2015.07.31更新
2016.08.07修正
小さな港町の硬派な純喫茶「サニープレイス」は、上品なマホガニーブラウンが基調の内装、マスターのコウのこだわりのクラシック音楽――特にピアノ独奏曲との落ち着いた調和を好む、紳士な中高年客に愛されていた。
だが、ここには唯一ともいえる若い常連客、高校三年生の日向ネジがいた。
彼と一つ年下のウェイトレス日向ヒナタは、去る夏の終わりの雨の日、客と店員というよそよそしい関係を、少しだけ踏み外したのだった。
「いらっしゃいませ……、あっ!」
もはや冷ややかなほどに整った顔に相応な、大人びた笑みを湛えたネジが、例によって学生服のままでやって来た。何も変わらぬ、慣れ親しんだ風景である。これまでと違うことといえば、先日店の外で初めて言葉を交わして、その存在を互いに意識し合っていたことを認識した上での再会であるということだろうか。
そわそわと、終始落ち着かないヒナタに対して、ネジは至って落ち着いた様子で、まるで事も無げな態度を貫いている。しかし彼が気になって仕方のないヒナタは、つい余分に話し掛けてしまって、そのイメージにそぐわぬ雄弁な口振りを、ネジに笑われてしまうのだった。
「今日のレコードは、ショパンの二つ目の練習曲集です。今流れているのは私の一番好きな曲、十九番の『恋の二重唱』です。でも……、聴いて下さい。これを恋の歌とするなら、決して叶うことのない悲恋の歌、だと思いませんか?」
「……えらく、繊細なんだな。それにあなたがそんなによく喋るとは思わなかった」
近頃の二人が纏う、淡い希望に満ちた空気からすれば、そのメランコリックな旋律は、確かに重苦しいものだった。
しかし経験のないネジには、そもそも悲恋とはどういうものなのか、さっぱり分からないのであった。
「あまりぴんと来ないが、あなたは経験があるのか?」
「え……? な、何のですか?」
「いや、だから……悲恋」
……ヒナタは持っていたトレーを落として、慌てて拾い上げた。
「なっないです! でも、小説とかに重ねて、浸ってみたりしていました……って、何だか私、変な人みたいですね……日向さんは、いつも何の本を読んでいるんですか?」
ネジの本には書店の茶色いカバーが掛かっていて、これまでその中身を窺い知ることが出来なかった。実は、ヒナタはずっと気になっていたのだ。彼をいつも夢中にさせている本とは一体、どんなものなのかが。
ヒナタの問いを承けて、ネジは穏やかな手つきでカバーを外し、オレンジ色の文庫本の表紙を見せてくれた。
「今読んでいるのは、アランの『幸福論』だ。オレはどんなことでも、つい難しく考えてしまう癖があってな。……ほんの少しでも心を軽くするために、哲学書を読んでいるんだ」
「て、哲学書ですか? エッセイや恋愛小説ばかり読んでいる私とは大違い過ぎて……それにしても『幸福論』だなんて……日向さんは、幸せではないのですか?」
ヒナタの独創的な思考は面白かったが、同時に可愛らしくもあった。きっと何の穢れもない、無垢な人なのだろう。微笑ましく思った。
「幸せじゃないとは言い切れないな……まあ、だからといって幸せとも言い切れないが。ただ、これだけ言えるのは、この世に生きる以上は出来るだけ幸せでありたいと思うかな」
「……難しい。難しすぎます。あなたの精神世界は、私のぼやっとしたものとは違って、相当に広くて深いのでしょうね」
予想の遥か上をいく解釈に、またしても笑みが零れる。
ヒナタを面白い人だと思ったのは、どうやら間違いではなかったようだ。
珍しく他に客がいないのをいいことに、随分長い間話し込んでしまった。しかし「また店の外で会いたい」という核心には、互いに触れることが出来なかった。
それからもあと一歩が踏み出せず、二人きりになるきっかけを掴めぬままに、時間だけが着実に過ぎてゆく――。
季節は巡り、まだ暑さの残る初秋から、本格的な秋へと移り変わろうとしていた。
……そんな折の、ある晴れの日の放課後のことだった。
アルバイトが休みだったヒナタは、以前ネジが読んでいた本を、大きな書店へ探しに行くことにした。冬服への衣替えまで、まだ一週間ほどある。制服の半袖のワンピースだけではもう肌寒いので、紺色のカーディガンを羽織って学校を出た。
しかして坂道を下り、山の手から駅構内を抜けて海側の商店街に向かう。いつかネジと話したステンドグラスの時計台を越えてアーケードの下を歩いてゆけば、この界隈では最大の、三階建ての書店があったはず。
そこならきっと目当ての本を見つけられることだろう。
幾つかの高校の最寄り駅にある商店街には、決まって、多くの学生が行き来している。
だが、ネジの通う凪高校の制服は至ってシンプルなものなので、他校の生徒との見分けがつきにくい。まさかここで鉢合わせするとも思えないが、似た後ろ姿を見つけたら、つい目で追ってしまう。
またあの人に会いたい。もっと知りたいし近づきたい――。最近のヒナタは専ら、そんなことばかりを考えていた。
「幸福論……幸福論……」
書店に着くと、無意識のままに呟きながら、哲学書のコーナーを真剣な面持ちで回る。
ヒナタには専門外の本を探すのに、かなり手間取ってしまった。書棚の背表紙を夢中で追っていた為、その時のヒナタは、全くと言っていいほどに周りが見えていなかった。先ほどからずっと自分の姿を捉える人物に、ちっとも気づく様子を見せない。
変わらず、本のタイトルをぶつぶつ口にしながら、一冊一冊を、華奢な指先で丁寧に追い続けていた。
「探しているのはこれか?」
不意にヒナタの目の前に差し出されたのは、見覚えのある茶色いブックカバーだった。
「……そこにあるのは単行本の方だ。ハードカバーだと女の子には重くて読みにくいだろう? あなたさえ良ければオレの文庫本をあげるが……」
……手渡された本へようやく手を添えると、声の方へと恐る恐る向き直った。
すると、
「遠慮しなくていい」
……ここのところ会いたくてたまらなかった人が、いつものポーカーフェイスを浮かべてすぐ隣に立っていた。涼しげな顔をして、ヒナタを真っ直ぐに見下ろしていた。
「あ、……ああ……あ……」
彼のことを少しでも知ろうと、読んでいた本をこっそり探していたところを、よりによって本人に見られてしまった――。
ヒナタは恥ずかしさのあまり、言葉を発することが出来なくなった。
「何だ? その、恐怖に戦慄いたかのような反応は。何か不都合でもあったか?」
尚も凛と響く、低くて鼻に掛かったその声は、間違いなく、聞きたくてたまらなかった声だ。しかし、決して今この瞬間に聞きたかったものではない。
ヒナタは息苦しさを覚えると共に、耳までを濃いピンク色に染めた。
「ち、……ち、違うんです! ああ、あ、あなたのことが気になって、あなたが読んでいた本を真似しようとしたとか、そういうことではなく……! た、ただ私も、幸福とはどういうものなのかが知りたくなって……!」
慌てていたので、墓穴を掘っていることにも気づかずに捲し立てた。
……直後、ネジのポーカーフェイスが崩れた。
「それは残念だな。オレは、あなたのことが気になって仕方がないのだが……。もしや一方通行だったのか?」
「えっ……? え、えぇっ?」
「いや、そんなに驚かなくても。オレが怖いか?」
「いっ、いえ……あ、あ、あの、こっこれ、ほっ本当に、頂いてもっいいのですか?」
「もちろん。オレはもう読んだから」
「あっ、あ、ありがとう、ごご、ございますっ!」
ずっと挙動不審なヒナタが可笑しかったのか、ネジはついに吹き出してしまった。
初めて見た彼の本気の笑顔は、普段の大人びた表情とは違って、随分幼く見えて、もはや可愛いとさえ思った。
些か平常心を取り戻すと、ネジが手に持っている、会計前の本に目がいった。それは、都会にある有名大学の赤本だった。参考書も数冊手にしていていたことから、彼は今まさに受験生で、遠方の大学を目指していることが窺えた。
最近知ったことだが、ネジは一つ年上の高校三年生なのだ。きっと冬の本番に向けて、最後の追い込みに勤しんでいる時期なのだろう。
「ところで、あなたはこれから何を?」
「……あっ、こ、この本を、どこかで読もうかなぁ、なんて……。えっと、日向さんは、お勉強ですか?」
「いや……、今日の勉強は終わって、これは明日からの分なんだ。もし良かったら、息抜きに、付き合ってくれないか?」
「……はっはい! ももっもちろんです!」
しどろもどろのヒナタを、心底微笑ましく思いながら、波止場の方へと向かった。そこから見える夕陽は、格別に綺麗だから――。これまで独りで見ていた景色を、ヒナタにも、見せてあげたくなったのだ。
時折り振り返りつつ、先へ先へと進むネジを数歩下がって追いかけるヒナタの構図はまるで、幼い兄妹のようだった。
二人はどことなく雰囲気が似ていたので、道行く人はもしかしたらそう思ったかもしれない。
商店街を抜けて大きな通りを渡れば、すぐそこは海だった。
船着場の近くには小さな赤い観覧車があって、その下には、小ぢんまりとした遊園地が広がっていた。
「……あれに乗ってみたい」
一見クールに思われるネジの、その子供のような発言を承けて、ヒナタの緊張も幾らか解けたようだった。
「お好きなんですか? 観覧車。イメージにないですね……。でも可愛い……」
「……オレは母を知らない上に、幼い頃に父も亡くして、きょうだいもいなくてずっと孤独だったから……。ああいうのに、乗ったことがないんだ。今日は、晴れて夕陽が綺麗だから、あなたと乗ってみたい。……駄目かな?」
どうやらネジは、ヒナタには到底知り得ない、暗い過去を抱えているようだった。しかしそんなことはどうでもいい。今、目の前にいる彼の、ささやかな願いを聞いてあげたい――。それにどんな過去だっていい。もっと彼のことが知りたい。
……ヒナタは可能な限り、精一杯の笑顔で答えた。
「駄目な訳がないでしょう? 私はもっとあなたとお話がしたい。どこでもいいから一緒に居たいです」
「……良かった」
ネジが儚く微笑み返してくれたのを承け、胸が強く締め付けられた。行き場のない苦しさに、かつて経験したことのない痛みを覚えた。
平日の夕方だったからか、人はまばらだった。ほぼ貸し切り状態の観覧車へ、ゆっくりと乗り込んだ。やや小さめのゴンドラには格子窓が付いていて、山の手から海側へと吹き下ろす風が、外へ抜ける仕組みになっている。
九月も後半の秋風は相当に冷たくて、ヒナタは思わず身震いをした。
「……大丈夫か? あなたはまだ夏服なんだな。うちは、指定の制服ならばいつ何を着ても自由だから……」
「だ、大丈夫です、ありがとうございます……。でもそういうあなたこそ、随分薄着ですよ? あたたかくしておかないと風邪を引いてしまいます」
……そうだった。ネジもまた、長袖のシャツ一枚という出で立ちなのだ。
おずおずと心配そうに見上げてくるヒナタを見下ろしていたら、何故だか急激に、からかいたくなってしまった。二人で向かい合って座ればぎゅうぎゅうに思えるほどのゴンドラで、四分の一辺りまで上ったところで、ヒナタの隣に移動してみた。金属製の冷たいシートは、二人で並べば窮屈過ぎるくらいだった。
「きゃっ……! あ、あの……、えっ?」
「……いや、本屋で会ってから、あなたがあまりにも可愛かったからつい。それに、あたたかくしておかないと駄目なのだろう? こうやってくっついていれば、寒くないかと思って」
制服の、薄い生地越しに腕と脚が触れた。そこから伝わる少し高いネジの体温に、今にも卒倒してしまいそうだった。緊張のあまり震えるヒナタを気遣ってか、ネジはそれ以上、距離を詰めることしはなかったが……。
それでも十分過ぎるほど、ヒナタの鼓動はうるさいくらいに脈を打っていた。
遠慮がちに寄り添ったままで、さらには無言のままで頂上付近まで来てしまった。ようやく少しの余裕ができて外を見遣れば――オペラピンクからモーヴ、ブルーへのグラデーションを描く空が息を飲むほどに綺麗で、思わず涙が出そうになった。
「……綺麗。この青みがかった夕焼けは、秋の色ですね……本当に綺麗です」
二度と同じ色に染まることのない空を、こうして共に見られる喜びを感じながら、ヒナタは、ふと先刻のネジの言葉を思い出した。ずっと、孤独だったということ。
これまで、彼はこんなに綺麗な景色を、いつも独りで見てきたのだろうか。胸が、ひどく痛んだ。
「あの……過去、あなたに何があったのかは分かりませんが……独りで寂しい時は、私でよければ、お傍にいさせてもらえませんか?」
……緩やかに沈みゆく太陽に、ピンク色に染められたヒナタの顔は、とても悲しそうに見えたようだった。
ネジはそっとヒナタの手を取って、慈しむように、指を絡めた。その小さな手は、幾分冷たくなっていた。
「……それは、どういう意味だ? はっきり言うが、オレはあなたのことが好きだ。よく知りもしないくせに、と思うだろうが、あの店には随分長く通って、あなたの人柄や、色んな客への細やかな心配りをずっと見てきた。そして、ここ最近たくさん話すようになって、その優しさを、独り占めしたいと思うようになった……こんな気持ちを味わったのは初めてだけど、多分、これが『好き』という感情だと思うんだ」
ネジは何でもないことかのようにさらりと言ってのけたけれど、ヒナタにとっては飛び上がりたいくらいに嬉しい言葉だった。繋いだ手に少し力を入れて、浅くなった呼吸をゆっくりと整えながら、ヒナタは懸命に、言葉を紡いだ。
「多分……いえ、確実に、私もあなたのことが好きです。ここのところあなたのことばかり考えてしまって……何故だか気になって気になって、仕方ないんです……私も、初めてで少し戸惑っていますが……」
勇気を出して、ネジの肩に頭を預けた。
ネジは一瞬体を強張らせたが、すぐにヒナタの方へと頭を傾けてくれた。
まるでこうなることが決まっていたかのように急速に想いを通わせ合った二人は、触れ合う腕や絡めた指から伝わる体温を互いに感じ合いながら、この上ない幸せに浸っていた。
ずっと前から同じ場所、同じ時間で少しずつ交わっていた二人の物語は、今ようやく動き始めたのだ。
狭い観覧車の中で繋いだ手をほどくことなく、最後まで握り締めていた。風が冷たいことなど忽ち忘れて、少し熱いくらいだった。十分間の空の旅は瞬く間に終わってしまったけれど、二人で過ごす時間は、決して終わることなく巡ってゆけばいいと、心から願う――。
その日の帰り道は、さらさらと流れる秋風が、とても心地よかった。