2015.08.23更新
数日後、ネジのマンションを訪れたヒナタは、かなり緊張していた。
いつも大人びていて、穏やかな空気を纏った彼が、まさかあんなことを口にするとは到底思えなかったのだ。しかしこの限られた時間に、出来る限りの幸せを紡ぐことで、彼との思い出を、どうにか綺麗なものにしようと、半ば自棄になっていた。
あれから、二人はどうして出会ってしまったのだろうと幾度も考えたが、一向に答えを出せないまま、ついにここまで来てしまった。いつ別れを告げるのか、その時真実を告げるべきなのか、ネジの幸せを想うのならば、どうすれば一番いいのかが、分からなくなっていた。彼が向けてくれる笑顔は、怖いくらいにヒナタの胸を貫いて、折角、孤独から救われたと言っていた彼の、ひどく傷付いた顔を想像すると、眩暈すらも覚えた。
「今日は、オレだけのウェイトレスになってくれるのだろう?」
チャイムを鳴らすと、涼しい顔で出て来た彼の、やはり信じられないその台詞に、ヒナタは頭を抱えた。一応、持ってきた白と黒の制服に着替えてみたものの、そのあまりの滑稽さに、今にも泣き出したくなった。
「あの……自分で言い出しておいて何ですが……目的は、何ですか? あなたらしくなくて、少し、驚いてしまいました」
しかしてネジの答えは、またしても思いもよらないものだった。
「……もう、その姿のあなたに、会えなくなってしまうから……それに、いつも色んな客の世話を焼いているあなたを見ていて、何だか嫉妬してしまって、独り占めしてみたくなったんだ……少々、馬鹿なことを言ってしまったな……自分でも、おかしいと思う。でも、可愛い……オレは、その制服を着ているあなたが、一番好きだ」
やはりネジの想いはヒナタを貫いて、どうしようもないくらいに苦しめてしまう。だがヒナタもネジが好きで、彼と出会えたことの貴さに、本当は後悔などしたくないのだ。思わず、涙が零れた。
「どうした? あなたは最近、泣いてばかりだな……オレといると、辛いか?」
返事の代わりに、強く抱き締めた。辛くない筈がない。何も知らないネジは、真っ直ぐに想いを寄せてくれて、いつだって綺麗な瞳でヒナタを映してくれる。ヒナタは相当に罪深くて、本来ならばどんな罰を受けても当然の立場なのに。それでも、ただ純粋に愛してくれる恋人に、行き場のない罪悪感が膨らんで、いつ溢れ出してもおかしくない状態になっていた。もう、春まで持ち堪えられないかもしれない。
「ネジさん……離れ離れになったら、私のことを、忘れますか? 他の誰かを見つけて、幸せになりますか?」
「どうして? どうして、そんなことを聞くんだ?」
抱き締めた腕を緩めてネジを見上げると、ひどく悲しそうな顔をしていた。この世に自分さえいなければ、彼がこんな顔をすることもなかっただろうと、怒りさえも込み上げた。
「……嫌だ。あなた以外の人なんて、オレには考えられない。怖がられると思って言えなかったけれど、オレはあなたに相当依存していて、あなたの全てが欲しいとさえ考えていて、あなたを失うことを、何よりも恐れているんだ……重いだろう? ずっと独りだったから、初めて手に入れた温もりに、執着にも似た感情を抱いていて、自分でも、どうすることも出来ないんだ……!」
そのまま強引に組み敷かれ、冷たい床の上でネジの熱に火照らされて、瞬く間に乱されたヒナタは、口で、胸で、腹で、何度も彼を受け止めて、真っ白に融けていった――。終始苦しそうに顔を歪めるネジを見ていると、悲しくて、悲しくて、涙が止まらなかった。
*
ようやく覚悟が決まった。これ以上大切な人を欺くわけにはいかない。またしても疲れて眠ってしまった彼を置いて、一人で思い出のベイエリアへと訪れたヒナタは、煉瓦倉庫の前で、対岸の観覧車を見ながら記憶を巡らせた。
――どうせなら、笑って傍にいよう。どんなあなたも好きだけど、あなたには笑顔が一番似合うのだから。
――はい……必ず笑って、笑顔で、あなたの隣に……。
交わした約束は、守ることが出来なかった。
――どうかこの幸せが、いつまでも、いつまでも続きますように。
胸に抱いた願いは、叶えることが出来なかった。
――あなたこそ私の喜びです。どんな時も、決してあなたから離れることはありません……。
神へと捧げた祈りは、果たすことが出来なかった。
ネジのことは今だって好きだ。決して忘れられそうにないけれど、これ以上想いが募ったら、離れられなくなってしまう。ネジが真っ直ぐに向けてくれる想いが憎しみへと変わってしまう前に、ヒナタは彼の元を去ろうと考えたのだ。あの人を失ったら、自分こそどうなってしまうか分からない。それくらいに、ネジの存在はヒナタの中で大きくなっていたが、もう、これ以上傍にいるのは限界だった。
*
翌日、再びネジのマンションを訪れたヒナタは、なかなか切り出せずに黙りこくってしまい、ネジを困らせてしまった。
……暫く待ってくれていたネジが、ついに痺れを切らして口を開いた。
「ヒナタ? この間から、何か変だぞ。一体どうしたんだ?」
好きで、好きでどうしようもないその優しい声に、一気に感情が昂って、まるで幼い子供のように、声を上げて泣いてしまった。絶え間なく湧き上がる嗚咽に、ひどく震えて身動きが取れなくて、これで最後なのに、大好きな人の顔を、見ることも出来なかった。
さすがに困り果てたネジが、ヒナタの頭を撫でてくれた。しかしヒナタは、その優しい手を、冷たく撥ね退けてしまった――。
「……どうして?」
悲しい声色に、胸が粉々になりそうなくらいに痛んだが、ちゃんと、伝えなければならない。もう、決めたのだ。
「ネジ、さん、あの……もう……一緒には、いられ、ないんです……別れて、欲しいです……」
涙を拭いて、ようやく見上げたネジの顔は、貼り付けたように無表情だった。見ていられなくて、一瞬で目を逸らすと、また俯いてしまった。袖口には、涙の大きな染みが出来ていた。
……暫しの沈黙の後、ネジが徐に話し始めた。
「そうか……オレは多分、ずっと好きだけど……あなたが決めたことなら、仕方ないな。どうか元気で、幸せでいて下さい……迷惑かもしれないが、オレはいつでも、あなたを応援しているから」
やはりその声色は悲しくて、これまで聞かせてくれたどんな声よりも褪めていて、ヒナタは心の奥底から、自分達の運命を呪った。
「……っ、ごめん、なさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
壊れたテープレコーダーのように繰り返すヒナタに、ネジが消え入りそうな声で呟いた。
「……最後に、抱き締めてもいいかな?」
痛くて、苦しくて、今にも崩れてしまいそうだった。
小さく頷いたヒナタの返事を受けて、ふわりと抱き締めてくれたネジに、体を寄せられるのはこれで最後なのだと思うと、彼の背中に腕を回してしまいそうになった。本当は離れたくない。抱き締め返して想いを伝えたい。でも、そんなことをしたら、彼をもっと傷付けてしまいかねない。ヒナタは恐らく人生で最後の、初めて好きになった人の体温を感じながら、いっそこのまま死んでしまいたいなどと、ひどく破滅的なことを考えていた。
「ありがとう。短い間だったけど、幸せだった。本当に、好きだったよ」
最後にネジが紡いでくれた言葉に、心が、ばらばらに砕け散りそうな絶望感に襲われて、どうにも耐えられそうになかった。これほどの痛みを抱えて生きてゆくには、ヒナタはあまりにも未熟過ぎたが、それでも彼を好きになったことは間違いではなかったのだと、想いを、強く胸に刻んだ。
――こんなにもあたたかい気持ちを知り、出会わなければよかったなどとは今さら思いません。
――私も、幸せでした。あなたのことが、本当に本当に、大好きでした。
伝えられなかったその想いは、ヒナタの中で、いつまでも息づいてゆくことだろう。