2015.08.22更新
シフトの確認をしに、アルバイト先の喫茶店へと訪れたヒナタは、昨日ネジが、久しぶりに来店していたことを知った。彼には珍しく、ロイヤルミルクティーを注文していたことをコウから聞いて、ある日の記憶が神速に蘇り、まさか自分に焦がれてその味に触れに来たなどとは到底思えなかったが、何故だかひどく気になって、気づけば彼のマンションへと足を向けていた。
これまでに何度か乗った小さめのエレベーターに入ると、急に会いに来た自分を訝しく思われはしないだろうかと、些か不安になった。しかし無事に受験を終えたであろう彼へ、どうしても労いの言葉を掛けてあげたかったのだ。
ネジの住むフロアへと足を踏み入れると、真冬の冷たい風が、痛いくらいに頬を刺した。殺風景なコンクリートの床と、あたたかみのないスチールグレーのドアが並ぶその様子に、余計に寒さを増した視界は、まるでモノクロの世界のようにも見えた。しかしてゆっくりとドアの前まで行くと、ヒナタは深呼吸をした。罪深い自分が彼の隣にいることは、いつかは許されなくなるだろう。鞄の中にある、ネジと揃いのピンクのお守りは、きっと彼との縁は切るべきだと、彼の為に判断を下すことだろう。だが今だけ、彼がこの土地にいる春までは、どうか傍にいさせて下さいと、あれから、毎日のように祈っていたのだった。
……震える手でチャイムを鳴らす。ところが、ネジはまだ帰って来ていないようだった。
ヒナタは少し安心して、一度ドアから離れると、背後の、廊下の手すりに手を置いた。ネジが毎日見ているであろうその景色は、空の青と海の藍が真っ二つになった水平線がよく見える、切ないくらいに綺麗なものだった。
どれほどの時間が経ったかは分からないが、来た時は白かった陽の光が、柔らかな金色へと変化しようとする頃、エレベーターから誰かが降り立つ音がした。そしてゆっくりとこちらへ向かって来る穏やかな足音は、間違いなく何度も聞いた、ヒナタの大好きな人のものだった。徐に視線を遣ると、どこか悲しそうな顔をしたネジがそこにいて、ヒナタはたまらず俯いてしまった。
「……ヒナタ? どうして、ここに? ……今日は、かなり寒いのに……外で、待っていたのか?」
冬の夕暮れに、澄んだ空気を振るわせるその声は、ヒナタの大好きな、低くて鼻に掛かった、優しい声だった。金色の陽に照らされた彼の顔は、息を飲むほどに綺麗で儚くて――。思わず涙が零れそうになるのを、ヒナタは懸命に押し殺した。
「……昨日、あなたがお店に来られたことを、コウさんから聞いて……どうしても、あなたに会いたくなって……あ、あの、受験、お疲れ様でした」
無言で歩み寄って来たネジは、ヒナタの手を取ると、小さな鈴の音を響かせて、赤と水色の、二つのお守りがついたその鍵で、玄関のドアを開けた。
部屋に入ると、靴も脱がないままに、きつく、きつく抱き締められた。ネジは何も言わなかったけれど、震えるくらいに強く力の籠もった腕から、彼の孤独や苦しみが伝わってきて、両親のいない中、独りで挑んだ大きな試験が、いかに心細かったのかを物語っていた。暫くして体を離したネジを見上げれば、いつもと変わらない、優しい表情をしていた。
今日は初めて、ネジがヒナタに紅茶を入れてくれた。冷えきっていた体が少し温まって、ネジの体に寄り添うと、一層暖かくて、そのあまりの優しさに、ヒナタはふわりと微笑んだ。目が合うと、ネジもまた笑いかけてくれて、とりわけゆっくり、思い切り柔らかく、唇を重ねてきた。甘く、痺れるような感覚に、ヒナタはやはり堪えきれなくて、一筋だけ、涙を零してしまった。そんなヒナタを慈しむようにそっと組み敷いて、これまでの熱い交わりとはまったく対照的に、飛び切り優しく、ネジはヒナタを抱いた。あまりにも胸が苦しくて、今にも壊れてしまいそうだった。
「今日は、会いに来てくれてありがとう……嬉しかった……最近いつも、会う度に体を求めてしまうけれど……あなたを想い過ぎるあまり、傍にいると、どうしても欲しくなってしまって……それだけではないのだと、ちゃんと分かっていて欲しい」
ひどく自信のなさそうなネジの様子に、ヒナタはやはり心が痛んで、乱れた制服も直さないままに、緩やかに彼を引き寄せると、力の限り抱き締めた。
「あなたの想いは、分かっているつもりです……それに、はしたないかもしれないけれど、私だって、あなたを欲しいと思う気持ちが溢れて、どうしようもなくなってしまうから、大丈夫なんです……」
今だけ、今だけだからと、次はヒナタの方から勇気を出して、少々荒っぽくネジに口づけた。ネジもすぐに応えてくれて、また何度も、甘くて真っ白な世界に、二人で堕ちていった――。
気づけば眠りに落ちてしまって、ヒナタが目を覚ます頃には、うっすらと照らす、月明かりが差し示す時計の針は、二十時を大幅に回っていた。そろそろ帰らなければと、重い体を起こそうとすると、ぐっすりと眠った様子のネジの腕に、がっちりと肩を抱まれていて、身動きが取れなかった。綺麗な寝顔で、気持ちよさそうに寝ている彼を起こさぬように、下からそろりと抜けると、また布団を掛けてあげて、冷たい床へ無造作に散らばった制服を、音を立てないよう、慎重に身に着けていった。
――ネジさんへ
もう遅いので、今日は帰ります。
鍵を閉めてポストに入れておくので、後で忘れずに取って下さい。
20:25 ヒナタ――
置き手紙を書いて、ネジの鞄から家の鍵を取り出すと、ふと、テーブルの上の、古いアルバムが目に入った。直感で、これは自分が見るべきではないものだと分かったが、押し寄せる好奇心に負けて、ついページを開いてしまった。
(……お父様と、ハナビ?)
色褪せた写真には、ヒナタの父と妹が写っているように見えた。しかし、ここにそんなものがある筈はない。もう一度よく見てみれば、全ての条件が合致して、息が止まるくらいの戦慄を覚えた。
――違う……! これは父と双子の叔父様と、小さい頃の、ネジさん……!
あまりにも似ていたので見間違えてしまったけれど、そこに写っていたのは、厳格なヒナタの父ではない。なぜなら父のこんなにも柔らかな笑顔を、ヒナタは一度も見たことがないからだ。それに、妹によく似たその子が着ている服は、どう考えても男の子のものだった。血の近い従兄妹同士ならば、小さい頃にそっくりだったとしても何らおかしくはない。
分かっていたけれど、十分に理解はしていたけれど、いざこうやって目の当たりにしてしまうと、どうしようもなく恐ろしくて――。やはり二人は出会ってはいけなかったのだと、ましてや好きになってはいけなかったのだと、苦しいくらいに、ひどく痛感したのだった。