2015.07.25更新
2016.02.14修正
日向ネジは些か変わった男であった。
異国情緒溢れるこの港町では、クラシカルな様相を重んじる純喫茶は、真新しく洒落たカフェに圧されて、ゆっくりと、しかし着実に淘汰されようとしている。
それでもまだ親しみのあるレトロな趣を愛好する者は少なからずいて、そのほとんどが中高年であるにも拘らず、十八歳の高校三年生である彼は、市街地と波止場を結ぶ商店街の途中、路地裏の奥にひっそりと佇む、喫茶「サニープレイス」の常連だった。
いつも決まって一人で店を訪れては、熱いブレンドコーヒーを片手に、無表情で本を読み耽っていた。
「いらっしゃいませ! いつもご来店ありがとうございます。ブレンドでよろしいですか?」
「……はい」
毎度のことだが、注文はほんの数秒で終わる。ところが寡黙なネジにとって、それはどれほど有難いことだろう。
入り口に程近い二人掛けのテーブル席に腰掛けて、制服の、白いシャツのボタンを片手で一つ外すと、黒い革の学生鞄から徐に文庫本を取り出し、例によって読み始める。
決して毎日ではないが、よくある日常の一コマだった。
この喫茶店では、恐らく彼とさほど変わらぬ年頃であろう、若いウェイトレスが働いていた。姿の見えない日もある為、きっとアルバイトだろうとネジは思っていた。
……別に、彼女に何か特別な興味があるという訳ではない。
が、色白の肌と長く艶のある細い髪、たおやかな立ち居振る舞いなど、その淑やかな佇まいには安心感を覚えて、ずっと好印象を抱いていた。
「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーでございます。本日は雨の中お越しいただいたのでこちらはマスターからのサービスです」
「……ああ、ありがとう」
胸元の名札に「日向」と書かれた馴染みのウェイトレスが出してくれたのは、白と青の絵皿に盛られたラングドシャクッキーだった。これくらいなら、甘いものが苦手なネジでも食べられそうだ。
ネジは名前の分かるものを一切身に着けていない。よって、二人が同じ苗字であることを知るのは、果然彼の方だけだった。
「ヒナタさん? レコードを変えてもらえませんか? 今日は雨だから、ショパンの前奏曲集でお願いします」
「さすがコウさん……。天気に合わせた曲を流すなんて本当に粋ですね。私にはさっぱり分からなかったのですが、ここで働くようになってからは、クラシック音楽の良さに、少しだけ触れられたような気がします。……あと、コーヒーの奥深さも」
「やっぱり純喫茶にはクラシックですよ。小洒落たカフェで流れるボサノヴァ風ミュージックなんて私には全く受け付けませんね」
「ふふ……、コウさんのそういうお堅いところ、私は嫌いじゃありませんよ?」
ヒナタという少女は、白い襟付きの黒の膝下丈のワンピースに、清潔感のある白いエプロンを着けていた。そしてその如何にも清純そうな制服は、可憐な彼女によく似合っていた。
大変可愛らしい顔立ちではあるものの、あまり華美ではない大人しそうな雰囲気が落ち着きを与えるのか、マスターのコウという男や、中高年の常連客に、ものすごく大事にされているようだった。
しかして店内の音楽が切り替わる。
ショパンの「雨だれの前奏曲」は、夏の終わりの、向日葵も少し下を向いてしまった気だるい雨の日には、ぴったりの選曲だった。
……心地よい。仄かに耳を震わせるピアノの旋律を聴きながら、こうしてゆっくりと本と向き合う時間は、彼の日常からは切り離せないものとなっていた。
ネジは幼い頃に父を亡くして、さらには母の顔も知らずに、ずっと孤独に過ごしてきた。
確か五歳の頃だっただろうか。大好きな父が、小さな女の子を庇って交通事故で亡くなったと聞かされたのは。幼過ぎた彼は、相手側の家族に面会することもままならず、誰に縋ることも出来ずに、その悲しみを、噛み殺すようにして乗り越えた。
いや、実際には未だに乗り越えられてはいないものの、本の世界に入り込むことで、何とか平常心を保っていられたのだった。
そう、独りぼっちだったネジを救ってくれたのは、そして優しく語りかけてくれたのは、誰でもない、物言わぬ本だったのだ。
彼には夢がある。それは国立国会図書館の司書になること。若しくは出版社に勤めて、本を作る側に携われたらどんなに幸せだろうと、寂しい自分にいつも寄り添ってくれた本に関わることが出来たらどんなに心が和らぐだろうと、常日頃から考えていた。
来年の春、高校を卒業したら都会の大学に進んで、図書館司書の国家資格取得を目指そうと、自宅や学校では必死に勉強しているのだ。
ここへ来るのは本を読む為でもあるが、専ら、受験勉強の息抜きも兼ねていた。
本を一冊読み終える頃には相当時間が経っていて、もはや客はネジ一人になっていた。
マスター曰く、二十四曲あるという前奏曲集のレコードは既に一周してしまっていた。
「ごちそうさまでした。……長居してしまって、すみません」
「そんな、とんでもないです! もっとゆっくりしていって下さってもいいくらいです」
会計をしてくれたウェイトレスがいつもの柔和な笑みを向けてくれて、ネジの表情も綻んだ。
カランカラン、と鐘の音を鳴らして店の外へ出た。誰もいないマンションへと帰れば、すべきことが沢山ある。だが、雨のせいか、今日はどうも勉強する気が起こらない。少し遠回りして、海辺を散歩して帰ろうと考えた。
重い体を引き摺るようにゆっくりと商店街を歩き、展望塔のある波止場の方を目指す。
普段は綺麗なインクブルーの海が、グレーの空に覆われてひどく濁った色をしていた。
さて、アーケードの端まで来たものの、その向こう側の煙った景色を見ていると、だんだん面倒になってきて引き返すことにした。それから長い商店街を再び抜けて駅の方へと向かっていたら、何やら見覚えのある人物が、外国人観光客と思しき男の前であたふたしていた。
「え、えーっと……あ、あいきゃんのっとすぴーく、いんぐりっしゅ……なんです……、あの、あの、えぇっと、どうしよう……」
「I am going to wharf. Is this the right way to take?」
「わーふ? わーふですか?」
ネジは、その人物の拙過ぎる英語に苦笑しながら、そっと近づいて、助け舟を出してやった。
「Go straight. It is just a few minutes' walk.」
凛と響く低い声に振り返った少女はまるで、救世主を目にした罪人のようだった。
「あっ、あなたは……!」
その金髪の男を見送って向き直ると、些か目を潤ませたヒナタがネジを見上げていた。いつも見ているウェイトレス姿ではなかった。
彼女が着ている白い襟の付いたベイビーブルーのワンピースは、学校の制服なのだろうか? 胸元には、校章らしきバロック調の文様が刺繍されていて、少し視線を落とせば、ダークブラウンの革の鞄を手にしているのが見える。
そして紺のハイソックスに茶色いローファーを履いているのも見えたので、やはり制服ということで間違いないようだ。
「あ、あの、ほ、本当に、ありがとうございました! ……それにしても、何だかお恥ずかしいところを見られてしまいましたね……。私、英語が本当に駄目で……外国の方たちって、どうして日本語を勉強してから来て下さらないのでしょう。海外に行くなら、普通、少しくらいは頭に入れて行きませんか? 英語を世界共通語と呼ぶにはまだ早いと思うんです……」
頬を膨らませ、少し不貞腐れたようなその表情は、ただでさえ幼い彼女の顔を、余計に幼く見せていた。いつもの、大人しくもしっかりとした彼女からは想像も出来ない姿に、ネジは笑ってしまった。
「ふっ……意外だな。あなたがこんなに動転するなんて……。オレの中では、上品で落ち着いた印象を持っていたのだが」
「えっ……わ、私に? そ、それは買いかぶりです……私は、おっちょこちょいでいつだって失敗ばかり、誰かに助けてもらってばかりの、駄目な人なんです」
「そんなことないさ。あなたにはそれだけの価値があるということだろう? 悪かったな……気にしないでくれ。イメージとのギャップに、いい意味で驚いて、思わず笑みが零れてしまっただけなんだ」
ネジの言葉に、ヒナタはひどく喜んだようで、店では見せたことのない飛び切りの笑顔を向けてくれた。……とても愛らしかった。
「あ、ありがとうございます……あの、も、もうご存知かもしれませんが、私は、日向ヒナタといいます。山の手にある聖母女子学園高校の二年生です」
「オレは、日向ネジだ。海側にある凪高校の三年生だ」
「日向、さん? 偶然ですね。わりと、珍しい苗字なのに。それに、県内トップの男子校に通うような、頭のいい方だったなんて……お話ししていることが恐れ多いです……」
「そんなに卑下することはないだろう? オレはあなたを、とても感じのいい人だと思っていたのに」
不意にヒナタの顔が綻んだ。
ネジは、彼女のその柔らかい笑顔が、ずっと好きだったのかもしれない。
初めてまともに会話したとは思えないくらいに打ち解けた二人は、駅までの短い時間を惜しむかのように、ゆっくり、ゆっくりと歩いた。
もしかしたら、こんな日が来るのを、互いに待ち侘びていたのかもしれない。
店員と客としての言葉しか交わしたことのない二人ではあったが、確かに同じ場所で同じ時間を刻み、同じ音楽に心を揺らしてきたのだ。
他愛もない話をしていたら、あっという間に駅に着いてしまった。
どうやら彼女とは路線が違うらしく、ステンドグラスで飾られた、時計台の前で別れることになった。
「あ、あの……、今日は、ありがとうございました。お話しできてとても嬉しかったです……。また会いに来て下さいますか? できれば、もっとあなたのことを知りたいのですが……お客様としてでもいいです。……またお会いできませんか?」
どことなく寂しさを湛えたようなその表情に、ネジは何故か胸が苦しくなってしまった。
「ああ、もちろんだ。オレも、あなたともっと、話がしたい」
ネジは昔から、笑うのが苦手だった。しかしヒナタを想って精一杯の優しい笑みを浮かべて言葉を紡げば、彼女は頬を薄いピンク色に染めて、儚い笑顔を向けてくれた。
またしても見たことのない表情ではあったが、ネジの心を傾ぐには十分すぎるくらいだった。
「では、また。どうか、お気をつけて……」
――また、この笑顔に逢える。
自分だけに向けられた柔らかな微笑みが、独りぼっちで生きてきたネジには、泣きたいくらいに嬉しかった。
――次は、どうやって二人きりになろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、ネジはいつもより幾分軽い足取りで帰路についた。