2015.08.22更新
入試を終えて日常を取り戻したネジは、合格発表までの間はまだ、完全に気を抜くことが出来なかったが、ようやく張り詰めた心が解き放たれたように、とりわけ穏やかな時間を過ごしていた。
学校の帰り、いつもの書店でやっと勉強以外の本を買い求めて、もう何度も訪れた、馴染みの喫茶店である“サニープレイス”に行くと、最も会いたかった人はそこにいなかったものの、彼女の親戚だというマスターのコウが、彼の約二ヶ月ぶりの来店を、ひどく喜んでくれた。
「いらっしゃいませ……あ、お久しぶりです。ヒナタさんから、色々とお話は伺っていました。受験、お疲れ様でした。またご来店いただいて、ありがとうございます。さあ、どうぞお席へ。今日もブレンドでよろしいですか?」
「いや……あの、ロイヤルミルクティーで……」
「かしこまりました。少々、お待ち下さいませ」
いかにも善い人そうな、それでいて穏やかな空気を纏うマスターに、何故だか全てを見透かされているように感じて、ネジは柄にもなく気恥ずかしさを覚えた。けれどもある時ヒナタが作ってくれたその味を、今日はどうしても思い出したくて、初めて別の飲み物を注文したのだった。約三年間、沢山の教科書やノートを入れて持ち歩いた為、随分使い古したように見える革の鞄から、買ったばかりの本を取り出そうとすると、小さな鈴の音が聞こえて、ヒナタと揃いの水色のお守りが、ネジの目に入ってきた。やはり会いたくなって、ここを出たら、彼女が通う学校に行ってみようと思い立った。
商店街を抜けて、ステンドグラスの時計台を越えると、山の手へと続く緩やかな坂道を上ってゆく。もう何度も手を繋いで歩いたその道は、真冬を迎えた今はひどくくすんで見えた。ヒナタの通う女子高の近くまで来たネジは、そこまで来たものの、通信手段を持たない自分達が一体どうやって会えると考えたのかと自嘲して、やはり来た道を引き返したのだった。だがヒナタと同じ制服を着た学生を見ていると、どうしても彼女に会いたくて、行き場のない寂寥感に襲われてしまった。
誰もいないマンションに帰ると、また鞄から本を出して読もうと試みたものの、今日はどうにも入り込めなくて、無造作に本棚へとしまった。そこはあまり整頓されていなかったせいか、ぱたりと音を立てて、薄く色褪せたアルバムが、ネジの足元へと落ちてきた。それは、この家に唯一残っている、幼い頃の自分と存命だった父との歩みだった。
(……懐かしいな)
徐にページをめくると、柔らかな笑顔で小さな息子を抱く、とても幸せそうな父親の写真が目に入った。これまでは、あまりにも痛くて直視出来なかった写真だった――。どうして父は死んで、どうして自分は独りなのだろう。どうして自分だけがこんなにも、寂しい人生を送っているのだろう。何度問うても、納得のいく答えなど到底見つけられなかった。ヒナタと出会って、互いに想い合うことの喜びを知ってからは随分救われたものの、これから先も、親のいない心細さを抱えて生きてゆくことに、何も変わりはないのだ。
――どうしてオレは、独りで生かされているのだろう。
それ以上は見る気にならなかったので、静かにページを畳んでテーブルに伏せた。何もする気が起こらなくて、制服のまま、ベッドに横になった。
目を閉じると、一度も忘れたことはない、しかしなるべく思い出さないようにしていた、父との幸せだった日々が、ひどく鮮明に蘇ってきた。思い返せば、父はいつだって優しい笑顔で寄り添ってくれて、それは心から幸せで、儚いくらいに貴い記憶だった。
長い間、ずっと孤独の中で苦しんできたネジは、傍にいた大切な人が、急にいなくなることの恐怖を二度と味わいたくなくて、誰とも深くは関わらないようにしていた。よって周りには浅い関係の友人ばかりで、こんなにも強く引き寄せられて、傍にいたいと願った相手は、ヒナタが初めてだった。そんな自分の感情に、初めは随分戸惑ったけれど――。彼女への烈しい想いは何故だか止められなくて、気づけばどうしようもないくらいに、心の中を侵されていた。だが、それと同時に、もしまた大切な人を失うようなことがあれば? などという焦りにも似た不安が、今のネジを支配していた。
本当は、怖くて怖くて仕方がないけれど、それよりもヒナタを好きな気持ちが多分に勝っていて、息苦しいくらいの虞を抱きながらも、やはり今は離れられないからと、刺すような胸の痛みをどうにか誤魔化して、ヒナタの前では何とか平静を装っていた。