2015.12.04更新
喜びと怒り。哀しみと楽しみ。そのどれもが、ぜんぶ足りない。
ヒナタは、いつしか笑わなくなっていた。
人形さながらに、いつも同じ表情で、それでも瞳は澄んだまま、ただ真っ直ぐに、ネジを映しているだけ。そう、ヒナタからすべてを奪ったのは、他でもない。誰よりも、彼女を愛していたはずの、ネジ本人だった。
それは紫陽花が咲く季節の、霧雨の夜のことだった。強く、強く想い焦がれるあまり、無垢な彼女を蹂躙して、強引に手に入れた。
ネジにはどうすることもできなかった。
春も、夏も、秋も、冬も。気の遠くなるような時間、ずっと、ずっと想い続けてきた。
欲しくて欲しくてたまらなかった――禁忌ともいえる感情を抱き続けてきた――そんな相手がくれた言葉と、そしてその涙が、ネジの心を滅茶苦茶に掻き乱し、さらには壊してしまったのだから。
――あなたになら、何をされたっていい。
――あなたを救えるのならば、何でもいたします。
そんなふうに言われて、昂る情動を、抑えきれるわけがなかった。
理性を捨ててしまえば、そこから転がり落ちるのは、あっという間で――。それからヒナタの中で、もう、何度果てたか分からない。しかし。
どんなに長くあたため合っても、どんなに深く繋がっても、心を重ねて慈しみ合ったことは、一度としてなかった。
こんなにも傍にいるのに、冷たくて、寒くて、もはや、痛みすら覚えるほどだった。
*
夜露に濡れた窓に、いびつな月が、おぼろげに映し出されている。
束の間の休暇を得たネジは、自宅でひとり眠りについていた。
冬の初めの、朝晩の寒暖差に中てられて、不覚にも体調を崩してしまったのだ。
いつもひとりだったので、いまさら、誰を頼るでもない。眠りさえすれば勝手に治るだろう。そう思って目を閉じたとき、まだ空は明るくて、殺風景な寝室には、麗らかな陽射しが差し込んでいた。
ここのところ、毎日のように、必ずといっていいほどに夢を見る。いとしい人の夢。
……夢の中のヒナタは、嘘のように明るく笑っているというのに。
あんなにもたくさんあった感情を、彼女はいったいどこに置いてきてしまったのだろう。
どうして壊れてしまったのだろう?
瞼の向こう側に、淡く儚い光が見えたので、うっすらと目を開く。
そこには、緻密な氷細工のように、冷たい表情でネジを見下ろす、清白な人がいた。綺麗で、そして残酷なその人は、ネジが心から望んで、欲し続けた人。
自らの手で穢した今では、「愛している」などと手垢のついた言葉を並べてみても、見せかけの飾りにさえならない。
「ヒナタ様……。どうしてここへ? いつからいらしたのですか?」
「夕方、任務から帰ってきて……。一番に、こちらへ向かいました。そうしたら、ネジ兄さんが辛そうに眠っていて……。ずっと、お傍についていたのです。ご迷惑でしたら帰りますが……」
ヒナタが? 一番に、会いにきてくれたのか? なぜだろう……。どうしようもなく嬉しい。
不安そうに見下ろしてくるその顔は、やはり貼り付けたような無表情だったけれど。ヒナタの姿を捕らえると、気怠かった体が、嘘のようにほぐれてゆく。心底安心した。
何でもないふりをしても、ひとりは、心細かったのかもしれない。
「別に迷惑ではない。しかし、なぜだ? なぜ、あなたが……」
ヒナタは目を細めて、笑っている、……つもりなのだろうか。ネジの髪を、ゆるやかに撫でて言った。
「……悪夢にでもうなされていたのですか? 兄さんに、名前を呼ばれたので……。そう、何度も何度も『ヒナタ』って、苦しそうに呼ぶから……」
全く気づかなかった。気づけなかった。まさか、寝ている間さえも、その名前を口にしていたなんて。
もう、何度呼んでも足りない名前――。
「……忘れてください。聞かなかったことにしておいてください。体調のせいか、偶然あなたの夢を見てしまっただけですから」
ヒナタの無表情に、哀しみの色が見てとれた。しばらく考えたあと、また口を開いた。
「兄さんはしんどいときだけ、私の夢を見るのですか? 私はいつだってあなたのことばかり。それこそ、四六時中考えているというのに……。消えない落書きみたいに、私の中は、あなたでいっぱいなのですよ?」
言葉が、見つからなかった。
思えば、半ば力づくで、無理やりに自分のものにした。
ネジを想い、儚く笑ってくれたヒナタは、今では表情をなくしてしまって、痛々しいくらい。どうしてヒナタは、こんなにも真っ黒な自分を、包み込んでくれるのだろう。
どんな願いも叶えてくれそうな、女神様に出会った日。それが、ふたりの終わりだった。
――ずっと虐げられてきたネジ兄さんの願いを、すべて叶えて差し上げたい……。
――あなたが大切なの。放っておけないの。何でもする……。
その言葉を思い出すだけで、面白いくらいに胸が軋めき始める。
「いったい、何だというんだ……」
「だって仕方ないでしょう? あなたとの痕跡が、今の私をつくっているのですから……。私、あなたの傍にいたいんです」
「……どうして?」
「……あなたにだけは、いつも笑っていてほしいから。でも、おかしいな。ネジ兄さんは、私といたら苦しそうなのに。もう、一緒にいない方がいいですか?」
……ヒナタの声が、心に、傷跡のようなしるしを刻む。
決して消えることのない、永遠の苦しみ。
喜んだ顔も、怒った顔も、哀しんだ顔も、楽しい顔も、そのすべてを預けてほしい。ぜんぶ、委ねてほしい。それが叶わないのなら、いっそ何もかも、捨ててしまいたい。
歪んだ心でしか、ヒナタを想うことができない自分がもどかしい。
「そんなわけない……」
よかった、と消え入りそうな声で呟いたヒナタの心に、同じような痕は見つかるだろうか?
ヒナタの細い髪が、不意に頬を掠めた。
くすぐったくて目を閉じれば、渇いた唇に、冷たい唇が触れた。心地よい痺れと、疼くような胸の痛みが走った。
布団越しに感じるヒナタの重みが、とてもあたたかかった。
「……風邪が、うつります」
「いいの。だって仕方ないでしょう? あなたと、こうしていたいんだから。いけませんか?」
「別に、かまわないが……」
甘えんぼの猫さながらに、ヒナタはこうやって、体を寄せるのが好きみたいだ。
その姿は本当に安心しきった様子で、飼い主に付いて眠るペットのよう。きっと幼い頃から、誰にも甘えてこなかったのだろう。
その寂しさをほんの少しでも埋めてやれるのならば、何だってする。
神に背き、命さえも捨てられる。
……口を衝いたのは、思ってもいない言葉だったけれど。
「……いい加減、やめにした方がいいな。これ以上不毛な関係を続けたところで、何も得るものはない。オレも、あなたも」
しかし、言動とは反対に、頭から背中を撫でる手はひどくやさしい。ネジの上で、布団を握るヒナタの手に力がこもった。
そっと体を起こしたヒナタは、あまり見たことのない顔をしていた。
おそるおそる問うてみる。
「何だ……?」
「意地悪は言わないでください。私にはもう、あなたしかいないというのに。いまさらやめようなんて言わせない。私をここまで焦がしておいて、引き離すなんてあんまりです」
ヒナタの答えに、また加虐心が疼く。
「……それは体が、熱を覚えてしまったからか? 相手が、オレだからということではなく」
「ち、違います! 離れるなんて無理なの。絶対に嫌なの。だからやめない。傍に、いたいんです……!」
怒りの感情をあらわにするヒナタを、初めて見たような気がする。
喜びと楽しさ、そして哀しみ。その三つしか、ネジは知らなかったから。いつしか、それさえ触れられなくなっていたけれど。
ヒナタが自分へと向けるものならば、どれほど苦しくても、いくら重くても受け止めてやれる自信がある。
たとえそれが、汚れたものだったとしても。
「仕方ないな」
……取り返しがつかないほどに汚したのは誰だ?
だが、そんなことはもうどうだっていい。
拙くも荒々しく、乱暴に咥内を侵してくるヒナタに、また何度でも、己を焼き付けてやろうと思った。
――消えない跡が残ればいい。傷だらけのあなたでも、オレは真っ直ぐに愛せるから。
――それもまた、ひとつの幸せのかたちなのかもしれない。
「あなたが私につけたしるしを、決して見失わないで……」
今夜もまた、消えない傷跡を残す。