2015.08.08更新
2016.08.12修正
<1>
例に漏れず、ヒナタは今日も礼拝堂にいた。
――あなたこそが私の喜びです。どんな時も、決してあなたから離れることはありません……。
過日、ネジがくれたキスの味を幾度も反芻しては、甘い痺れに酔いしれそうになるのを、あれからヒナタは、いつも必死で抑え込んでいた。
こうして神に願いを乞う間でさえ、その濡れた感触が蘇ってきて――忽ち震え出す心を、どうすることも出来ないのだ。
「主よ、人の望みの喜びよ」と題された、教会カンタータが響く堂内は、生徒の有志によるパイプオルガンの演奏と、声楽部のコラールによって彩られている。
ここのところ、ネジとの約束がある土曜日の放課後に、決まってここを訪れるヒナタは、学園の敷地内にある小さな教会の維持運営に尽くす献身的な生徒たちと、すっかり顔馴染みになっていた。
しかし彼女たちは、ヒナタを遠くから控えめに見守ってくれているだけで、特段詮索するようなことはしなかった。
ヒナタにとってそこは、とても居心地のよい場所だった。
とりわけ、優しく。至極柔らかなその音色が鳴り止む頃――ヒナタは、ネジがそろそろ来るであろう正門へと向かう為、静かに礼拝堂を後にした。
「いつもお待たせしてしまって、ごめんなさい……」
早くに着いていたのだろうか。ネジは学園沿いの道端で、本を読み耽っていた。そして、ヒナタの声を耳にすると、ゆっくりと視線を上げて……。
いつもの、ヒナタの大好きな、穏やかな笑顔を向けてくれた。たったそれだけのことで、ヒナタの心は瞬時に締め付けられ、今にも溢れそうになった。
……この人が、好き。どうしようもないくらいに――。
会う度に募る狂おしいほどの想いは、ヒナタを縛り付けては支配して、そう簡単には解放してくれそうになかった。
「……今日はどこへ行こうか。あなたさえよければ、少し駅前の方に付き合ってくれないか?」
「もちろん。あなたとならどこへでも行きます。……でも、それならここまで迎えに来てくださらなくても良かったのに……わざわざ、悪いわ」
「なんだ……そんなこと、どうってことないのに」
「海側にあるあなたの高校と、山の手にある私の高校の、ちょうど中間に駅があるのですよ? お互いが授業を終えて向かったら、十五分は短縮できて、少しでも早く会えるんじゃ……って、私ったら何言ってるんだろう……! 今のは、忘れて下さい……!」
いつだって一生懸命なヒナタは、余裕のネジを目の前にすると、果然自分だけが盛り上がっているようで、どうにもそれは独りよがりに思えて、些か寂しくもあった。
「また、本屋さんですか?」
「ああ……まあ、そんなところだ」
「熱心ですね」
「一応、受験生だからな」
静かに言葉を交わしながら、手を繋いで坂道を下る。フレンチテイストの花屋やアパレル店、ナチュラルベーカリーが軒を連ねるサイドストリートを抜ければ、次第にステンドグラスの時計台が見えてくる。二人が慣れ親しんでいる、いつもの街の風景である。
客と店員という間柄だった頃は、こんな日が来るとは露ほども思わなかった。つくづく、必然とも云うべき偶然の巡り合わせに感謝する。
彼とのそんな大切な時間を、噛みしめながら歩いていると……、
あと少しで商店街に差し掛かろうかという頃、明るくて溌剌とした、ヒナタの知らない声が響いた。
「あ! ネジ! あんた、いつの間にそんな可愛い子と……!」
前方より聞こえてきたその声の主は、茶色い髪を左右でお団子に束ねて、ヒナタとは比にならないくらいに短いスカートのセーラー服を着た、とても華やかで、可愛らしい顔立ちの女の子だった。
「ちょっとちょっとー、あんたも隅に置けないわねー」
「テンテン……お前は、相変わらずだな」
ネジの腕をバシバシと叩いて囃し立てる姿は、その見た目とは裏腹に、ひどく豪快であった。ヒナタは自分の知らないネジを見たような気がして、心が端無く沈んでしまった。
だがテンテンという少女はそんなヒナタの様子にもお構いなしで、次はこちらにも目を向けてきた。
「ねえねえ、その制服、山の手にあるお嬢様学校のものでしょう? あなた、ものすごく清楚で可愛いのに、なんであえて仏頂面のネジなの? ……あ、決して悪い奴じゃないのよ。ちょっと可愛げはないかもしれないけど」
「おい……。テンテン、うるさいぞ。この人はお前とは違うんだ。言葉を慎め」
「ひどーい! あんた、私にだけはいつもそんな態度なんだから! あ、ねえねえ、あなた名前何ていうの? 私はテンテン。ネジの幼馴染みよ。よろしくね」
おとなしいヒナタは、初対面で朗らかに話し掛けてくるテンテンに少々面食らってしまった。が、大切なネジの友人を尊重しなければと、人見知りの自分を圧して、精一杯の笑顔で応えた。
「あ、あの……わっ私は、日向……ヒナタ、です。聖母女子学園高校の二年生です。こ、こちらこそ、よろしく、お願いします……」
いつにも増してしどろもどろのヒナタを、ネジは些か心配そうな表情で見守っていた。しかしテンテンは尚も続けた。
「か、可愛いーっ! 可愛い声っ! しかもネジと同じ苗字なの? 全然違うのにねー。それにしても本当に疑問なんだけど、あなたみたいなお淑やかな子が、なんでこんな奴に惚れたの?」
「えっ? そっ、そそそれは……!」
真っ赤になって俯いてしまったヒナタを、ネジは庇うように後ろへとやった。
「お前……遠慮というものはないのか。初対面なんだぞ」
「はいはい、悪かったわよ。あ、ヒナタちゃん、お邪魔してごめんね。こいつ、憎たらしい奴だけど、本当は優しいところもあるから、仲良くしてやってね」
慌ただしく去っていくその後ろ姿を、二人は、無言で見送った。
……暫くして、どこかばつの悪そうな顔をしたネジが、ヒナタを気遣ってか、穏やかに話し始めた。
「……すまない。あいつはいつもああなんだ。決して悪気はないから、気にしないでくれ」
心なしか不機嫌そうなヒナタは、緩やかな笑みを浮かべて、こくりと頷いた。
「はっ、はい……それは、全然気にしていませんが……随分、仲が良さそうで……少し、妬いてしまいました……」
思いもよらないヒナタの言葉に、ネジは一瞬目を丸くして、それから思わず笑ってしまった。
案の定、ここでも余裕のネジに、ヒナタは泣きたくなった。
「馬鹿だな……。そんな必要ないのに。ただの幼馴染みだよ」
すっかり不貞腐れたヒナタを連れて、ネジは必要な本を買い求めた。用を済ませると、レジの向こう側で俯いて待っているヒナタの手を取り、ゆっくりとその場を後にした。
……ネジの前ではいつも饒舌なヒナタは、今日は黙りこくってしまっていた。
言葉を交わすことのないままに、商店街を越えて、海の方へと向かった。土曜日の午後ということもあり、たくさんの人がそこを訪れていた。空模様はあまり芳しくなくて、普段は青と藍のツートンカラーの景色が、濁った灰色に染められていた。あたたかみのある煉瓦倉庫の色みも、何故だか凍えたように見えていた。
「……ヒナタ」
はじめて下の名で呼ぶ。そんな些細なことで機嫌が直るとも思えないが、名前を呼んで話し掛けるという行為には、親愛を示す意味があるのだと、何かの本で読んだことがある。
果たして、効果のほどは定かではないが、ヒナタはやっとネジの方を見てくれた。
「……あ、あの……」
ようやく、ヒナタが口を開いた――。かと思えば、唐突にぽつぽつと落ちてきた雨が、瞬く間に勢いを増してしまった。二人は一瞬でびしょ濡れになった制服を引き摺りながら、煉瓦倉庫の屋根の下へと駆け込んだ。
十月の雨は驚くほどに冷たくて、涼やかに吹く秋風に小さく震えるヒナタに、ネジは制服の上着を脱いで、肩から掛けてやった。
「オレのも濡れているからあまり意味がないかもしれないが……」
「あ、ありがとうございます……」
時々耳にする「バケツをひっくり返したような雨」というのは、こういう雨のことを言うのだろう。そのくらい激しい雨だった。
この手の雨は往々にしてすぐ止むものではあるが、止んだところで、濡れた服や髪はそう簡単には乾かないだろう。
「すっかり降られてしまったな……どうする?」
「風邪を、引いてしまいますね……でも、まだ夕方にもなっていないのに、帰りたくない、です……せっかく、一緒にいられるのに……」
途切れ途切れに紡ぎ出された言葉があまりにも可愛かったので、ネジの頬が、思わず緩んだ。
「……少し先のバス停からなら、オレのマンションまで行けるが……。濡れた服を一旦乾かしてからまた出てくるか?」
ネジの言葉に他意など無かったものの、ヒナタにはそれ以上の意味を量るだけの余裕はない。
むしろ、ともすれば我が儘とも取られかねない願いを聞いてもらえたことが、ただただ嬉しかった。
「い、いいのですか? あ、あの……も、もしご迷惑でなければ、お言葉に甘えても……」
最後は消え入りそうになった返事を承けて、いつしか霧雨へと変わった空合いの中、ヒナタの手を引いて、海辺の停車場へと向かった。
レトロな佇まいのダークグリーンのバスに乗り込むと、雨に降られた制服で座席を濡らさないよう、注意を払った。最寄りのバス停へは十五分ほどで辿り着き、そこから歩いてすぐの、濃いグレーのマンションがネジの住む場所だった。
しかして向かい側にあるコンビニを目にしたヒナタが、突拍子もないことを言い出した。
「あ! あの……ご自宅に、紅茶の茶葉と牛乳はありますか?」
「紅茶なら、眠気覚ましにアッサムティーをストックしているが、牛乳は飲まないからないな。何故だ?」
「コウさんに、ロイヤルミルクティーの淹れ方を教わったんです。体が温まるから作ってみようかと思って……だめですか?」
「いや……別に、構わないが」
「良かった……それでは、買ってきますね」
「……一緒に行く」
低温殺菌がいいのだと、そんなことをぶつぶつと口にしながら牛乳を選ぶヒナタを、ネジは、隣で微笑ましく見守っていた。尚も濡れたままの二人は、長居したわけでもないのに、冷蔵庫の陳列棚から出る空気にすっかり冷え切ってしまって、買い物を終える頃には、寒気がするほどになっていた。
「早く行こう、本当に風邪を引いてしまう」
「……はい」