喜びです。どんな時も、決してあなたから離れることはありません……。
昨日も、今日も、明日も、この先もずっと。互いの幸せを、いつまででも祈り続ける。
神の前で口づけを交わし、永遠を誓い合った、あの綺麗な夏の日のように。
――どうかこの幸せが、いつまでも、いつまでも続きますように。
無限に溢れる想いを、もう一度、強く、胸に刻んだ。