2015.12.09更新
深すぎる慕情は、時として罪悪にもなり得るものだ。
淡い菜種梅雨のせいか、川べり一帯を綾なす黄色い花々が、滅入ったように下を向いている。
ヒナタと背徳的な関係になってから、気づけば三つの季節が廻っていた。その間、実に多くの雨に打たれてきた。
はじめて口づけを交わした――無理やりに唇を奪った――のは、梅雨のはじめの、初夏に差し掛かろうという頃だった。
以降、何度も何度も体を重ねて、そしてその甘やかな熱に溺れ、絶対に離れられないとばかりに繋がり合ったのは、冷ややかな秋雨の降る頃だった。
それから瞬く間に霙の季節を飛び越えて――。気づけば、春を迎えていた。
今年の春は雨が多い。それも、ほんのわずかに降る、鬱陶しい雨。
未だヒナタを手に入れられない悲しみが、尚も鳥籠から飛び立てない苦しみが、涙さながら、容赦なく降り注ぐ。けれどもネジは、ヒナタを手放すつもりなど微塵もない。
このままどこまででも絡み付いて、決してほどけぬよう、固く結んでやる。
強く、強くそう思っていた。
ここのところ、ヒナタはまたふわりと笑うようになった。
その慈愛に満ちた笑みは、誰にでも向けられる博愛のようなもの。ともすれば皆が手にできるような、そんな安い思い遣りはいらない。
……俺だけを見てほしい。他に目を向けないでほしい。
ネジの歪んだ想いは、果然ヒナタの赦し無しには叶わないのであった。
茜色に染まる雨の中、非番のヒナタが、懲りずにネジの元へとやってきた。両手いっぱいに、零れんばかりの、快活な菜の花を携えて。
ヒナタらしい桃花色の下はじきに、月白の着物、淡藤色の帯。そういえば、この出で立ちには見覚えがある。そう、彼女をはじめて蹂躙した日、あの梅雨の夜にも着ていたものだ。
血や何やらでひどく汚したはずなのに、ヒナタは気にならないのだろうか?
夕闇に、薄暗くなった玄関から廊下へ、さらには縁側を進んで居間へと通した。
ヒナタはネジの後ろを、ちょこちょこと小さな足どりで着いてくる。どんなに穢しても、いつまでも少女のように可憐なヒナタを見ていると、やはり今でも、ひどく胸が痛んだ。こうやって会いにきてくれる動機は、今もなお、憐憫や情けからくるものなのだろうか? 聞いて確かめたところで、どうせ満たされることはないけれど。ヒナタの哀しむ顔は、もう見たくない。
……疑念は、胸の奥へとしまっておこうと思った。
最近気づいたことがある。不器用なりに、下手くそな笑みをヒナタへと向ければ――。彼女は心から幸せそうに、可愛く笑ってくれるということ。心を侵されて、どうしようもなくなって、ヒナタの傍にいる為ならば、どんな苦しみにだって耐え抜いてやる。そう思って、春を迎えた今も、ずっと囚われ続けているのだ。
……自分でも情けないが、仕方ない。ヒナタを失う悲しみに比べれば、想う苦しみなど、取るに足らないことだから。
咲き誇る明るい花は、後ろ暗さしかないふたりの空間には、どうも似つかわしくない。
それにしても、男のネジが、花をもらって喜ぶはずがないのに。こうして、性懲りもなく通い続けるヒナタが、心底憎くて、心底いとおしい。
花を活けたヒナタが、ネジの方へと、緩やかに向き直った。
どうやら、何かを言いたげなようだ。視線で促した。
……小さく息を吸ったヒナタが、俯き気味に、ゆっくりと言葉を零した。
「……そろそろ、はっきりさせませんか? 見ての通り、私は、あなたにもらったしるしを、今も大切にしています。汚れたなどとは思っていない。あなたの想いを受け取ることができて、本当によかったと思っています。これから先も変わらない。兄さんは私にとって、特別すぎる存在だから……」
窓の外には、あの日と同じ涙雨。いつの間にか太陽は沈みきり、外は真っ暗になっている。
一層俯いて、ぎりぎり聞き取れるくらいの声で、ヒナタはさらに続けた。
「私を、あなただけのものにしてほしい。いつも傍にいるのに、いつも遠い。そんなの、もう嫌なんです。いつか私の手の届かないところに行ってしまうのではないかと、哀しそうなあなたを見ていると怖くて、不安になってしまって……。それから、そんなことを、想像するだけでも嫌なんです。絶対に離れたくないんです」
ずっと食い縛っていたのだろうか。不意に合わさった唇から、じわりじわりと、生温い血の味がした。ネジは、そのすべてを丁寧に舐め取った。
ヒナタが壊れたのは、間違いなく、自分の強引すぎる所業に起因している。それでも真っ直ぐに心を傾けてくれるヒナタを、棄てられるわけがない。
ヒナタは、やはりネジにとっての女神様だ。一切の濁りのない澄んだ心に、いとおしさが溢れてどうにもならないのだから。
唇を離し、また俯いたヒナタは、冷たく小さな手で、ネジの左手を取った。
そしてその薬指へ、自らの長い紺藍の髪を二房取り、固く結び付けてきた。
そっと見上げてきた顔は、困ったような、はにかんだような笑みを湛えていて――。
どうしようもなく苦しくなって、指を縛られたまま、至って優しくヒナタを抱いた。
片手が封じられてもどかしかったけれど、何故だかひどく嬉しくて、心が洗われるような気分だった。上り詰め、そして白く融けきってもなお、薬指の固結びはほどけることなく、ヒナタと繋がったまま、きつく紮げられていた。
自然と零れる笑みを、堪えきれないままにヒナタを見下ろした。また、慈しみ深い笑顔を向けてくれた。とても綺麗だった。
「あなたを自分だけのものにできるなんて、まだ、信じられないな……。でも、いつかあなたのすべてが壊れて、崩れ落ちたとしても、その全部を必ず掬い上げられるくらい、オレはあなたを愛している。あなたと出逢ったことは、オレの終わりを意味していると思っていたけれど、今は違う。オレには、あなたが必要なんだ。あなたじゃないと駄目なんだ。だから、この先何があっても、絶対に傍にいてほしい。一生だ。それがオレの唯一の願いです。叶えて、くれますか?」
もちろんです、喜んで――。
そう言って泣き笑いするヒナタはやはり眩しくて、これまで見せた、どの表情よりも晴れやかな顔をしていた。
その日の夜は、互いに色違いの髪で、左の薬指を結んだまま眠りについた。
朝目覚めれば、降り続く悲しい雨が、跡形もなく止んでいることを願って。
*
無理やりに始まった関係だった。
ネジのしたことは、畢竟、罪に問われても致し方ないことだ。決して胸を張ることなどできない。
けれどもいつしかふたりは、想い合うことの尊さを知り、身を焦がしかねない情愛の味を知った。どんなかたちであれ、互いが互いを求める心があるのならば、何が正解で何が間違いということはないのだ。消えない不善を嘆く前に、少しだけでいい、ほんの小さな幸せを結べたら……。
春の嵐が、垂れ込めた涙雲を散らす。夜明けの空には、七色に煌めく虹が架かっていた。