2015.08.31更新
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初夏を報せる太陽の光が、ひどく眩しくて目を閉じた。
新しい土地へと移り住んでから、早くも二月ほどの時が流れた。生まれ育った街を出た夜、最後に会った大切な人からの手紙には、にわかには信じ難い事実が、切々と書き綴られていた。
父を失ったのは、一概に彼女の所為だとは言えない。事故の瞬間、父が、その小さな命を守りたいと願って動いてしまったのだから、もはや仕方ないだろう。幼くて何も分からなかった彼女を責めることなど、まったくもって本意ではない。けれどもその出来事が、間接的ではあったにせよ、これまでの、ネジの寂し過ぎる人生を形作る原因になってしまったことも、また事実なのだ。
――今はまだ、あなたのことがとてもとても好きなので、毎日毎日、辛くて仕方ないです。ですから一日も早く、あなたを忘れる努力をします。
――その時はあなたの自由を奪った罪を、ちゃんと償いたいと思いますので、何をして欲しいか、考えておいてくれませんか?
ヒナタのくれた言葉が、今も鋭く突き刺さったまま、少しも傷が癒えることはなかった。
何をして欲しいか……そんなの、ただ一つだ。時間を、巻き戻して欲しい。ヒナタに出会う、ずっとずっと前に戻って、全てをなかったことにしてしまいたい。さもなくば生まれ変わって、もう一度、何のしがらみもない世界で彼女に逢いたい。今のネジには、それ以外の願いなど、まるで考え及ばなかった。
やはり今も、ヒナタのことが好きだ。深く真っ黒な心で、今でも苦しいくらいに、ヒナタを想い続けている。
新しく身を置いた環境でも、ネジが誰かに心を許すことはなかった。話しかけられれば口を聞く。笑いかけられれば微笑み返す。そうやって表面的には問題なく過ごしていたが、常に受身で、もう誰とも交わらないとばかりに壁を作って、必要以上に学友達を遠ざけていた。ただ一人、よく授業で顔を合わせる、熱血漢を絵に描いたような、やたらと絡んでくる五月蝿い男を除けば。
「その、全てを諦めたような、褪めた笑顔が気に入りません! 折角生きているのだから、明るく楽しく、前向きにいきましょうよ! ほら、ちゃんと笑ってみせて下さい! ほら!」
「……お前……本当に、面倒な奴だな……まあ、でも、お前みたいな奴は、嫌いじゃない」
リーと名乗るその男は、真っ直ぐに切り揃えた艶のある黒髪に、真ん丸の目が特徴的な、いつも騒々しい元気な奴だった。しかしこれまでの人生で出会ったことのない部類の彼を見ていると、幾らか心が綻んで、ほんの少しだけ、痛みを忘れることが出来たのだった。
ある日、キャンパス内の中庭でコーヒーを飲んでいると、例に漏れず、リーが大声を出してやって来た。
「ネジ! 君という人は、また一人でかっこつけて……整った顔をして、物静かで落ち着いた君に、憧れを抱く女性が沢山いるそうじゃないですか! そんなの、ボクは認めませんよ。いつも仏頂面で、愛想がなくて……君からは、優しさというものが一切感じられません!」
「……うるさいな。お前はいつも何と戦っているんだ」
「何って、それは……あっ! サクラさーん! 今日も、可愛いなぁ。高校を卒業したら、ボクと結婚しませんか?」
不意にリーが声を掛けたのは、すぐ隣にある、大学の付属高等部の制服を着た、華やかな女の子だった。振り返ったその子は、如何にも苦笑いといった表情を浮かべていた。
「あ、どうも……」
「これからどこへ行かれるのですか? よかったら、中を案内しましょうか? 何だったら、そのまま外でデートしましょうか?」
「えっ? いや、いいです……どうぞ、お構いなく……」
「相変わらずつれないなぁ……でも、次の機会には是非! ボクの隣は、いつだってあなたの為に空けてありますから!」
――こいつの、この底抜けの明るさは一体何なんだ?
見るからに鬱陶しそうにしているサクラという少女に、まるで怯まずに捲し立てるリーを、些か羨ましく思った。この二人は、全然似ていない……恐らく相当に高い確率で、実は血が繋がっていたなどということはないだろう。そう思うと、本当に、羨ましかった。よくよく思い返してみれば、色素の薄い大きな目や、白く透き通るような肌、ふわりと纏った穏やかな雰囲気も、ネジとヒナタには沢山の共通点があった。
無表情で考え事をしていると、また、リーの大きな声が響いた。
「あ! また君は、人の心を狂わせるような、憂いを帯びた顔をして……サクラさんも、ボクのような喧しい男よりも、君のような大人びた男の方がいいのでしょうか……」
「いや、それは分からないが……何かお前、嫌がられてないか? 大丈夫なのか?」
「ええ、そうですよ! 完全に、ボクのひとりよがりです。でも、仕方ないでしょう? 自然と沸き上がる感情は、自分ではどうすることも出来ないのですから。ならばとことんぶつけて、それでも駄目ならその時考えればいいんです……あ! さては君、恋をしたことがないのでは?」
「いや、別に、そういう訳ではない……」
「なっ! 何だかボクよりも、経験豊富そうな空気を醸し出していますね……しかし、それならば、分かる筈でしょう?」
「……そうだな。まあ、分からなくもない。せいぜい、頑張るんだな」
たとえ片想いだったとしても、こんなにも堂々と、真っ直ぐに想いをぶつけられることは、とても幸せなことだとネジは思った。自分には、到底出来そうにない――。だって、ネジの好きな人は。
「ところで君には、恋人がいるのですか? そんな、余裕の構えでいられるということは、いるんですね? いや、いる筈だ。間違いない」
そんなことはない。ネジには、僅かの余裕すらない。いつだって精一杯に、ヒナタを想ってきた。
「……今はいない。多分これからも、出来ることはないかな」
「もももしかして、死別した、とかですか? すみません! ボクときたら、無神経で……」
「いや、死んではいない……本当に、何なんだお前は」
「では、何故? 何故、離れてしまったのですか? 君ともあろう人が、諦めるのですか?」
もはや諦めるとか諦めないとかいう、生易しい話ではない。あまりにも苦しくて、とてもじゃないが受け止めきれなくて、彼女との記憶を、消し去ってしまいたいくらいなのだ。ネジは空になったコーヒーカップをくしゃりと潰して、騒がしくも優しい友人に、静かな声で問うてみた。
「……もし、もしもお前が、血の繋がった従妹を好きになってしまったらどうする?」
「……いとこ? いとこですか? 君は特待生のくせに、法律を知らないのですか? いとこは四親等以上離れているので、結婚出来るのですよ」
「いや、それは知っている……ならばもし父親同士が、一卵性の双子だったら?」
「要するに、腹違いのきょうだいのような関係性ということですか……それは少し、禁断の香りがしますね……でも、ボクだったら、だからこそ燃えると思います! 上等じゃないですか……誰が何と言おうと、好きなものは好き、それでいいんです!」
何においても、無条件に楽観的なリーに聞いたのが間違いだったと思った。やはりこれは、それほど単純なことではない。血族の問題を解決したところで、互いにとってはもっと大きな、ネジの父の死についての問題が立ちはだかっている。
ネジは握り締めていたコーヒーカップをごみ箱に捨てて、リーを置いて歩き出した。そして彼に背を向けたまま、また穏やかに言葉を紡いだ。
「……今のは、忘れてくれ。ただの例え話だ。今日の授業は終わった。オレはもう帰る……また、明日な」
珍しく返事をしないリーを、特に気に留めようともせず、大学から電車で二十分ほどの、狭いマンションへと帰った。