2015.08.08更新
2016.08.12修正
<2>
はじめて来たネジの部屋はほとんど物がなく、それがあまりにも殺風景で、ヒナタは思わず、きょろきょろと見回してしまった。脱いだ制服を浴室乾燥にかける間、「これしかないから」と貸してくれた着替えは制服の白いシャツで、ネジは必要以上に物を持たない主義なのかと、些か不思議に思った。
ずっと独りぼっちだったと言っていたことを思い出し、僅かに胸が痛んだ。
「あ、あの……キッチン、お借りしますね。すぐ出来るので、ちょっと待っていて下さい。コウさんの味を、なるべく再現しますので……」
キッチンにも例の如く何もなかった。唯一ともいえる小さめの鍋を借りることが出来たので、そこに少量の湯を沸かし、茶葉を浮かべて弱火で煮立たせた。葉が開いたら、そのままの火加減で牛乳を入れて、温かくなったら火から外して蓋をして……。三分ほど蒸らしてから、悠々濾しながら注ぐ。
果たして、喫茶「サニープレイス」の味に似せられただろうか。ネジはブレンドコーヒーしか注文しないため、今ここで確かめる術はないけれど、独りきりの彼にとって、誰かが自分のために入れてくれたその味は、決して悪くはなかったようだ。どこか安心したような表情で飲んでくれた。
白とグレーの冷たい色をした部屋が、ロイヤルミルクティーの甘い香りに包まれて、ヒナタの柔らかい色みに染められたような気がした。
とてもあたたかくて、ひどく幸せだった。
ところが、じわじわと暖かくなってきたところへ、不意に、ヒナタの目に信じ難いものが飛び込んできた。それは――。
現在とは違う制服を着たネジと、ヒナタが今日はじめて会ったテンテンが、中睦まじく、さながら恋人同士のように寄り添う写真だった。哲学書や参考書一辺倒の本棚に、写真立てにも入れずに、無造作に置かれていたのだ。
せっかくあたたまった心が、瞬く間に冷えてしまった。途端に俯いたヒナタは、徐にマグカップを置いて、ネジの腕にそっと体を寄せた。
繊細な造作とは反対に、思いの外逞しいその腕に、甘えるようにして寄り掛かった。
薄いシャツ越しに伝わる体温と、かつて触れた試しのない柔らかすぎる感触に、ネジの体が、瞬く間にこわばった。
ヒナタが入れてくれた飲み物を零してしまわないよう、続いてマグカップを置いた。
そのまま、ヒナタは何も言わず、ぎゅう、ときつく絡み付いてきて、ネジは困ってしまった。その濡れた髪からは、シャンプーの甘い匂いがいつもより強く香ってきて、それさえもネジの心を刺激して離さない。しかし、引き離すことも出来ずに、暫くぴったりとくっついたまま、なるべく動かないように、ヒナタの感触を意識しないように、何とか自制を利かせていた。
それなのにヒナタは一向に離れようとしないどころか、余計に体をひっつけてきて、常々余裕のネジにも、さすがに限界が近づいてきた。決して越えてはならない一線……。まだ、大切なヒナタを汚すわけにはいかない。
視線を落とせば、普段は長いスカートの下に隠れた白くてふわふわの脚が目に入り、危険を感じたネジは、やっと言葉を絞り出した。
「ヒナタ……少し、離れて……このままでは、ちょっと……」
「嫌です……暫く、こうしていたい……」
……が、やはりヒナタは離れようとしない。
二人きりのこの状況は、どう考えてもまずいと思った。
「駄目だ。どうなっても知らないぞ……。あなたは、もっと自覚した方がいい。ほら……早く離れて……」
「離れたくない……。あなたの隣は私の場所なのに……。誰にも、渡したくないのに」
ふと、ネジの頭に、明るくて元気な幼馴染みの顔が浮かぶ。
そういえばヒナタは彼女に嫉妬したと言っていた。その感覚が分からないネジはすぐさま忘れ去っていたが、なるほど、女の子とはそういうものなのかと、幾らか理解した。
「まだ気にしていたのか。テンテンはただの幼馴染だと言っただろう? ……オレにはあなただけだ。分からないか?」
「……分かりません……ちゃんと、証明して下さい」
ヒナタが言葉を発する度に、腕に当たる柔らかい感触が強調されて、もはや、冷静ではいられなくなってきていた。
「……本当に知らないからな」
その瞳の奥に、静かな熱を滾らせたネジが、ゆっくり、ゆっくりとヒナタを組み敷いてゆく。ネジの背中を滑り落ちた長い髪が、ぴたりとヒナタの肩に触れて――毛先を滴りそうな雨水が、殊の外冷たく感じた。
それから、小さく開いたヒナタの唇に、湿った舌が性急に挿し込まれて、戸惑うヒナタを弄ぶかのように、ぴちゃぴちゃと音を立てて、甘いミルクティー味の小さな咥内を嬲り立てた。
これまで二度、三度と交わしたものとは比にならないほどに熱っぽく荒々しい口づけは、ヒナタの心をいとも容易く駄目にして、息も出来ないくらいに蕩けさせた。
「……っ……ん……」
思わず声を漏らす。
……甘くて甘くて、今にも胸が壊れそうな深いキスに、忙しなく脈打つ鼓動が、全身に、鳴り響くかのようだった。
ヒナタの、艶を帯びた声にネジは余計に煽られて――薄いシャツ一枚に隔てられた、下着越しの膨らみに掌を押し付けては、はじめは遠慮がちに、しかしだんだん制御の利かなくなってゆく手をどうしても止められずに、形が変わるくらいに強く撫で回してしまった。
「……ん……んんっ……」
唇を塞がれていたため、ヒナタはうまく呼吸が出来なくて、次第に、ネジの下で真っ赤に色づいていった。容赦なく絡まり付いてくる舌と、ことさら荒っぽい手の動きに、今にも卒倒してしまいそうだった。
それから、一旦唇を離したネジを恐る恐る見上げれば……、
艶やかで、真っ直ぐな瞳に捕らわれて――。
再び、息が止まるくらいの、甘やかな熱に溺れた。
……どれくらいの時間、咥内を犯され続けていたのだろう。
ヒナタの口の端からは、ネジが飲み込みきれなかった滴が零れ落ち、頬から首筋を広範囲に濡らしていた。尚も明らかに意思を持ったネジの手は、やがてヒナタの、借り物の大きなシャツのボタンに伸びてきて――けれどもヒナタは羞恥のあまり、その動きを力なく制止した。
「ネジ……さん……だめ……恥ずかしい……」
はじめて、下の名前で呼ばれて、蕩けそうな表情で些か涙ぐみながら見上げてくるヒナタに、ようやく我に返った。
ネジはその濡れた唇を手の甲で拭うと、ヒナタを組み敷いたまま、徐に口を開いた。
「随分、性急にあなたを求めてしまった……。もっともっと、大切にしたかったのに……止められなかった……。すまない、大丈夫か?」
「少し、頭を冷やしてくる」とネジは言って、浴室から乾いた制服を取ってきた。そして、乱れたヒナタを隠すようにふわりと乗せると、すぐに部屋を出て、暫くしてから、シャワーの音が聞こえてきた。
床に仰向けになったまま動けないヒナタは、ネジが掛けてくれた制服を抱いて……。はじめて目にした彼の余裕のない表情を思い出し、忽ち侵された心を、どうにも出来ずに持て余して困り果てていた。
いつもは冷静なネジに、あんなにも烈しい一面があるなんて――。ヒナタは両手で顔を覆い、目をぎゅっと瞑って熱が引くのを待った。
少しして、こちらへ向かってくるネジの足音が聞こえてきたので、慌てて体を起こした。着替えは、間に合わなかった。
「まだその姿でいたのか……。自分で貸しておいて何だが、やはり駄目だな……。シャワーを使ってくれていいから、早く服を着て」
ネジはあまりヒナタの方を見ようとしなかった。
顔を背け、如何にも居心地が悪そうにしていたので、ヒナタは彼の言うとおり、シャワーを借りることにした。
脱衣所もバスルームも、まるでビジネスホテルのように生活感がなかった。無機質なモノトーンの空間が、どうにも落ち着かない。思えば男の家でシャワーを借りるなど、元来のヒナタには想像もつかないシチュエーションなのだ。
ところが、その浴室にあるシャンプーやボディソープからは、ネジがいつも纏っている清潔な香りがして、心が少し綻んだ。
シャワーを浴びて、元いたリビングへと戻ると、ネジは、すっかり冷めてしまったロイヤルミルクティーを飲みながら本を読んでいた。ヒナタを見遣り、整然と身に着けられた制服を確認すると、些か安堵した様子で本へと視線を落とした。
ヒナタはなぜか微笑ましくなって、ネジを、後ろからぎゅっと抱きしめた。
ネジはびくんと反応したまま動かなかった。
「あなたのしるしを、洗い流してしまうのは、少しもったいないような気がしました……また、たくさん付けてくれますか? 本当はもっと、くっついていたかったです」
「また、あなたはなんてことをさらりと言ってのけるんだ。それに、随分、甘えん坊だな……。別にオレとしては一向に構わないが、その後どうなるか知らないぞ。それでもいいんだな?」
「今すぐというのは、まだ、心の準備が出来ませんが……。あなたが望むのなら、いつか……。それに私は、あなたとのキスが、とっても好きみたいです」
小さな唇から紡がれる言葉に、ネジは、疼くような胸の痛みを感じた。恐らく、ヒナタが思っている以上にずっと、ネジは彼女に侵されているのだ。
後ろから回されたヒナタの腕をほどき、自分の横に寄り添うように座らせると、その細い肩をゆっくり抱き寄せて――今度は、啄ばむように丁寧に口づけた。そして……。
少しずつ、少しずつ舌を絡めてゆけば、先程は成すがままだったヒナタが、不器用にも、一生懸命に応えてくれた。
二人だけの静かな部屋には、遠慮がちに触れ合う、唇の湿った音だけが響いていて、そのあまりの静けさに、互いの鼓動の音までもが、鮮明に聞こえてきそうだった。
結局その後外へは行かずに、時間の許す限り、いつまでも、想いを確かめ合うようなキスの世界に酔いしれていた。時折り、慈しむようにヒナタの体を撫でるネジの手が、苦しいくらいに胸を締め付けた。出来ることならばずっと、このままでいられたらと、強く願わずにはいられなかった。
――あなたこそが私の喜びです。どんな時も、決してあなたから離れることはありません……。
片時も離れたくはないのだと、迫り来る時間を惜しむかのように……。
ヒナタもネジに手を伸ばして、そっとその体に触れた。
とてもあたたかくて、ひどく幸せな一日だった。