2015.08.31更新
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ネジが懸けた最後の望みを、ヒナタはしっかりと受け止めた。
流れる景色、遠ざかってゆく港町の観覧車を見ながら、“アヴェ・マリア”の優しい旋律を、心に思い描いていた。
罪人と言われても仕方のない自分に、ネジはいつだって救いの手を差し伸べてくれる。堰を切って溢れ出した想いは、もう、誰にも止められそうになかった。
――HAIL MARY
Hail Mary, full of grace, the Lord is with thee.
Blessed art thou among women, and blessed is the fruit of thy womb, Jesus.
Holy Mary, Mother of God, pray for us sinners, now, and at the hour of our death.
Amen――
衣替えの準備期間だった為、白い襟の付いたベイビーブルーの半袖ワンピースに、紺色のカーディガンを羽織っていた。こんなにも薄着で彼と会うのは、もうずっと前の、何も知らなかった幸せな頃以来だった。ネジが『幸福論』をくれた日、喫茶店では、“恋の二重唱”がかかっていた。まさか自分たちが、悲恋ともいえる恋に苦しむことになるとは露ほども思わなかった。
幸せではないのかと問えば、彼から返ってきた答えは、当時のヒナタには難しくて到底理解できないものだった。
――幸せじゃないとは言いきれないな……まあ、だからといって幸せとも言いきれないが。ただこれだけ言えるのは、この世に生きる以上は、できるだけ幸せでありたいと思うかな。
やがて、少しずつ幸せそうに微笑むようになった彼の、宝物のような言葉は、今でもヒナタの胸に息づいている。
――ありがとう……オレの為に、泣いてくれて……こんなにもあたたかい気持ちになったのは初めてだ。時々、たまらなく寂しくなってしまって、自分は生涯孤独なのではないかと怖くなるけれど……あなたがいれば、何も悲しいことはないな。
絶えず記憶を巡らせていたので、早朝、目的地に着く頃まで、ヒナタは一睡も出来なかった。梅雨目前の今、昼の長さが最も長い夏至を迎えるにあたって、最後にネジと会った春に比べれば、日の出時間は随分早くなっていた。しかして生まれて初めて訪れた都会は、白い光に包まれて、どこか幻想的にも見えたのだった。
ヒナタは始発に程近い電車に乗って、ネジの大学の最寄り駅へとやって来た。化粧室で疲れきった身嗜みを整えて、どうにか彼に会える体裁を作った。あれからまた、痩せてしまったけれど……痛々しく見えてしまわないかと、少し不安になった。
知らない大学の正門で、慣れない土地で、どれくらいの間、彼を待っていただろう。白かった視界は、相当に高さを増した太陽の光に照らされて、鮮やかに色づき始めていた。じろじろと物珍しそうに見られる視線にも、もはや慣れてきた。しかし一向にそれらしい姿を捉えることが出来なくて、もう会えないかもしれないと、心が折れそうになってきた。自分は一体何をしているのだろうと、恥ずかしくなってきた。どうにもいたたまれなくなって、どこかで一旦休憩しようと、駅までの道を引き返そうとした。
すると、見紛う筈のない、好きで、好きで仕方ない人の影が、遠くから近付いて来るのが見えた。隣に、誰かいる。地元では見たことのない可愛い制服を着た、とても華やかな女の子だった。
暫くして、ネジがこちらに気づいた。ヒナタは足が竦んで、全く動けなくなってしまった。
「……ヒナタ?」
すぐ近くまで来たネジの、凛と響く低い声が聞こえた。俯いたまま、目を合わせることが出来なかった。それから、明らかにおかしな様子の二人を見て、女の子がゆっくりと口を開いた。
「妹さんですか? とても、よく似ていますね……」
それは、ネジとヒナタには、鋭く突き刺さる言葉だった――。
「いや……妹ではない。従妹だ。悪いが、先に行ってくれないか? 今日はリーもいる筈だから、あいつに案内して貰ってくれ」
女の子は、こちらを気遣いながらキャンパス内へと入って行った。その場に立ち尽くしたまま動けなかった二人は、横を通る生徒に、訝しげな視線を送られ続けていた。ついに限界を感じたネジが、ようやく言葉を搾り出した。
「ヒナタ……オレに、会いに来てくれたのか? そんな制服の高校はこの辺にはなくて……目立ってしまうから、こっちへ来い」
ヒナタの手首を、些か乱暴に掴んだネジが早々に歩き出した。途中、授業でたまに顔を合わせるメンバーに会って、痛いほどの視線を投げ掛けられた。
ついにはリーにまで見られてしまって、何故だか、少々苛立ちを覚えた。
「あ! ネジ! あ、あれ? あれ? その清楚な制服を着た女の子は誰ですか? 君の、禁断の恋の相手ですか?」
「っ! お前という奴は……あ、そうだ。今日は、一限目に間に合わないかもしれない。悪いが、適当に話を合わせておいてくれ」
「もちろんです! よく分かりませんが、頑張って下さい!」
「本当に、鬱陶しいな……でも、すまない。頼む」
隣をちらりと見遣ると、“禁断”という言葉に反応したであろうヒナタが、ひどく悲しそうに俯いていた。そんなヒナタを気にしながらも、ネジは登校する生徒に逆らって、急いで駅の方へと向かった。
「ここまで、何で来たんだ? 夜行バスか? 家へは、帰っていないのか?」
途中、矢継ぎ早に繰り出される問いかけに、ヒナタは少し、しどろもどろになって答えた。
「お、お察しの、通りです……昨日、アルバイト先で、手紙を受け取って……どうしようもなくなって、衝動的に、来てしまいました……」
「……何を考えているんだ。親に連絡は入れたのか?」
「……怖くて、入れていません」
「まったく……あなたという人は。向こう見ずにも程がある。電話番号は?」
「これです……ごめんなさい」
徐に差し出された生徒手帳を見て、ネジは真新しいスマートフォンから、すぐに電話を掛けた。ヒナタはその様子を、恐る恐る見守っていた。
「……もしもし。ご無沙汰しています、と言っていいのか、覚えていませんが……日向ネジです。あなたの甥です。今は、東京の大学に通っています。ヒナタさんとは、何も知らずに出会ってしまって、お付き合いさせて貰っていました……オレが至らなかった為に、彼女がこっちまで来てしまって、ご心配をお掛けしました……申し訳ありません。今夜のバスで必ず帰しますので、どうかお許し頂けませんか? オレが悪いので、彼女を叱らないであげて下さい。お願いします」
二十分ほどでネジのマンションに着いた。部屋へと案内してくれた彼の手元を見れば、鍵には、赤と水色のお守りがついていた。ヒナタは、胸がいっぱいになった。中へ入ると、そこにはやはり殆ど物がなくて、それなのに、本棚には『幸福論』が立てかけてあった。思わず泣きそうになった。
「昨日、バスで眠れたか? その様子じゃ、一睡もしていないのでは? 風呂も洗濯機もベッドも自由に使ってくれていいから、ここで休んでおいてくれ。着替えは、クローゼットを開けて適当に探して。オレは大学に行って、夕方には帰って来る。それまでに、帰る仕度をしておいて。バスの発着所まで送るから、今夜の便で帰るんだ。分かったな?」
てきぱきと自分の世話を焼いてくれるネジに、心の底からあたたかい気持ちになった。