2015.08.12更新
2016.08.13修正
その日は、ひどく冷たい風が吹いていた。
遠い過去、自分を庇って亡くなった叔父の月命日の墓参りを欠かさないヒナタは、今月も例に漏れず、山の手の頂上付近にある、彼の眠る場所へとやってきた。
そこは大変見晴らしが良く、ヒナタの生まれた港町を象徴する、青い空と藍色の海を一望できる、至極綺麗なところだった。
時刻は午後三時を回ったくらい、一般的にはあまり墓参りに適さないとされる時間にしかここを訪れようとしない父・ヒアシに、幾らかの違和感を覚えながら……。
ヒナタは、自らが背負う十字架を下ろす術が分からず、そして、下ろすつもりも更々なくて、幼すぎたために凡そ記憶にない叔父へ、懺悔の意を込めて祈ることしか出来ないのだった。
ヒナタが四歳の頃、父と双子の叔父・ヒザシは疾うに、仲違いして疎遠になっていたようだ。ところが、数年ぶりの親族の集まりに、ヒナタを預ける先がなかったヒアシが連れて行ったところ、僅かに目を離した隙に道路へと飛び出してしまったのを、ヒザシが身を挺して守ってくれたらしい。
幾ら聞いても、頑なに口を噤んでそれ以上を語らない父に、ヒナタは無闇に言い及ぶのをやめた。
だが、いつか必ず、自分の命を繋いでくれた救済者の、真実を知るべきだと考えている。
木枯らしの吹き荒れる午後、妹のハナビと共に選んだブーケを、置いてある花瓶へと挿した。
毎月ここへ来る度、何方かがすでに供花を飾っているため、ヒナタたちは別で用意するのだ。同じく、叔父の月命日には欠かさず来ている誰かと、ヒナタはいつか、会って話がしたいと思っていた。
さて、今月も無事にお参りを終えて、三人は、バスに乗って海側にある駅へと向かった。ヒナタはそこで二人と別れて、今日は休みをもらっているアルバイト先の、喫茶「サニープレイス」に行ってみることにした。
もしかしたら、ネジが来ているかもしれない。会えるかもしれない。できれば会いたい……!
逸る心をなだめながら、おっとりとしたヒナタには珍しく、幾分早足で商店街を歩いた。
案の定ネジは来ていた。いつもの入り口に程近い二人掛けのテーブル席に腰掛けて、茶色いブックカバーに包まれた本を読んでいた。普段と変わらぬ姿ではあったが、不意にどことなく違和感を覚えて、その理由を探ってみれば、上着もシャツも、パンツも靴も――身に付けるもの全てが黒で、只でさえ大人っぽい彼が、余計に大人びて見えたためだと考え至る。
幾度となく聞いた鐘の音を承け、今日は店に一人のマスターが出てきた。それから、入り口のネジの前に立ったままのヒナタに、穏やかに声を掛けた。
「ああ、ヒナタさんいらっしゃい。今日は、そちらのお客様と待ち合わせかな?」
「あ、えっと……あの……実は、最近お友だちになっていただいて……でも、別に待ち合わせていたわけじゃ……。近くを通ったから、コウさんの、顔を見にきただけです」
「まあ、二人の仲がいいのは見てたら分かるよ。あ、そうだ。これ、よかったら外で一緒に食べる? ジンジャークッキーの、試作品」
「えっ、いいんですか? 嬉しい! ありがとうございます。あ、で、でも……」
二人のやりとりを無言で見守っていたネジが、読んでいた本に栞を挟んで、鞄に入れた。そして――。
「……あなたさえ良かったらオレは別に構わないが」
普段より、幾らか沈んだ声で言った。
ヒナタはどこか心配になったものの、本来は会う予定のなかった日に一緒にいられることが、何よりも嬉しかった。
それから、迫り来るクリスマスのために、コウが試作した人形型のクッキーを持たせてもらって、二人は店を出た。
黒い服を纏ったネジと、白黒の、細かい千鳥格子の丸襟に、胸元を黒いベロアリボンで編み上げたワンピースを召したヒナタは、晩秋の暮れ、きんと冷え込むセピア色の街に、少し浮いているように見えた。
「あの……、急に押しかけてしまってごめんなさい。本当に、良かったのですか? あんな風に言ってしまったのですが、今日は家族での用事があって、近くまで来ていたので、もしかしたらあなたにお会いできるのではないかと……つい、探しにきてしまったんです」
「……もちろん。オレは、いつだってあなたに会いたいから」
ネジがヒナタに向けてくれた笑顔は消え入りそうに儚くて……。今日の彼はどうしてしまったのかと、やはりヒナタは心配になった。だから――勇気を出して、はじめてヒナタから手を繋いでみた。
ネジは一層ふわりと微笑んでくれて、なおさら胸が痛んだ。
コウの焼き菓子を外で食べるのも何だからと、またネジのマンションへと向かった。
部屋に着くと、ヒナタはワンピースの上に羽織っていた黒いニットコートを脱いだ。ネジも黒い上着を脱いだところで、彼に勧められるまま、整ったベッドの上に並んで腰掛けた。
前回ここへ来たときとは違う視点だったので、当然違ったものが目に入る。……それは、如何にもクラシックらしい落ち着いたジャケットの「ショパン・ピアノ名曲集」と題されたCDだった。届きそうな距離だったので、ヒナタは、思わず手を伸ばした。
「名曲集なんて……。俄かファンだと咎められるかもしれないが……。あなたが、一番好きだと言っていた、エチュードの十九番が入っていたから」
……直後、ネジが些か言い訳じみた口調で言った。
ヒナタは、そんな彼を庇うように、努めて穏やかに答えた。
「そっ、そんな……。俄かだなんて、思いませんよ。私の好きな曲を聴いて下さって、むしろ嬉しいくらいです。あ、ちなみに……ネジさんの一番お好きな曲はどれですか?」
「……ああ、オレは、『葬送行進曲』かな」
「『葬送行進曲』ですか……」
彼が好きだと言うその曲は、葬儀の折に遺体を墓地まで搬送する傍ら、皆が行進する様を描いた曲である。それは死のイメージに直結するもので、明るい音階の「長調」ではなく、暗い音階の「短調」で構成された、非常に暗いメロディーだった。
ヒナタから見たネジはいつも落ち着いていて、柔らかな空気を纏っていたため、そんな旋律を賞するなどとは、到底思えなかった。
……何故だか、どうしようもなく胸が痛んだ。
「ところで少し気になっていたのですが……。今日はどうして全身黒い服なのですか? 私服でお店に来られるとき、白やグレー、紺をお召しのことが多いのに」
「……よく、見ているな」
「あ! ち、ちち違うんです! い、以前からあなたを、ずっと見ていたとかではないんです! ……いいえ嘘です。九月の雨の日、あなたとはじめて店の外で言葉を交わした、ずっとずっと前から……私は、きっと、あなたに惹かれていたのだと思います……って、また私一人で必死になって……あ、あの……あなたらしくない黒い服を着て、心なしか元気もないし、何かあったのですか?」
ヒナタの懸命の言葉に、ネジはまるで反応を示さなかった。が、答えをはぐらかすかのようにそっと抱き寄せると、静かに、ただ静かに口づけてきた。合わせていた唇をいったん離し、間近で見たその瞳は、やはりどこか哀しみを帯びていて――。
そのままゆっくりと深くなってゆくキスに、彼を慰めるかのように、ヒナタも丁寧に応えた。
少しだけ慣れたはずのネジとのキスは、たいへん心地のよいもので、ヒナタは総てを預けて、その味に酔いしれていた。しかし今日はこれまでとは違って、唇だけでは足りないとばかりに、頬や耳や首筋にまで容赦なく降ってきた。
どこかくすぐったいような、痺れるような、はじめての感覚に、ヒナタは少々戸惑ってしまった。
やがてそれが、唇の柔らかい感触から、舌の生ぬるい感触へと変容してゆくと、ぞくぞくと震え出す熱をどうすることも出来ずに……。
思わずネジの胸に手を当てて、やんわりと押し戻すように力を籠めた。
ネジは緩やかに動きを止めて、ヒナタの大好きな、真っ直ぐな瞳を向けてきた。
「今日はどうしようもなく寂しくて……。あたためてほしい気分なんだ……駄目、かな?」
「え、えっと……あ、あの……」
返答を待たずして、ネジは二人で腰掛けていたベッドへとヒナタを沈めた。そこはネジが纏う清潔な香りで満ちていて、穏やかな安堵感を覚えた。
……それも束の間、絶えず降り注ぐ荒々しい口づけと、烈しくも滑らかに這う繊細な指先に、あっという間に火の点いた体を持て余し、ヒナタはぎゅっとシーツを握って耐えていた。
湿った音が鳴り響く度に加速して、ネジに触れられた箇所に消えない熱の道筋が刻まれるかのようで――。ひどく、ひどく心が昂った。
暫くして、深紅に染まったヒナタのワンピースのリボンがほどかれて、ウールのちくりとした生地感が肩を滑り落ちたかと思えば、露わになった白いレースの下着の上に、ネジの大きな手が這わされた。
ふわふわのそこも否応なく舌で濡らされて、果てのない羞恥に、瞬時に込み上げる涙を堪えきれなかった。
ネジはヒナタのそんな様子にもまるで気づかぬようで、胸を包む薄いレースを捲り上げると、淡いピンク色の小さな突起にも口づけた。……瞬間、行き場のない痺れが全身を駆ける。ヒナタはもうどうしていいのか分からなくなってしまった。
「ゃっ……やだっ……だ……め、だめですっ」
ヒナタの涙声を承けて、さすがに顔を上げたネジの目は、信じられないほどに熱を滾らせていた。しかし、その奥には深い寂寞の色が見て取れて、ヒナタは何故だか悲しくなってしまって、尚も震えの止まらぬ手で、彼をとびきり優しく抱きしめた。
「すまない……。オレはまたやってしまった……ここであなたと二人きりになるのはまずいな。しかし、あんなに嬉しいことを言われて、歯止めがきかなくなってしまった。オレも多分ずっと前からあなたに惹かれていたと思う……。恐らくあなたが思っている以上に、オレは、あなたが好きなんだ」
ネジの真っ直ぐな想いを受け取り、頬を零れる涙が、羞恥によるものから、喜びによるものへと変わった。
「うれしい……私ばかりが好きなのではないかと、不安だったから……」
ヒナタの乱れた衣服を正し、ゆっくりと体を起こしたら、また隣に座って、すっかり色づいた小さな手を、熱を持った大きな手で包んでくれた。
それから、はじめて見せる陰鬱な面持ちで――二人が出会うずっと前の話を聞かせてくれた。
「以前にも少し話したが……。オレは母を知らなくて、大好きだった父を五歳の時に亡くして、中学の頃までは、遠い親戚の家で肩身の狭い思いをして住んでいたんだ……。ここは父が遺してくれたマンションで、県内トップの男子校に特待生として入学することを条件に、ようやく戻してもらえて……。やっと、自由を掴んだ。都会の大学へ進学してもこの家を手放すつもりはないが、父が残してくれたお金も心許なくなってきて……奨学金や特待生制度を利用しなければ到底生活できそうもないから、今は必死に勉強してるんだ」
そんなにも大切なことを聞いてもいいものかと、ヒナタは些か恐ろしくなった。
しかしネジが自分を信頼して話してくれたのだと思うと嬉しくて、繋いだ手に思わず力が入った。
「私には父と妹という家族がいて、当たり前のように自由に生きてきたので……独りぼっちのあなたの寂しさを、完全には理解出来なくて歯痒いです……。分かって差し上げられなくて、本当にごめんなさい……でも、あなたを想う気持ちは、絶対に誰にも負けません。この先離れ離れになって、あなたの世界が広がって、取り巻く環境も変わるでしょうけど……。これからあなたが出会う誰よりも、私はあなたを好きな自信があります……もしも寂しくなったら私を頼って下さい。出来る限り傍にいて、力になりますので……」
精一杯の言葉を紡ぐと、溢れ出す涙をどうしても止められなくて、幾筋も幾筋も伝う熱が顎を伝って、鎖骨の辺りまでを濡らしてしまった。
ネジは繋いだ手をほどいて、ヒナタの華奢な体を抱き寄せた。それからぎゅう、と腕に力を籠めると、嗚咽に震える肩を包んでやった。
「有り難う……オレのために、泣いてくれて……。こんなにあたたかい気持ちになったのははじめてだ……。時々、たまらなく寂しくなってしまって、自分は生涯孤独なのではないかと、怖くなるのだが……。あなたがいれば何も悲しいことはないな。ずっと一緒にいよう……いや、ずっと、一緒にいて下さい」
「もちろん、です……。絶対に離れたりしません……ずっと傍にいます……」
また、唇を重ねれば――。痛みを覚えるほどに辛い涙の濃い味がした。
心が、壊れたかのように苦しくて――。何度もキスを交わしては、拙くも懸命に想いを通わせ合った。
外は相変わらず木枯らしが吹いていて、もうすぐ訪れる白い冬の気配を運んできていた。