2015.09.06更新
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夜通し明るいこの都会にいても、一等星である夏の大三角は、何とか目視することが出来た。
彦星と織姫星が出会う頃、大学に進学して初めての夏を迎えたネジは、従妹であり、恋人でもあるヒナタとの付文を、何度も読み返していた。そして、彼女の待つ地元へと帰る日を、指折り数え続けていた。
――早く、会いたいです。朝、バスが着く時間に、あなたを迎えに行きますね。
夏休み開始の、前日の夜行バスに乗って、父の月命日に間に合うよう、西の港町へと向かう約束をした。幾らか先のことなのに、もう随分前から荷物を纏めて、ネジは柄にもなく、今か今かと待ち侘びていたのだった。たった一年足らずの間に、ヒナタとは本当に色んなことがあった。今もなお、自分の中の重すぎる感情や、どうしても相容れぬ想いに、戸惑うこともあるけれど。それでも。
ヒナタのいない未来など、もはや考えられないというくらいに、ネジは彼女に侵されていた。
*
想い焦がれて、ようやくやって来た約束の日。前夜、バスに乗るまではどうにも落ち着かなかった。やっと彼女に会える。早く彼女に会いたい。逸る心を何とか宥めながら、硬くて寝苦しい座席で、辛うじて眠りについた。
朝、目を覚ます頃には、ヒナタが迎えに来てくれている――。ふわりと微笑む彼女の姿を想像して、思わず、顔が綻んだ。
真っ直ぐな夏の日差しに、キラキラと照らされた発着所には、清楚な制服を着たヒナタが案の定、穏やかな笑みを湛えて待っていた。久しぶりに見る彼女は、幾分ふっくらとしていて、まだ華奢な方ではあったが、少し安心した。
「……迎えに来てくれて、ありがとう。また、あなたに会えて嬉しい」
ネジの言葉に、飛び切りの笑顔で応えてくれたヒナタは、眩しいくらいに綺麗だった。
「……私も、嬉しいです。あの……お、おかえりなさい。この日を、ずっとずっと、心待ちにしていました」
今日が終業式だというヒナタを高校まで送って、一旦家に荷物を置きに行った。三ヶ月ぶりに帰ったマンションには、随分熱が籠もっていた。窓の外には、懐かしい風景が広がっている。この深いインクブルーの海は、太陽の光が広い季節に、唯一見られるものだった。去年の今頃は、ヒナタのことを何も知らなかったというのに、夏の終わりの雨の日に、彼女と店の外で会ってから、二人の物語は大きく動き始めた。まさか馴染みの喫茶店のウェイトレスが血の繋がった従妹で、さらには死んだ父が身を挺して庇った女の子だったなどとは、露ほども思わなかった。運命とは、実に不可思議なものだ。
供花を用意したネジは、ヒナタの終業時間に合わせて、坂の途中にあるバス停へと向かった。いつもは駅前から乗る路線ではあったが、少しでも早く会いたいからと、互いの意見が一致して、中間地点で待ち合わせることにしたのだ。
しかしてヒナタはもう来ていた。彼女が待ち合わせに遅れずにやって来るのは珍しい。少しの時間も惜しんでくれているように感じて、この数ヶ月間、多分に苦しんだネジの心が、僅かに救われた。
「お疲れ様……あなたにとっては、高校最後の夏休みだな。ところで、朝から気になっていたのだが……怒らないで聞いて欲しい。あなたは少しふっくらしたように見えるが、まさか、あの時の……」
「太ったと、いうことですか? 確かに、あなたと東京で再会してから、ごはんが美味しくて……でも……それはないので、どうか安心して下さい」
「……いや、別に、決して太っている訳ではない。それに、もしそうなら、それはそれで……」
「ふふ、嬉しいです。これから先、人生はまだ長いのですから、焦ることはありません。でも、あなたとずっといられたらと、強く願います」
「ヒナタ……」
やはり真っ直ぐに自分を想ってくれるヒナタがいとおしい。心を砕きながらも何とか導き出した答えは、決して間違いではなかったのだと、改めて強く痛感した。
それから、いつも独りで来ては、誰にも言えない弱みを、何度も語りかけた父の墓に、初めて誰かと訪れた。汗ばむ手を合わせて、鋭い日差しが照りつけるその場所で、潮風に髪をたなびかせながら共に祈った。
――父様。今でも、あなたのいない寂しさが、完全に埋められた訳ではありません……しかしあなたが繋いでくれた未来を、こうやって穏やかに迎えることが出来て、幸せです。随分悩みましたが……それでもオレは、この人が大切なんです。
――ヒザシ叔父様……ネジさんをこの世に存在させて下さって……私と巡り合わせて下さって……本当に、ありがとうございます。あなた様に繋いでいただいた未来は、決して無駄にはいたしません。この人を、必ず幸せにしてみせます。
――どうか、オレ達を見守っていて下さい。
――どうか、私達を、見守っていて下さい。
父のしたことがようやく実を結んだように思えて、ネジは少しだけ、ほんの少しだけだが、報われたような気がした。
眼前には、夏の花である桔梗を中心に据えた供花が、陽の光を受け、鮮やかに揺れていた。
*
その日の夜は、ヒナタの家に寄って、父・ヒアシに、ネジを紹介する手筈になっていた。若干、時代錯誤にも思えるくらいに立派な、純和風建築の家に着くと、仕事を抜けて墓参りに行っていた父と別れて、先に帰っていたハナビが出迎えてくれた。まだ幼い彼女は、見慣れぬ客人を、少々警戒しているようだった。お茶を用意しようと、ヒナタが台所へ向かうと着いて来て、尚も訝しげに、小声で問うてきた。
「姉様……あの人が、姉様の恋人ですか?」
「そうよ。あなたの、従兄でもあるのよ。偶然、本当に偶然に出会って……暫くは、知らずに過ごしてしまっていたの。ヒザシ叔父様のご子息で、ぼやけた顔の私とは違うけれど……ハナビ、美人なあなたに、少し似ていると思わない?」
「私が? あの澄ました男に? ……似ていません。全然、似ていません」
「ふふ……ごめんね。気を悪くしないで。でも、男の人にしては、綺麗な顔立ちをされていると思うんだけど」
「そうですか? まあ、姉様を大切にしてくれる人ならば、何だって構いません。でも、冬頃、元気がなかったのはあの人の所為なのでは? 違うのですか?」
「……うん……そうなんだけど……あの方に、何か悪いことをされたとかいう訳ではなくて……何と言えばいいのかしら。ハナビも、もう少し大きくなったら分かるわ」
「もう! 子供扱いしないで下さい! 私は、簡単には認めませんよ。大好きな姉様を、ちゃんと幸せに出来る男なのか、しっかり見定めます!」
「ハナビ……ありがとう。いつも私を、案じていてくれて」
お茶を持って客間へと戻ると、またハナビが後ろを着いて来て、ヒナタの影から、ネジの様子を窺っていた。ちらりと見遣ったネジが笑いかけたものの、ハナビはそれに応えずに隠れてしまった。
「ハナビ、ちゃんと挨拶して? ほら、ここに座って」
決して新しくはないものの、手入れの行き届いた趣のある和室は、仄かに、抹茶の香りがしていた。姉に促されるまま、些か不貞腐れた様子のハナビがどっかりと腰を下ろすと、向かい合った二人の横顔や、その佇まいはやはりそっくりだと、ヒナタは思ったのだった。
「……日向、ハナビです。姉の五つ下の、中学一年生です」
ネジは一層ふわりと微笑んで、ハナビの目を真っ直ぐに見据えて応えた。
「日向ネジです。ハナビさんの六つ上の、大学一年生です。あの、そんなに、怖がらないで? ヒナタさんの大切な妹さんと、懇意に出来たらいいなと、思っているから……もしよかったらだけど、仲良くしてくれたら嬉しいな」
「……それは、今の時点では分かりません。姉を幸せにしてくれたら考えます」
「もう、ハナビったら……あ、ネジさん、ごめんなさい。この子、ちょっと人見知りで……」
「いや、お姉さん想いの、いい妹さんだな。認めてもらえるように、頑張るよ」
また大人びた笑みを浮かべてハナビを見遣ったネジを、ハナビは一瞥だけして、俯いてしまった。
暫くして、父が帰って来た。すぐさま玄関まで迎えに行ったヒナタが戻って来て、先に父を通すと、ネジの涼しげなポーカーフェイスが、一瞬だけ強張った。
――やはり父様に、そっくりだ……。
――昔のヒザシに、そっくりだ……。
互いに見つめ合ったまま、少しの間、時間が止まった。先に我に返ったネジが立ち上がって、ヒアシに近づくと、姿勢を正して、深々と頭を下げた。
「先日は、大切なご息女様を、お預かりしてしまって、申し訳ありませんでした。僕が、至らなかったばっかりに……何とお詫びしていいのか……順番が前後してしまいましたが、ヒナタさんとお付き合いさせていただいている、日向ネジです。甥としても、今後とも、宜しくお願い致します」
父の後ろに立ったままだったヒナタは、その表情を伺い知ることは出来なかった。しかしネジとハナビの驚いたような反応から、もしかして父は泣いているのではないかと、些か心配になった。
「そうか……君が……立派に、なったな……ワシが不甲斐ないばっかりに、君から父親を奪ってしまって、本当にすまなかった……それに、その元凶となった娘を愛してくれて……本当にありがとう。これからはワシを、本当の父親だと思って頼ってくれ。ワシはヒザシのような、優しい男では決してないが……いつでも何でも、遠慮なく言ってくれ」
その日の夜は、未成年のネジに酒を勧める父をどうにか抑えながら、この歳になって初めて集った親族とは思えないくらいに、楽しく更けていった。