2015.08.23更新
麗月を迎えたある日。身を切るような寒風に吹かれながら、ネジはまた、ヒナタのアルバイト先へと向かった。今日は、彼女に真っ先に報告したいことがある。
艶のある赤焦げ茶色の煉瓦と、褪せた白の看板が目印の、硬派なマスターが営む喫茶店は、これまで何度も訪れた場所である。しかし、何故だか今日は、どことなく違って見えた。気温は五度を下回ろうかというほどで、外気にさらされた肌は痛いくらいなのに、ネジにはとても暖かい。こんなにも希望に満ちた心境でいられるのは、十八年間の人生で初めてかもしれない。合格――。そう、その夢への第一歩は、殆ど感情を露にせず、いつだって冷静なネジを、思わず緩ませてしまうくらいに、眩しく光り輝いていた。
「いらっしゃいませ。あ! ネジさん……」
アフリカンブラウンの扉を開けると、白と黒の、侍女のような制服に身を包んだヒナタが、いつもの柔らかな笑顔でそこにいた。それから鐘の音と、ヒナタの声を聞いたコウも、奥から出て来てくれた。二人は親戚同士ということもあって、よく似た穏やかな雰囲気を纏っていた。
「あ! お客様! 大学入試の、結果は分かりましたか? あ、不躾にすみません……今朝発表だと、新聞で読んで……真っ先にあなたのことが、思い浮かんだもので……」
「コウさん! 私が切り出しにくかったことを、代弁して下さってありがとうございます! で、あの……いかがでしたか?」
古くからの知り合いのように、はたまた家族であるかのように、あたたかく迎え入れてくれた二人に些か安心感を覚えて、ネジは笑みを零した。そして徐に、鞄から一通の封筒を取り出して、中身を開いて見せた。
「合格! したんですね……よかった……今日は、お代は要りませんよ。ささやかですが、お祝いです。そうだ、ケーキに蝋燭を刺しましょう」
「あ……お、お、お、おめでとう、ございますっ! 本当に……よかった……」
身に起こった幸せを、まるで自分のことのように喜んでくれる人がいる。それがどんなに嬉しくて、どんなに貴いことなのか、これまで独りぼっちだったネジには、知る由もなかった。もしも自分に家族がいれば、こんなにもあたたかく包んで貰えるものなのかと、微かな想像を巡らせた。少し寂しくもあったが、今のネジにはヒナタがいる。かけがえのない居場所がある。それで十分ではないかと、自分に言い聞かせた。
「お待たせしました。マスターからのほんの気持ちです。ネジさんのお好きなコーヒーを、大きなマグカップに淹れたので、沢山飲んで下さい。それからこれは、コウさんお手製のショートケーキです。さあ、蝋燭の火を、吹き消して下さい」
「フッ……まるで、子供の誕生日祝いみたいだな。でも、オレにはあまり経験がないから、嬉しいよ。ありがとう」
一瞬、ヒナタの表情が曇った。優しい彼女ゆえに自分の過去に心を重ねてくれたのだろうと、ネジは殆ど気に留めなかった。
ケーキに刺さった蝋燭の火を吹き消したことなど、もう記憶の片隅にも残っていない。父と二人暮らしだった頃に、多忙な彼が、誕生日のお祝いをしてくれたことなどあっただろうか。やはり自分は、当たり前のように親の庇護の下で育ってきた者達とは違う。誰もが幼い頃に経験した幸せを、知らないままに大人になってしまうのだ。
「あの……ネジさん? 何か、私に出来ることはありますか? よかったら、何でも言って下さい。ご褒美というほどでもないですが、最後に、あなたの願いを叶えさせて下さい」
「……最後、とは?」
「……あ! え、えっと……その、もう、二月でしょう? あなたがこの街を出てしまうまで、二ヶ月もないですから……」
「……そうだな……では、 て欲しい」
「!」
そっと耳打ちされたその願いは、ヒナタにはまるで想像もつかないものだったようだ。真っ赤になって俯いて、何も言わなくなってしまった。その反応があまりにも可愛くて、ネジはまた笑顔になった。