2015.08.14更新
ついにやってきた約束の日は、例年よりも随分気温が低く、絶え間なくひらひらと舞う粉雪が、ひどく肌に凍みた。
二十四日は、大切な叔父の月命日だ。たとえ、ネジとの待ち合わせがあろうとも、ヒナタは決して墓参りを欠かすわけにはいかなかった。彼とは十三時に約束していたので、少々早起きをして、いつもとは全然違う、かなり早い時間帯に、一人でその場所へと向かったのだった。
今月のブーケは、赤い薔薇が主役の、とりわけ華やかな、クリスマスをイメージしたものだ。置いてあるシンプルな花瓶では、些か物足りないからと、赤と緑のタータンチェックのリボンを持参して、その飾り気のない体裁を、ささやかに彩ろうと考えた。
四歳の頃に亡くした叔父の墓へは、十七歳を迎えようかという今では、五十回は優に超えるくらい、極々頻繁に訪れている。本来ならば、必ず一緒の父と妹を置いて一人で来るのは初めてだったが、しかしもう慣れた道のりは、少しの心細さも感じさせなかった。駅前の停留所から出ている路線バスに乗って、クリスマスカラーに綾なす緩い坂道を、山の手の頂上付近まで登ってゆくと、高台の墓地に辿り着く。
今日は墓参りを終えたら一人で昼食を済ませて、駅ビルのパウダールームでもう一度身嗜みを整えてから、ネジと待ち合わせをしている、ステンドグラスの時計台に向かう予定だった。この日が楽しみで仕方なかった。
とはいえ、あまり着飾るのも恥ずかしく思えたので、アラン編みの白いニットワンピースに、黒のニーハイソックスを履いて、ティールグリーンのウールコートを羽織って出て来た。空いた首元にはキャメルのファーティペットを巻いて、それから靴と色を合わせた茶色い革のバッグには、ネジがくれた文庫本を入れて来た。
――不幸でいること、不満を持つことは至極簡単だ。むしろそれはただの甘えであり、何事も他人任せに、楽な方へと流されてゆくことと全くの同義である。
――対して幸福でいること、希望を持つことの方がずっと難しい。その為にはしっかりとした意識が必要で、一見恵まれているかのように思える幸せそうな人も、裏では必ず、己を律する努力をしているものだ。
そんな、能動的な幸福について説いたその本は、これまでのヒナタの、弱過ぎる考えを一気に変えてくれた。特に心を打たれたページには、お気に入りの付箋で印を付けて、何度も読み返しては、大切なネジの為にも幸せな自分でいようと、決意を新たにするのだった。
本に夢中になっている内に、いつの間にかバスが目的地に到着した。時刻はまだ十時を回ったところだ。ネジとの約束までには十分時間がある。木製のバケツと柄杓を手にすると、ヒナタは自分にも持てるだけの少なめの水を汲んで、何度も歩いた無機質なコンクリートの道を、眼下に広がる海を見ながら、ゆっくりと進み始めた。淡い雪のせいか、空は白く煙っていて、さらには海までもが、くすんだ灰色に染まっていた。
五分ほど歩いたところに、叔父が眠っている、冷たい大理石の墓が見えてくる。ヒナタは、まるで子供のように、途中から道の真ん中に現れた細い溝の上を、外さぬように俯いて歩いていた為、まったく前を見ていなかった。従って、目的の場所に誰かがいることに気が付いたのは、あと十メートルほどまで近付いたところの、相当に至近距離でのことだった。
(誰か、いる……?)
ヒナタはかねてより、自分たち家族よりも決まって先に来て花を供えている人物と、ちゃんと話がしたいと思っていた。父が全く以て教えてくれない真実を、いつかは必ず知って、罪を購う機会を得たいと、強く思っていたのだ。
しかしてこれは、またとないチャンスかもしれないと、ヒナタは突き動かされたように、急いで足を踏み出した。
――瞬間。
墓標や木の影に隠れて、よく見えなかったその人物の後姿が、はっきりと目に入った。
(ネジ、さん……!)
そこにいたのは、普段は束ねている長い髪を下ろし、さらさらと風にたなびかせた、ヒナタの大切な恋人だった。見覚えのある黒いジャケットに、黒いシャツ、黒いパンツと、黒い靴を身に着けて……喪に服した様子の恋人だった。
――忽ち、全てを悟ってしまった。
にわかには信じ難かった。まさか自分が、彼の自由を奪う原因を作った張本人だったなどとは、露ほども思わなかった。
それに、叔父と父は、瓜二つの双子だったと聞いている。ゆえに二人は、実の兄妹といっても相違ないくらいに、至って近しい血縁者であるということになる。人は、どこか自分に似ている人に好意を抱く傾向があるという。互いをあまり知らない内から惹かれ合っていたのも、ここまで濃い繋がりの親族ならば、果然無理はないのかもしれない。ヒナタはあまりの強い衝撃に、長い間そこを動くことが出来なかった。ネジに気づかれないように小さくしゃがんで、はらはらと降り注ぐ雪にまみれながら、ただひたすらに震えていることしか出来なかった。
――けれども二人は出会ってしまった。好きに、なってしまった。
その残酷過ぎる現実に、元来泣き虫だったヒナタが、もはや涙も出ないくらいに、ひどく打ちのめされてしまったのだった。