2015.08.27更新
生まれ育った港町を出る日は、澄んだ空気が心地よく、青い空が、突き抜けるように広がっていた。
元来物を持たないネジの引っ越しの準備は、あっという間に終わってしまった。そのせいか、殆ど何もない部屋で、ヒナタと紡いだ日々を、ここのところ、何度も思い返していた。
やはりネジには、ヒナタの涙の訳は分からない。自分から別れを告げたのだから、彼女にとっては離れられて良かった筈なのに。どうしてあんなにも、苦しそうな瞳を向けてきたのだろう。辛いのは、突然拒絶されてしまった、自分の方だというのに。どうしてそれでも、彼女には笑っていて欲しいと、何よりも願ってしまうのだろう。
――駄目だ。やはり、どうしてもあの人が好きだ……。
ヒナタを想う気持ちを忘れるには、年単位の時間を要することになりそうだ。しかしネジは、出会ったことを後悔するどころか、柔らかくてあたたかい日々をくれたヒナタに、心から感謝していた。
誰かを想うことは、殊の外、痛くて苦しかったけれど――。同時に、穏やかで心が洗われるような、清々しいほどの優しさを知ることが出来た。
ずっと独りぼっちだったネジには、まるで夢のような日々だった。
今夜、二十二時発の夜行バスで、この街を出ることにした。ヒナタも住む港町で、慣れ親しんだ景色を見ていられるのもあと僅かだが、今はまだ、陽の高い昼過ぎだ。かつては父と見ていた、それから、何度も一人で見ていた藍色の海を、目にしっかりと焼きつけた。一生、ここを離れるわけではない。この家には、いつか戻って来るつもりでいる。もっとも、ヒナタを忘れるまでは、痛くて帰って来られないかもしれないが。あれから、深く突き刺さるような胸の傷跡を、どうにか庇いながら、何とか毎日を過ごしてきたのだった。
目を閉じれば、今も鮮やかに浮かんでくる。ヒナタの笑った顔や、照れてはにかんだ顔、拗ねて膨れた顔。それから、切なげに色づいた、甘くて艶やかな顔――。その全てが、ネジの心を侵して、いつまでも縛りつけて離さない。もはや自分ではどうすることも出来ないのだから、海に満ちた潮が引いていくように、自然と忘れられるのを待つ外なかった。
三日前、ヒナタと会ってから一睡も出来なかったネジは、気づけば何もないフローリングで、眠ってしまっていた。目を覚ました頃には部屋は暗くなっていて、慌てて時間を確認すると、二十時を少し回ったところだった。
固い床で冷やされて、気だるくなった体を引き摺って、そろそろ家を出ることにした。
――父様。また、必ず戻って来ます。独りで新天地に行くオレを、どうか見守っていて下さい。
必要な荷物は、新しい部屋に全て送ったので、ほぼ身一つで駅へと向かうことにした。玄関の扉を開けると、もう何度も見た、ベイエリアの夜景が目に飛び込んだ。きらきらと煌めく街の光を、ヒナタと共に見たことを思い出した。やはり、ネジの心はヒナタに支配されたまま――。一体、いつになれば楽になれるのかと、些か自嘲気味に笑った。
小さめのエレベーターに乗って一階まで降りると、最後に郵便受けを確認した。何も、入っていなかった。集合ポストのある廊下を抜けて、無機質なガラスの扉を開く。ここへまた戻って来る頃には、ヒナタのことは、完全に忘れていたいと思った。
マンションを出ると、外はもう真っ暗だった。空を見上げれは、幾つかの星が、力なく輝いていた。もう一度、父とヒナタとの思い出が詰まった建物を振り返って、そして歩き出した。
「……あ、あの」
……だが、不意に聞こえたその声に、心を、撃ち抜かれてしまった。
「……こ、こんなところで待ち伏せていて、ごめんなさい。今日、この街を出ると、おっしゃっていたので……」
……いつからここにいたのだろう。その小さな鼻先や、コートから覗く指先が、真っ赤になっている。
「……ヒナタ」
その名を呼ぶことは、もう、二度とないと思っていた。どうして、どうしてヒナタはこうやって、ネジの心を引っ掻き回すのだろう。あまりの切なさに、もはや、苛立ちさえも覚えてしまった。
遠慮がちに距離を空けたまま、ヒナタは鞄から何かを取り出した。徐に近づいて来るその手元には、見覚えのある、茶色いブックカバーの掛かった本が携えられていた。半年前に見た時と比べると、少しだけ、くたりとしていた。
「これを、お返ししようと思って……これは、この本は、私が持っていてはいけないと思うんです……受け取って、いただけますか?」
ネジは何も言えずに、震える手で差し出されたその本を、無表情で受け取った。手と手が触れてしまわぬよう、互いに、必要以上に注意を払った。
「でっでは、私はこれで……ど、どうか、お気をつけて……」
慌ただしく走り去る後ろ姿を、沸き上がる冷たい熱を抑えながら、眉を寄せて見送った。
*
ヒナタとよく待ち合わせた、ステンドグラスの時計台を越えて、電車の高架下にあるバスの発着所に辿り着いたのは、発車の五分前だった。手にはヒナタに返された本と、いつ買ったか覚えていない、ペットボトルの水を持っていた。ここへも、どうやって来たのか全く覚えていなかった。
――どうしてだ? 一体、何だと言うんだ……! どうして、こんなことをするんだ……。
何度も何度も、同じことをぐるぐると考えた。ヒナタの行動の意味するところが、ネジには全く分からない。折角会えたのに、未だ塞がりそうにない傷を抉られて、苦しさが余計に増しただけだった。
バスに乗り込むと、ドリンクホルダーに水を置いた。街の光が差して、車内は明るかった。
どうも手持ち無沙汰に思えたので、今さら追い求めても仕方のない、『幸福論』をパラパラとめくった。半年以上、ヒナタが持っていた本には、彼女の匂いが染み付いているような気がして、ページを開く度に、胸がひどく軋んだ。
しかして最後のページまで辿り着くと、はらりと、小さな白い紙が滑り落ちた。几帳面に四つ折りにされたその便箋のようなものには、何かが書かれているのか、うっすらと文字が透けて見えた。ヒナタが抜き忘れたメモ書きか何かかと、あまり深く考えずに開いてみた。
ところがそれは、ヒナタからネジへと宛てられた手紙のようだった。彼女らしい、優しい文字で書き綴られたその言葉を、浅くなる呼吸と、瞬く間に跳ね上がった鼓動を自覚しながら、懸命に自分を落ち着かせて、努めてゆっくりと読み進めた。
――日向ネジ様
突然別れを告げて、寂しがり屋のあなたを困らせてしまってごめんなさい。
それなのにまだ好きだと言ってくれて、本当に嬉しかったです。
私もあなたが好きです、今もなお、あなたのことを、忘れられずにいます。
でも、やっぱりもう、一緒にはいられないんです。
何故かというと、私は、あなたから大切なお父様を奪ってしまった、張本人だからです。
クリスマスイブの朝、ヒザシ叔父様の月命日のお墓参りに行って、そこであなたの姿を見つけてしまいました。
私たちは、互いの父親が双子の、極めて血の近い、従兄妹同士だったのです。
それに、あなたを孤独に追いやった原因を作ったのは他でもない、私だったのです。
罪深い私には、あなたの傍で、ましてや恋人として寄り添う資格など、全くと言っていいほどありません。
あなたは、決して、好きになってはいけない相手だったのです。
このような大切なことを、目を見てきちんとお話し出来なかったこと、どうかお許し下さい。
私の大好きな、あなたの優しい笑顔を見ていると、どうしても言えませんでした。
今はまだ、あなたのことがとてもとても好きなので、毎日毎日、辛くて仕方ないです。
ですから一日も早く、あなたを忘れる努力をします。
その時はあなたの自由を奪った罪を、ちゃんと償いたいと思いますので、何をして欲しいか、考えておいてくれませんか?
もう顔も見たくない、というのであれば、それも仕方ないと思います。本当にごめんなさい。
何とお詫びしてよいものか、見当もつきません。
けれども私は、あなたの幸せを願わずにはいられません。
どうかあなたの夢が、叶いますように。
影ながら、応援しています。
日向ヒナタ――
ぽつりぽつりと、永遠に降り止まぬ雨のように、涙が、とめどなく零れ落ちた。
大好きな父を失って、ひどく肩身の狭い思いをしながら、それでも強く在ろうと、奥へ奥へと押し込めていたやりきれない感情が溢れ出して、止まらなかった。
まさかヒナタが、三ヶ月も前から独りで苦しんでいたなどとは、露ほども思わなかった。何も知らずに想いをぶつけた自分が情けなくて、どうしようもなく悲しくて、彼女の苦悩を思うと、心が痛んで今にも壊れてしまいそうだった。でも。現実はあまりにも、残酷なものだった。
――ヒナタ。ヒナタ……ヒナタ……!
――どうしてオレ達は、出会ってしまったのだろう。
――どうしてオレ達は、惹かれ合ったのだろう。
この世界には神などいないのだと、ネジは改めて痛感した。
この世の中は、決して平等ではないのだ。
どうして、いつも自分ばかりが――。
――でもオレは、ヒナタが好きなんだ……!
――どうしようもなく、好きなんだ……!
――何で? 何で? 何で……!
目の前が真っ黒に色づいて、心が激しく蠢いて、全身を駆ける戦慄の波が、ネジの胸を、荒く引き裂くかのようだった。
結局、その日も朝まで眠れなかった。