2015.08.31更新
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荷物を置くと、ここへ来た日に、クローゼットの奥へとしまい込んでいた、茶色いブックカバーが掛かったままの『幸福論』を取り出した。
挿んだままだった手紙は、痛くて開くことが出来なかったが、捨てることも出来ずに、それだけはまた、見えないところに押し込んだ。幸福なんて、もう追い求めても仕方ないと思っていたけれど……ただただ純粋で真っ直ぐなリーを見ていると、自分にもまた掴み取れるのではないかと、小さな希望を抱いてしまったのだ。
ネジの十九年間の人生において、これまで幸せだったのは、父と過ごした幼少期、それからヒナタと過ごした数ヶ月間、ただそれだけだった。もし父が繋いでくれなければ、今ヒナタと出逢うことは出来なかった筈だ。だが、その時はその時で、別の誰かと幸せになっていたかもしれない。父が健在で、それでいて大切な人も出来て、一番幸せだったかもしれない……。ところがそうなると、ヒナタは死んでしまってこの世にいないことになる。それも嫌だ。どちらにも生きていて欲しいけれど、それは叶わない。やはりネジには、何が一番いいのかは分からなかった。
結局、考えても答えは出ないまま、気づけば眠りに落ちていた。暫くして目を覚ますと、考え過ぎて頭がズキズキと痛くなっていた。外からは、夕飯の匂いがしてくる。もう、そんな時間かと、重い体を起こした。
「父さん、いただきます! 今日のごはんは、ボクの好物? 嬉しい……ありがとう」
「ああ……最近、仕事が忙しくて、あまり構ってやれなかったからな……おかわりもあるから、沢山食べなさい」
ネジの住むところは、学生向けの、単身用のマンションだったが、隣の住民は、若いサラリーマンと小さな男の子の二人暮らしだった。少し前まで住んでいた、父が残してくれた頑丈なマンションとは違い、ここは簡素な造りだった為、いつも隣の会話は筒抜けで……その度、心が軋んだ。独りは寂しかった。
翌日、立ち止まったままの心が少しだけ動き始めたので、授業を終えたら、寄り道して帰ることにした。この都会には、あたたかみのある商店街などなかったものの、地元とは比べ物にならないくらいの、大きな書店が沢山ある。ずっと遠ざかっていた哲学書を探しに、幾つかの本屋を回ることにした。三件目に辿り着く頃には、すでに数冊の本を買い込んでいたが、久しぶりに本の世界に没頭してみようと、また足を向けた。
マホガニーブラウンの木製の本棚を基調としたその書店は、どこか喫茶“サニープレイス”を彷彿させて、僅かに胸が痛んだ。さらには、もはや懐かしささえも覚えるクラシック音楽までもが流れていて、そこでもヒナタを思い出し、今もなお、消えない傷跡が疼いてしまった。“別れの曲”から“黒鍵”、“革命”、“エオリアンハープ”へと紡がれてゆくその旋律は、どうやらショパンのエチュード集のようだ。思わず耳を傾けてしまって、ある曲へと差し掛かった時に、ふと、忘れかけていた記憶が蘇った。
――今流れているのは私の一番好きな曲、十九番の“恋の二重唱”です。でも……聴いて下さい。これが恋の歌だとすれば、決して叶うことのない、悲恋の歌だと思いませんか?
そうだ。この曲は、ヒナタが一番好きだと言っていた曲だ。CDを買って、ヒナタを想いながら、何度も繰り返して聴いた曲だ。あまりにも痛すぎて、そのCDは元いたマンションに置いてきてしまったのだった。
――オレにはピンとこないが、あなたは経験があるのか?
――えっ……? な、何のですか?
――いや、だから……悲恋。
――なっないです! でも、小説とかに重ねて、浸ってみたりしていました……って、何だか私、変な人みたいですね……。
そうか。他でもない自分が、無垢な彼女に“悲恋”を経験させてしまったのか。ネジは、本当にこのままでいいのかと、些か疑問に思い始めた。それから、あまりにも辛すぎて、心の奥に沈めて蓋をしていた言葉が次々と、鮮やかに耳を震わせてきた。
――あの……過去、あなたに何があったのかは分かりませんが……独りで寂しい時は、私でよければ、隣にいさせてもらえませんか?
――離れたくない……あなたの隣は、私の場所なのに……誰にも、渡したくないのに。
不意にヒナタの柔らかい、唇の感触までもが蘇ってきた。初めての深い口づけは、ロイヤルミルクティーの、甘い味がした。最後に交わした口づけは、涙の、辛い味がした。思えばヒナタは、ネジの前で、泣いてばかりいた。互いに何も知らなかった頃、自分の過去を話した時も、ネジを想って、綺麗な涙を流してくれた。
――私には父と妹がいて、当たり前のように自由に過ごしてきたので、独りぼっちのあなたの寂しさを、完全には理解出来なくて歯痒いです……分かって差し上げられなくて、本当にごめんなさい……でも、あなたへの想いは絶対に、誰にも負けることはありません。
――これからあなたが出会う誰よりも、私はあなたを好きな自信があります。もしも寂しくなったら、私を頼って下さい。出来る限り傍にいて、力になりますから……。
そう。いつだってヒナタは、ネジを真っ直ぐに想ってくれていた。このままでは、駄目だ。もう、手遅れかもしれないが。
誰が悪い訳でもない。すでに起こってしまったことを悔いても仕方がない。感情に、蓋をすることは出来ないけれど。父を失った悲しみと、ヒナタを想う苦しみは、まったく別のもので……釣り合いを取ることはやはり難しそうだが、“ヒナタが好き”ただそれだけの純粋な心は、今でもネジの中で生きている。
もう手遅れかもしれないが、衝動的に、手紙を書いた。ヒナタの家の住所は分からなかったので、アルバイト先へと送った。果たして彼女は、応えてくれるだろうか。分からない。
――拝復
吹く風も夏めいて参りました。
随分ご無沙汰していますが、如何お過ごしでしょうか?
三月のあの夜、貴女からの手紙を読んで相当に思い悩みました。
正直なところ、三ヶ月経った今も、複雑な思いで日々を過ごしています。
でも、貴女を好きな気持ちは、片時も忘れたことがありません。
思っていた通りやはり忘れられそうにありません。
好きです、今でも。ただそれだけです。
敬具――
三日後、アルバイト先で手紙を受け取ったヒナタは、そのまま夜行バスへと飛び乗った。