2015.08.16更新
粉雪の舞う約束の日は、いつもの黒い服を着て、馴染みの花屋で供花を買って、もう何度も訪れた、海の見える墓地へと足を運んだ。
毎月二十四日の父の月命日は、必ずここを訪れて、寒い日も暑い日も、雨の日も風の日も、気づけば数時間もの間、祈りを捧げていることもあった。幼い自分を残して死んだ父を、未熟だったネジは幾度も責めたが、十八歳になった今、小さな女の子の命を繋いだ彼を、少しずつ誇りに思うようになっていた。
(父様……オレにも、大切な人が出来ました。今はもう、独りではありません。それに、受験勉強も順調です。このまま調子を上げていけば、恐らく志望校に合格出来そうです。孤独なオレを救ってくれた本の世界に、一歩ずつでも近づいてゆけたらと思います)
今日はいつにも増して、冷たい風が肌を刺す。しかしそんな凍えるほどの寒さも、久しぶりにヒナタの顔を見れば吹き飛ぶだろうと、ネジは柔らかな幸せを噛み締めた。早く、会いたい――。彼女に余計な心配を掛けないように、一度帰って着替える必要があったので、ネジはいつもより殊の外短いお参りを終えると、早々にその場を後にした。
ネジのクローゼットには、先日ヒナタが言っていた通り、白やグレー、紺の服がずらりと並んでいる。月に一度だけ着る黒い服は、その冷たい色みのワードローブを、より一層際立たせていた。墓参りに着て行く服の色など、亡くなって十三年が経過した父には、もはや関係がないのかもしれない。だがネジは、一時に比べればかなり落ち着いたとはいえ、今もなお、喪に服したまま抜け出せずにいるのだ。それくらいに父の死は、幼かった彼の心に深い傷を残したのだった。
ネジは下ろしていた長い髪を束ねると、グレーのニットに白いパンツ、紺のコートを羽織って家を出た。ヒナタと待ち合わせているステンドグラスの時計台へは、三十分もあれば辿り着けるだろう。寒い中彼女を待たせるわけにはいかないので、少し早めに向かうことにした。
思い出のベイエリアで、互いにクリスマスプレゼントを選び合おうという約束は、初めての恋人と過ごす特別な日を、あたたかく導いてくれるだろう。ネジは柄にもなく、まるで幼い子供のように、この日を心待ちにしていたのだった。
約束の時間よりも十五分ほど早く到着してしまったネジは、またいつものように本を読みながら、人ごみの中、自分を探してやってくるヒナタを待つことにした。さすがに今は自己啓発書や文学小説を読む気分にはなれない。赤いシートが付いた小さな参考書を手に、この短い時間も勉強に充てようと思った。ヒナタは別段ルーズなタイプではないが、約束の時間を、決まって五分は遅れて来る。よって彼女が現れるまでには二十分ほどの時間があった。ネジは腕時計をしていなかったので、時計台の針が指す時間だけを頼りにしていた。
しかし参考書に夢中になっていた為、十分、十五分と軽々過ぎてゆく時間に、気づかぬままそこに立っていた。
そろそろ、ヒナタが来る頃かもしれないと、ネジが手元の本から頭上の時計へと視線を上げた時は、長針はすでに、約束の十三時を大幅に過ぎた、“三”の位置を指していた。彼女がこんなに遅れるなんて珍しいとは思ったものの、互いに通信手段を持っていない。生憎、ここで待っている外なさそうだ。
仕方がないので本を読む。ところが、ヒナタに何かあったのではないかと心配で、あまり集中出来なくなってしまった。
それから十五分くらいして、長針が“六”の位置を指す頃、ようやく息を切らしたヒナタがやってきた。
「……ごめん、なさ、い……! 来る途中、雪に、降られてしまって……ここにずっといては、寒かったでしょう? 本当に、ごめんなさい……!」
久しぶりに見る恋人は、ネジが初めて見る冬の装いをしていて、そのお人形さんのようにふわりとした姿を捉えれば、すっかり冷えてしまっていたネジの心は、瞬く間に温まってゆくのだった。ネジはすぐさま本を閉じて、必死に頭を下げるヒナタの手を取った。
「あ……」
びくん、と反応して小さく呟くと、ヒナタは俯いてしまって、ネジと目を合わせようとはしなかった。人見知りの彼女のことだから、一ヶ月ぶりに会う自分の前で緊張しているのだろうと、ネジはあまり気に留めずに歩き出した。
「オレは大丈夫だから、気にしないで……それより、雪に降られたとは? 傘を、持っていなかったのか? 手も、随分冷えているな……」
ヒナタの小さな手を、自分の大きなそれで包んで、コートのポケットへと運んだ。ヒナタは少し震えていたが、いつもとは違う彼女の反応に、どこか初々しさを覚えて、ネジは微笑ましく思った。初めて恋人と歩くクリスマスの港町は、沢山の人で溢れていて、青と銀の様々な飾りで彩られた木々を、皆が嬉しそうに見上げていた。
「ヒナタ……クリスマスプレゼントは、何がいいかな?」
付き合うきっかけとなった、海辺の観覧車の近くにあるショッピングモールへとやってきた二人は、まだ明るい時間帯だというのに、赤と緑のイルミネーションに照らされた外の通路を、ゆっくりと歩いていた。午前中、絶えず舞っていた雪は疾うに止んで、寒さは幾分和らいでいた。
「プ、プレゼント、ですか……そういえば、そんな話も、していましたね……ど、どうでしょう……まだ、考えていなくて、ごめんなさい……」
やはり俯いたままのヒナタに、ネジは僅かに違和感を覚えた。そういえば、今日はまだ一度も目を合わせてくれない。それに、ネジが手を握れば必ず握り返してくれていたのに、今日はされるがままだった。少し、寂しくなった。だがせっかく会えたのだからと気を取り直して、些か様子のおかしいヒナタに、どうにか関心を持って貰おうと考えを巡らせた。
「では、何か甘いものを食べるというのはどうかな? 好きだろう? オレは、コーヒーでも飲むとしよう」
ヒナタが、ようやく顔を上げた。その視線はネジの首あたりで止まってしまって、目を合わせることはなかったけれど、まるで警戒心の強い子猫を手懐けようとしているみたいで、面白くもあった。
「そ、それなら……ソフトクリームパフェの、専門店がこの建物の上に……」
「そこに行こう」
その店は、奥に並ぶカウンター席から、ガラス越しに海を見渡せるようになっていた。自分たちと同い年くらいの、若い店員が出してくれたパフェは、バニラ味のソフトアイスに、カラフルなフルーツと甘いソースがトッピングされていて、いかにも女の子が好みそうな、可愛らしいものだった。ここでは向かい合って座ることが出来なかったので、目を見なくても何ら問題はなかったが、相変わらず、ヒナタは挙動不審だった。ネジは温かいコーヒーを飲みながら、隣のヒナタに視線を遣った。彼女はちょうどさくらんぼを口にしようとしているところだった。ぷるりと色づいた赤い実を口に運ぶ姿を見ていると、先月交わした、深いキスの味が蘇って、思わず鼓動が早まった。
「ヒナタ……それを食べたら、もう一度、あの観覧車に乗らないか? また、一緒に乗りたいんだ……」
ヒナタは、一瞬動きを止めた。そして返事もしないままに、またパフェを食べ始めた。ネジは少々呆れながらも、幼い子供をあやすような心持ちで、無言のヒナタを連れて観覧車乗り場へと向かうことにした。不機嫌とも違う、彼女の初めての反応に、大人なネジも、さすがにどうしていいものか分からなくなってきていた。それに、せっかく、楽しみにしていたのに……それは自分だけだったのかと、些か悲しくもあった。
――はっきり言うが、オレはあなたのことが好きだ。
――多分……いえ、確実に、私も、あなたのことが好きです。
かつて想いを伝え合った観覧車に乗れば、一ヶ月前までの甘い時間を取り戻せるのではないかと、ネジは半ば祈るような気持ちで、ヒナタをそこへ連れて行った。どこでもいいから二人きりになって、その唇に、早く自分のそれを重ねたいという気持ちもあった。ポケットの中のヒナタの手は、ついさっき食べた冷たいパフェのせいか、さらに冷え切ってしまっていて、雪が止んだとはいえ、海風の吹く観覧車の中は、ひどく凍えていた。ヒナタがあまりにもガタガタと震えていたので、暖めようと、またあの時のように、狭いゴンドラの中で隣に腰を下ろした。再びびくん、と体をこわばらせた彼女に戸惑いを覚えたが、そっと肩を抱き寄せて、その頭を撫でてみた。ヒナタは動かずに、受け入れてくれた。
「ヒナタ……」
名前を、呼ぶ。そして指でゆっくりと髪を梳かしながら、ヒナタの唇に、吸い寄せられるように口づけた。ヒナタはぎゅっと目を閉じて身を固くしていたが、嫌がってはいないように見えた。ネジは一瞬触れただけのキスに、瞬く間に熱が滾ってしまって、そのまま何度も、冷えきった柔らかい感触を味わって、やがて温かい咥内へと、舌を挿し入れた。不慣れなヒナタはまたされるがままになってしまったが、ネジはそれでも夢中で、その甘い感覚に溺れそうになっていた。
「んっ……んん……ぅ……ん……」
苦しそうな声が聞こえたので、一旦唇を離した。ヒナタは、泣いていた。やっと、今日初めて目が合ったというのに、ようやくネジの姿を捉えた瞳は、大粒の涙を零す、ひどく悲しい色をしたものだった。
「ヒナタ? もしかして、嫌、だったか?」
ネジの問いに、ヒナタは首を横に振った。しかしまだ、頬を伝う涙は止まっていなかった。
「……あなたが、好きです……私は、あなたのことが好きなんです……」
それだけ言って、またヒナタは黙りこくってしまった。その言葉とちぐはぐな行動の裏にある心理は、ネジには到底分かる筈もなかった。
結局それ以上は言葉を交わさないまま、そして視線も合わせないままに、小さな観覧車は一周してしまった。