2015.09.08更新
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ヒナタの高校を見てみたい。そんなネジの申し出を受けて、夏休み中の体験入学の日、共に学校へと行くことにした。何となく気恥ずかしかったので、現役の生徒だと分からぬよう、卒業生に扮して私服で訪れた。
真夏の港町は、相当に暑かった。いつもは涼しい筈の、山の手から吹き下ろす風も、さながら熱風のように肌へと纏わりついた。それに、絶え間なく噴き出す汗も、なかなか引かなかった。
「……暑いな。一体、何なんだこの暑さは」
「ふふ……ネジさんはいつも冷静なのに、暑さに苛立つなんて、ちょっと可愛いですね」
「……可愛い? オレが?」
「あ、ごめんなさい……あんまり眉間に皺を寄せていたから、拗ねているように見えて、つい。でも、そんなネジさんも好きですよ」
二人で過ごす初めての夏は、あの苦しかった冬が嘘のように、信じられないほどの幸せを運んで来てくれた。とりわけあたたかく、ただただ柔らかな、束の間の優しい時間を、毎日、噛み締めるように過ごしていた。秋が来れば、また暫く離れ離れになってしまう。ようやく共に歩む未来を見つけたというのに、片時も離れたくはないのに――。仕方ないとは分かっていても、ヒナタは毎日のように胸を痛めていた。
陽の昇りきった昼過ぎには、山の手の中腹付近にある、ヒナタの学校へと辿り着いた。そして繋いだ手をほどき、鉄製の黒い門を越えて、広い敷地内へと足を踏み入れた。奥の方に見える校舎は、赤煉瓦造りのレトロな外壁に、アンティークグリーンの旧い屋根が、クラシカルな様相を呈していた。その建物は、淑やかで上品なヒナタが日々を過ごす場所として、ネジの持つイメージと、全く違わぬものだった。
中庭へと続く広い通路を歩いていると、ヒナタが何度も通い詰めた、小さな教会が目に入った。屋根の天辺に、潮風で錆びた十字架を掲げたその建物で、これまで何度祈りを捧げたことだろう。ヒナタの願いは決まって、ネジの幸せと、未来を念うものだった。果たしてその願いは、叶ったと言っていいのだろうか。今のヒナタには到底分かり得なかった。中の礼拝堂からは、パイプオルガンによる、パッヘルベルのカノンの生演奏が聴こえてきた。優しく耳を撫でる旋律は、前を向いて歩き始めようとした二人に相応しい、切ないほどに晴れやかなものだった。濁りのない澄んだメロディに、心が洗われるようだった。
「……そうだ、図書館に行ってみたい。伝統ある学校の図書館になら、普通では手に入らない本があるかもしれないから。駄目かな?」
「もちろん、いいですよ。気に入ったものがあれば、私の貸し出しカードで借りましょう」
幾らかひんやりとした廊下を通って、二人で足音を響かせながら、また手を繋いで歩いた。学生達で賑わう玄関とは反対に、校舎の奥に位置する図書館は、ひどく静まり返っていた。しかし白い壁と茶色の格子窓に囲われたその場所は、とても落ち着く匂いがした。沢山の本を見て、途端に目を輝かせたネジは、まるで少年のようだった。そして、やはり可愛いとヒナタは思った。この笑顔をこれからも傍で見守っていたいと、強く願った。
「私はここで雑誌を見ていますから、好きなだけ、探して来て下さい」
「すまないな。少しだけ、待っていてくれ」
誰もいない静かな図書館では、たちまち視界が褪せて、時間が止まったかのような錯覚に襲われた。ところが、年季の入った掛け時計の針は動いていて――。どうにもじっとしていられず、すぐさまネジの姿を探しに行けば、そこだけ、淡い光が当たったかのように輝いて見えた。
――やっぱり、少しの間も、離れていたくない……。
夢中で本を探すネジを、不意に、後ろから抱き締めた。ヒナタの大好きな、ふわりと香る清潔感のある匂いが、胸を貫くかのようで――。ひどく、切なかった。
「……どうした? 少し、待たせ過ぎたか?」
「いいえ。また、離れ離れになってしまうから……今のうちに、あなたの香りを覚えておこうと思って」
「……随分、甘えん坊だな。でも……そういえば、あなたは前からそうだったな。色々あり過ぎて、忘れてしまっていたが」
「ごめんなさい……」
ネジはそっと腕をほどくと、本に奪われていた視線をヒナタへと移し、あなたが謝ることではない、と優しい声色で諭してくれた。それからまた誰もいないことを確認して、ふわりと抱き締めてくれた。ネジの腕の中にいるとひどく安心して、この場所は絶対に誰にも譲りたくないと思った。
暫くして、ネジが選んだのは、白い表紙にブルーの文字で“Alain Propos sur le bonheur”と書かれた、分厚くて重そうな本だった。
「……その、私なら絶対に選ばないような、小難しそうな本は何ですか?」
「ああ、これ? これは『幸福論』の、フランス語原典版なんだ。こんなの、普通の本屋ではなかなか見つけられないだろうから。この本を、借りてもらってもいいかな? 夏休み中に読んで、必ず返すから」
――幸福論。
その響きを聞いたのは、随分久しぶりだった。それはネジがヒナタにくれた、唯一のプレゼントとも言える、大切な本の名だ。春の終わりの夜、冷たくも突き返してしまった自分を思い出して、少し胸が痛んだ。出来ることなら、また手元に置きたいけれど。一度返してしまったものをやはり欲しいだなんて、到底言えそうもない。潔く諦めなければと、自分に言い聞かせた。
思えば、その優しい哲学には随分救われてきた。気分に属する悲観主義ではなく、意思に属する楽観主義へと希望を巡らせること。それこそが幸福への近道なのだという教えだ。
ヒナタは、大切なネジの為にも幸せな自分でいようと決意した、かつての自分を思い出した。誰かを幸せにする為には、まずは自分が幸せでなければならない。今でもそう思う。一時は残酷すぎる現実に打ちのめされて、希望を手放しそうになったこともあった。しかしもう決して負けない。今度こそ絶対にネジを幸せにすると誓ったのだ。
本を借りて、元いた校舎を後にすると、今度は、ネジが教会の中を見たいと言い出した。先程、図書館でかなり長居してしまったので、陽は傾いて、暑さは幾らか和らいでいた。
しかして、これまで何度も一人で訪れたその建物へと、ネジを案内した。パイプオルガンの演奏は、すでに終わってしまっていた。そろりと中を確認すれば、今は誰もいないようだった。外で待つネジを手招きして、花模様のステンドグラスから差す、カラフルな光に照らされた礼拝堂へ、二人で足を踏み入れた。木の深いブラウンと赤い布が真っ直ぐに敷かれた通路、祭壇の奥にあるガラスの窓から見える空の青は、相変わらず、ヒナタの心を穏やかに導いてくれた。ここにネジといることが、不思議でならなかった。
一歩一歩を踏みしめるように祭壇の前まで進むと、徐にネジを見上げたヒナタが、淡い光に包まれながら、ゆっくりと口を開いた。
「ネジさん……実は、あなたとのことを、もう何度も、ここで祈っていたんです……数え切れないくらいに、何度も……この場所がなければ、私の心は壊れていたかもしれません。それくらいここは、私の支えとなっていました。なので、今あなたとここにいられることが、幸せで、幸せで……少し、怖いくらいです。この間、あなたのお父様に、あなたを必ず幸せにすると誓いました。あなたが私を傍に置いて下さる限り、離れることは、絶対にありません……お邪魔ならば、すぐに身を引きますが……私の想いを、どうか分かっていて下さい」
懸命に、言葉を紡いだのも空しく。ネジは考えの読めぬ表情で、真っ直ぐにヒナタを見据えたまま、何も言わなかった。柔らかな夕陽の差す小さな教会は、真夏とは思えないくらいに、澄んだ空気に包まれている。曇りのない瞳で見つめ合う二人の間には、尚も、冴え渡るほどの静寂が流れていた。
静かで、ただ静かで。やはりまた、時間が止まってしまったかのようだった。
やがて祭壇の十字架から落ちた影が、二人の足元へと重なって、黒い線を描き始めると――。不意に視界が真っ暗になったかと思えば、ネジに、息苦しいくらいに強く、強く抱き締められていた。
「ヒナタ……ありがとう。いつだって真っ直ぐに、オレのことを想ってくれて。オレ達には、色んな壁があるけれど……あなたがいる。ただそれだけで、オレは幸せなんだ……それに、あなたさえいれば、他には何もいらない。今でも、心からそう思う。それくらいに、オレはあなたが好きなんだ。邪魔になんて、なる筈がない。今だって壊れそうなくらいに、あなたを想っているのに……!」
涙が、零れた。ネジは今も、綺麗な心でヒナタを想ってくれていた。怖いくらいに純粋な心で、真っ直ぐに愛してくれていた。
嬉しくて、嬉しくて、心がいっぱいになって、溢れ出しそうだった。
「……私も、いらない。あなた以外、何もいらない……!」
ひたすら泣き続けるヒナタの唇に、神様が見守る祭壇の前で、ネジがそっと口づけてくれた。これまで何度も覚えた涙の味が、舌をぴりりと刺激した。
「……そうだ。あなたに、渡したいものがあるんだ」
緩やかに唇を離して、ネジが差し出したものは、ホワイトのサテンリボンが掛かった、アイスブルーの小さな箱だった。
「……これは、何ですか?」
「空けてみて?」
ネジに促されるままに、大きな蝶々結びをするりとほどき、ゆっくりと蓋を空けた。するとそこには、黒いベロアのクッションに包まれた、キラキラと光る、スターリングシルバーの指輪が入っていた。
「去年のイブ、約束していたのに……色々あって、何も贈れなかったことが、ずっと気に掛かっていたんだ。クリスマス時期だったら、赤いリボンを掛けてもらえたそうなんだが……その方が、赤い糸みたいで嬉しいけれど。清楚なあなたには、白いリボンの方がずっと似合うな。あなたは、オレのものだという印として……ずっと、着けておいて欲しい」
突然の出来事に、小さな箱と、ほどけたリボンを持ったまま、ヒナタは動けなくなってしまった。ネジはそんな彼女を微笑ましく思いながら、箱の中から指輪を取り出して、左手の薬指に嵌めてやった。ヒナタは絶えず涙を流しながら、その様子を、じっと眺めていた。
「よかった……ちょうど入った。あなたの手は小さいから、一番小さなサイズに、賭けてみたんだ」
白いエンブロイダリーレースのワンピースを着て、珍しく髪を纏めているヒナタは、さながら花嫁のようで――。このクラシカルな佇まいの礼拝堂に、眩しいほどに映えていた。左手の薬指に、永遠を思わせる“無限∞”が連なったデザインの、華奢なシルバーリングを嵌めたヒナタは、尚も涙に濡れていたものの、儚いくらいの淡い笑みを湛えていて、とても、とても綺麗だった。
そこに指輪を嵌めてやれるのは、これから先もずっと、自分だけの特権であればいいと、ネジは心から願った。
――二度と離れはしないと、誓いの意味を込めて。すっかり薄暗くなった教会で、もう一度、深い深いキスをした。優しくて、優しくて、痺れるほどに甘かった。
――唇から、痛いほどに想いが伝わった。これから先、どんな困難があろうとも、必ず支え合い、慈しみ合おうと、強く念った。
ガラス窓の向こう側は、青かった空が半分、濃いオレンジ色に染まっていて……。
地面を這う十字架の上、二人の影が何度も重なって、小さな湿った音色を奏でていた。
生涯忘れることのない、息を飲むほどに綺麗な時間だった。