2015.08.02更新
2016.08.07修正
小さな礼拝堂で、ヒナタは祈りを捧げた。
――どうかこの幸せが、いつまでも、いつまでも続きますように。
恋をして初めて知った焦がれるような想いは、たくさんの柔らかな喜びを連れて来ると共に、やがて言いようのない不安と恐怖をもたらして、今のヒナタをきつく縛り付けていた。
午前中で授業が終わった土曜日の放課後、海側にあるネジの高校から、山の手にあるヒナタの高校へ、彼が迎えに来る約束になっていた。ここから、更に山側へと上ったところにある、遠い昔に異国の人々が居留していた洋館を巡ろうと、先日、ネジが誘ってくれたのだ。
彼の学校からは、恐らく、二、三十分はかかるはず……ヒナタは何度も長い髪を梳かし、今季おろしたばかりの冬服を鏡の前で整えていたが、どうしても落ち着かず、敷地内にある小さな教会へと足を運んだのだった。
海を臨む高台に、せり出すようにして立つそのレトロな建物は、木の深いブラウン、赤い布が真っ直ぐ敷かれた通路、祭壇の奥にあるガラスの窓から見える空の青、壁を飾るステンドグラスの花模様が綺麗な、とても神秘的な場所だった。
――心を尽くすのだ。汝の心が燃え上がり、愛を育み、愛を、携えるように……。愛によって、もう一つの心が、温かい鼓動を続ける限り。
――汝に心開く者あらば、愛の為に尽くせ。どんな時も彼の者を、喜ばせよ。どんな時も悲しませてはならない。
「おお、愛しうる限り幸せ!」と題されたそんな詩を、心の中に描きながら。ヒナタは静かに、ただ静かに祈り続けた。
……幸せなのだから、それで良いではないか。いつだって渇望しているというのに、手に入れた途端に喪うことを畏れるなどとは、人間とは、本当に愚かなものだと、己を戒めながら……。
それでも、自ずと湧き上がる感情をどうすることも出来ずに、胸は痛む一方だった。
徐に、鞄から本を取り出した。
ネジがくれた『幸福論』には、未だ貰った時のまま、茶色いカバーが掛けてあって、お守りのように、いつも大切に持ち歩いていた。
もうすぐ彼が来る――怖くて、でもすごく嬉しくて、心が弾んだ。
そろそろネジが着く頃かもしれない。まだ少し早いような気もしたが、秋も深まり、ぐんと冷たくなった空気の中、彼を待たせてはいけない。
ヒナタは、早々に礼拝堂を後にして、校門へと向かった。
……ネジはもう来ていた。店の外では初めて見るかっちりとした冬服姿に、思わず目を奪われてしまった。
その黒い詰襟の学生服を、少しも着崩さずにきっちりと纏ったネジもまた、白いブラウスと紺色の上下の、清楚な冬服に身を包んだヒナタに、些か面食らっている様子だった。
「ごめんなさい……お待たせしてしまって。寒くはなかったですか?」
「いや……。今、着いたところだから……。まずはお昼にしようか? 何が食べたい?」
ふわりと微笑んでくれたネジに、ヒナタも微笑み返した。
これ以上ないほどに幸せだった――。
しかして、ヒナタと同じ制服を着た学生がいないのを確認すると、ネジが手を繋いでくれた。
ネジの手はヒナタのそれよりもずっと大きく、包まれているとひどく安心した。
それから、坂の途中にある、白とベージュを基調としたナチュラルなカフェで、サンドイッチを食べることにした。
各テーブルにはグリーンが飾ってあって、
「When You Wish Upon A Star」「Over The Rainbow」「Tea For Two」
といったジャズスタンダードが流れていた。
決して雰囲気重視のポピュラーミュージックではないが、アルバイト先のお堅いマスターには好まれない店だとヒナタは思った。
「いつもの硬派な喫茶店もいいけれど、こういうお洒落なお店もいいですね……。もしコウさんに言ったら浮気だって怒りそうだけど。ふふ……」
「あなたはマスターに随分大事にされているようだが、どういう関係なんだ?」
「コウさんはね、私が幼い頃に亡くなった母方の、遠い親戚にあたる人なんです。父とは疎遠になっているけど、私のことは昔から可愛がってくれていて……。それで、彼の夢だったお店で、アルバイトをさせて貰っているんです」
「ああ、そうか……あなたも、母親を知らないんだな」
ネジは無闇に詮索するようなことはしなかった。
その控えめな気遣いを、ヒナタは嬉しく思った。
昼食を済ませると、さらに坂を上り、山の手の頂上付近に並ぶたくさんの洋館を見て回った。アンティークな家具や調度品の数々を目にし、終始「可愛い!」とはしゃぐヒナタを、ネジはいつもの大人びた笑みを湛えて、穏やかに見守っていた。
楽しい時間は瞬く間に巡り、いつの間にか、辺りは夕焼けに包まれていた。
旧居留地の中心にある煉瓦造りの広場では、野外コンサートが催されるようで、曲目は、ヴァイオリンが主役の、リストの「愛の夢第三番」からのクラシックメドレーとのことだった。
「ジェラートが食べたい」と言うヒナタをそこで待たせて、リクエストのバニラ味を手に持ったネジが戻って来た。ヒナタが食べ始めてから暫くして、演奏がスタートした。
リストが遺した三つの夜想曲の中で最も有名なその曲は、ヒナタが礼拝堂で思い浮かべていた愛の詩を題材にした曲だった。しかし彼女がよく知るシンプルなピアノ独奏のものとは違って、ヴァイオリンの切ない音色と、甘美な旋律を彩る、フルートとヴィオラ、チェロとの四重奏が、胸を刺すほど美しかった。
夢中になっていたヒナタは、白い雫が指を滑り落ちようとしていても、ジェラートが溶け始めていることに、まるで気付かなかった。
「ほら、耳を傾けながら、ちゃんと口も動かして」
「も、もう……子供じゃないのに」
ネジに諌められて、小さな舌でぺろりとジェラートを掬うヒナタはやはり、幼い子供のように見えた。
コンサートが終わる頃には、辺りはすっかり暗くなっていて、高台から見下ろす港町の夜景はまるで、満天の星空のようだった。
そろそろ帰ろうかと手を取ってくれたネジの隣、「帰りたくない」という言葉を飲み込んだヒナタは、悲しい気持ちを悟られぬよう、ほんの少し俯いて歩く。すると……。
「ちょっとだけ遠回りして海沿いに帰るか……時間は大丈夫か?」
願ってもないネジの言葉に、途端に表情を輝かせたヒナタは何度も頷いた。
そんな恋人の姿を、切ないほどの優しさに満ちた笑顔を以て、ネジは穏やかに見守っていた。
先日、共に乗った赤い観覧車の対岸に着いた二人は、控えめにライトアップされた煉瓦倉庫の前の海辺の手すりに、ほどいた手を置いた。ネジは隣のヒナタをちらりと見遣り、それから海の方へと視線を向けて、ゆっくり話し始めた。
「あの喫茶店は、マスターの夢だったと言っていたな。実はオレにも夢があって……オレは幼い頃からずっと独りで過ごしてきて、その寂しさを埋めてくれた、本に携わる仕事がしたいんだ。その為には地元の大学よりも都会の大学の方が有利だから、高校を出たらこの港町を出て、あなたとは離れることになる。かといって、あなたとの関係を終わらせるつもりなど、さらさらないのだけれど……」
……視線を戻して様子を窺えば、ヒナタはひどく悲しそうな顔をしていた。
暫しの沈黙ののち、冷たい手すりをぎゅっと握り締めたまま、ヒナタが徐に息を吸って、口を開いたので、今にも泣き出しそうな彼女に目線を合わせて、ネジは努めて優しい表情で促した。
「わっ、私……男の人と、こうやって、お、お付き合いすること自体が初めてで……遠距離恋愛なんてもちろん経験がなくて……。物語の中でしか見たことがないけど……大抵うまくいかなくなって、別れてしまうことが、多くて……。日向さんは恰好良くて、頭もよくて、放っておかれるわけがなくて……。私みたいな、地味で目立たない女の子なんて、忘れてしまうんじゃないかな? そっ、それに……物理的に距離が開いてしまったら、心も離れてしまうんじゃ……。だいたい私には、夢もないし、魅力もないのに……」
「そんなの、やってみないと分からないだろう? あなたにとっての『好き』とはその程度の気持ちなのか? それから、あなたに魅力がないなんてとんでもない。オレの方が、心配なのに。あなたなら、オレと離れてもいくらでも相手がいるだろうから。それに、夢なんて皆が皆、持っているものじゃない。一年後あなたもやりたいことを見つけて、オレのところに来ればいいだろう? ちゃんと待ってるから……」
ネジの言葉に、ヒナタの表情が幾分和らいだ。
……些か潤んだままの瞳に映る、対岸の光が、とても綺麗だった。海の方を向いていた体を、ネジへと転換すると、笑顔を取り戻したヒナタが問う。その表情は、壊れてしまいそうなほどに儚いものだった。
「……本当に?」
「ああ、もちろんだ。嘘をついてどうする」
すかさず応えると、ヒナタは一度俯いて、少々考えたのちに、頬を薄いピンク色に染め、搾り出すようにして言葉を紡いだ。
「あなたの邪魔は絶対にしません……私は、あなたの夢を心から応援します。でも……時々でいい、私のことを考えてくれますか? 春までの半年間……少しでもいいから……できる限りでいいから、傍にいたいです」
あまりにも息苦しくて――どうしようもなくなって、ネジは、ヒナタを思い切り抱き締めた。息が止まるくらいに、きつく、きつく力を籠めた。
ヒナタは、不意の出来事に、収まりかけていた涙を、思わずはらりと零してしまった。
……まだ二人で過ごした時間は短いのに、ネジのことが好きで好きで、その気持ちは、すでに行き場をなくしてしまいそうなほどに溢れていた。
「……オレだってあなたと離れるのは寂しいんだ。泣かないで……今は、まだ一緒にいられるから」
ネジはいったん体を離すと、ヒナタの肩にそっと手を置いて……ゆっくり、ゆっくりと顔を近付けた。しかし今にも唇が触れそうになったところで、ヒナタは真っ赤になって、顔を背けてしまった。
「ご、ごめんなさい! わっ、私、こんなの初めてで……どうしていいか分からない……もし、変だったら、恥ずかしいから……」
俯いたヒナタの顎を優しく持ち上げると、ネジは少し熱を湛えた瞳で微笑みかけた。
「あなたはいつだって可愛いから、大丈夫……。ほら、目を閉じて? オレはもう抑えられそうにない」
そんな風にねだられて断れるはずもなく――。バクバクと高鳴る鼓動を息苦しく感じながら、ヒナタはぎゅっと目を閉じた。緊張のあまり全身が小刻みに震えていた。ネジは、身を固くするヒナタの髪にそっと指を絡めると、片方の手を、背中に回して……軽く触れるだけの、控えめなキスを落とした。
その小さな唇は柔らかくて、痺れるほどに甘かった。そして尚も震えたままのヒナタを、今度は、特別ふわりと抱き締めた。
「オレたちはまだ十代だ……。これから先、いくらでも時間はある。何十年という長い人生の中のたった一年だと思えば、別に大したことはない。その後は飽きるくらいずっと一緒にいればいい」
「あっ、飽きません……飽きるはずがありません。今だってこんなに好きなのに……」
ヒナタのくれる言葉が嬉しくて、もう一回、もう一回と、縋るように口づけた。
それから、熱くなった頬を伝う涙を、指で拭ってやった。
「……あなたを好きな気持ちはオレだって全然負けてない。だから何も心配しないで」
そう言ってネジが頭を撫でると、ヒナタはようやく泣き止んでくれた。
「せっかくなら笑って傍にいよう。どんなあなたも好きだけど、あなたには笑顔が一番似合うのだから」
「はい……必ず笑って……笑顔で、あなたの隣に……」
海の向こう側にぼんやりと浮かぶ夜景に照らされながらの初めてのキスは、二人の心に、柔らかな明かりを灯してくれた。
互いが互いを想い合える尊さに、これ以上ないくらいの幸せを感じながら……また、手を繋いで、少なくなってゆく時間を惜しむように、ゆっくり、ゆっくりと海辺を歩いた。
このままずっと一緒にいられればと、祈りにも似た願いを胸に抱きながら……また、微笑み合い、少しずつ暗くなってゆく街に逆らうように、明るい未来に望みを懸けた――。
――どうかこの幸せが、いつまでも、いつまでも続きますように。
視界の端には、オレンジ色の光を受けた藍色の海が、静やかに揺らめいていた。