2015.08.27更新
気づけば春は目前だった。それなのに。
寒さが和らぐことはなく、鋭い風が、容赦なく肌を刺す。
あれから泣いてばかりのヒナタは、時計の針が止まったかのように、まるで前へと進めずにいた。朝起きて学校に行き、授業が終われば、決まって敷地内の礼拝堂で祈る。願いはいつも一つだった。
――神様。どうか、どうか彼を、幸せにしてあげて下さい。
週に三回程度のアルバイトは、今も辛うじて続けている。恐らくネジがそこを訪れることは、もう二度とないだろう。あまりにも儚すぎて、あの穏やかな日々は、夢だったのかとさえ思う。しかし、軋むような胸の痛みが、確かに彼と在った記憶を、苦しいくらいに抉り出してしまうのだった。
「お疲れ様でした。今日はまかないがあるので、よかったら食べて行って下さい」
マスターのコウが出してくれたのは、くるくると螺旋を描いた生地の上に、白いアイシングが乗った、甘い匂いを纏った丸いペストリーだった。
「……すごい! コウさんは、焼き菓子だけでなく、パンまで作れるんですね。どうりでずっと、いい香りがしていると思っていました」
「確か、ヒナタさんはシナモンロールがお好きでしたよね? ここのところ、ずっと元気がないようだったから……それに、随分痩せたようだ。何があったのか、だいたい察しはつくけれど……ちゃんと食べないといけませんよ。まずは体が健康でなければ、心も健康になれないのですから」
ネジに別れを告げて、約一ヵ月半の時が流れた。その間、どう見ても塞ぎ込んだ様子のヒナタに、コウは何も言わず、いつも通りに接してくれていた。ところがいつまでも落ち込んだまま、むしろ日毎に沈んでゆく一方のヒナタを、さすがに、痛々しくて見ていられなくなったのだろうか。ヒナタは、優しい彼に余計な気を遣わせてしまった自分を、強く責めたくなった。
「一緒に、紅茶も飲みませんか? おいしいフレーバーティーが入ったんです。香りがよくて、心が落ち着きますよ。あ、そうだ。せっかくだから、レコードも掛けましょう。何がいいですか?」
「……明るいのがいいです。コウさん、あの……本当に、ありがとうございます……何と言っていいのか、言葉に出来なくてもどかしいのですが……とにかく、嬉しいです」
ふわりと微笑むコウを見ていると、その落ち着いた笑顔が少しだけネジと重なって、また、胸が痛んだ。今のヒナタには、どんな些細なことでさえも、彼を思い出すきっかけとなって、どこへいても、何をしていても、心を蝕んでしまうのだった。
しかしてコウが掛けてくれたレコードは、ショパンのワルツ集・全十七曲だった。
「小犬のワルツや華麗なる大円舞曲なら、ヒナタさんも、よく知っているでしょう? さあ、どうぞ遠慮なく食べて下さい。私も、後でいただきますから」
「はい……では、お言葉に甘えて、いただきます……」
手作りの、それも自分の為だけに焼いてくれたペストリーは、ひどく胸に沁みて、刺さるように痛くて、でも甘くて優しくて、涙が出そうになった。
「コウさん……とても、おいしいです。最近、すごくショックなことがあって……あまり食欲がなかったのですが、これなら沢山食べられそうです。心配を掛けて、ごめんなさい」
「気にしないで下さい。私は、あなたの笑った顔が好きなので……それに、お客様の前では、ずっと無理をしているでしょう? 何だか、見ている私の方が辛くなってしまって。あ、でも、あなたを心配するのは私の勝手なので、それも気にしないで下さい」
柔らかな笑みを湛えたコウが、ヒナタの隣に立ったまま、ゆっくりと、頭を撫でてくれた。ネジの繊細なものとは違って、そのがっしりとした男らしい手つきに、些か違和感を覚えたが、ふわりと鼻を掠めるシナモンの香りが、絶えず心を燻って、気づけば、ヒナタは涙を流していた。コウが掛けてくれた、元気で明るかった筈の音楽は、いつの間にか寂しい曲調へと変わっていて、その憂鬱なメロディが、余計に涙を誘ってしまったのだった。
「悲しいけれど、綺麗な曲ですね……知らないからと、いつもは聞き流していた筈なのに……」
「ああ、これは……ショパンが、結ばれなかった恋の相手に書いた曲ですよ。大切な思い出としてしまわれていて、存命中に公開されることはなかったようです」
「……何ていう曲ですか?」
「えっと……ワルツ第九番、別名を、『別れのワルツ』とも言うみたいです。暗い曲は、飛ばしましょう。ちょっと待っていて下さい」
三曲ほど送って戻ってきたコウが、尚も泣いたままのヒナタに、紅茶のおかわりを注いでくれた。
「ありがとうございます……」
「本当に、気にしないで下さい。私にとってのあなたは、妹のような存在で……どうしても、放っておけないんです」
白い陶器のポットを手にしたコウの腕は、やはり随分逞しくて、精工なネジのものとは、あまりにもかけ離れたものだった。ネジの優しい手が、ひどく恋しくなってしまった。
*
あと数日で、卯花月が来てしまう。
今年は雨が多く、桜の蕾は固く閉ざしたまま、一向に春を告げる様子を見せなかった。
春休みを迎えたヒナタは、全てを忘れるように、バイトへと明け暮れた。今日も昼過ぎから閉店まで働いて、心地よい疲労感の中、制服を脱いで帰りの身支度をしていた。慣れ親しんだこの場所で、客やマスターと話していると幾らか気が紛れて、一時に比べれば、随分元気を取り戻したように思う。
しかし、白と黒の制服を見ていると、その姿が一番好きだと言ってくれたネジを思い出し、頻りに胸が痛んだが、それでもヒナタは、彼のいない毎日を、何とか踏ん張って耐えていた。
雨が今にも降り出しそうだったので、ヒナタは、早々に店を出ることにした。コウに声を掛けて、裏口から路地を通って店の前に回り込み、戸締まりの確認をする。正面の入り口には、きちんと鍵が掛かっていた。安心して、駅の方向へと体を翻した。
……瞬間。全身が凍りついたように、動けなくなってしまった。
「……ヒナタ」
その名を呼ぶ声は、何度も忘れようとして、それでもどうしようもなく焦がれてしまって、苦しいくらいに心を掻き乱す――。今もなお大好きで、本当は、会いたくてたまらなかった人の声だった。
「……驚かせてしまって悪いな。少し、いいかな?」
あまりの衝撃に、声が出なかった。思わず溢れ出しそうになる涙を、どうにか堪えながら、やっとの思いで頷いた。
隣に並んで、手を繋いで微笑み合っていた日々が嘘だったかのように、何歩も後ろを下がって歩いた。久しぶりに会った大切な人の背中は、幾らか痩せたように見えた。その姿はどこか寂しそうに思えて、心が痛んだ。駅の近くまで来ると、電気の消えたオフィス街で振り返ったネジに倣って、ヒナタも距離を空けたままで立ち止まった。
一ヶ月半ぶりに見たネジの目は、こんなに暗い場所でもはっきりと分かるくらいに、やはり綺麗で真っ直ぐだった。ほんの少し、痩けたように見える頬が痛々しくて、とても見ていられなくて目を逸らした。
……暫くして、ネジが徐に話し始めた。
「もう、関係ないのかもしれないが……三日後、この街を出るんだ。最後に、あなたにだけは挨拶しておきたくて……」
ヒナタは何も言えずに、尚も俯いたままだった。凛と響く低い声に、胸がいっぱいで、痞えてしまっていた。
……ネジが、息苦しそうな声で続けた。
「これは、流してくれてもいいが……どうしても言っておきたいから、聞くだけ聞いて欲しい……オレは、今でもあなたのことが……到底、忘れられそうにない。未練がましくて、自分でも情けなくなるけれど……やはりオレは、あなたが好きだ……最後に、それだけ、伝えたくて……」
ヒナタは、ぎりぎりまで溜まった涙を零さぬよう、精一杯力を入れて、ネジの目を見た。するとネジは、儚く笑いかけてくれた。同じく笑おうとしたけれど、やはり笑えなくて――。冷たい頬を伝って、熱い雫が、際限なく溢れ出してしまったのだった。
「……また、泣かせてしまった。オレは、本当に駄目だな……あなたのそんな顔は、二度と見たくなかったというのに。でも、これで、最後だから……もう、会うことはないから……これからはどうか笑顔で、穏やかに過ごして下さい。では……」
悲しそうに言葉を紡いで、静かに立ち去る後姿を、目で追うことすら出来なかった。
涙で視界が滲んで、絶えず体が震えて、苦しくて苦しくて、その場に座り込んでしまった。息が乱れて、どうしようもなく胸が締め付けられて――。切なくて悲しくて、鋭く引き裂かれるような心の痛みを、やり過ごす術が分からなかった。
思い切り泣いて、ヒナタが導き出した答えは、ネジにどう響くのか知り得ないけれど、今のヒナタには、それ以上の結論が思い浮かばなかった。