2015.12.06更新
ふわふわと舞う厚ぼったい雪が、冷えた心を凍て付かせる。
ここのところ、すっかり日が短くなってしまった。
ネジとの結婚が決まった頃には、すでに明るい陽射しに包まれていた時間だというのに、今のヒナタの心模様をあらわしているような夜明けに、また息が苦しくなった。あの手紙には、いったい、何が記されていたのだろう。
考えれば考えるほど、余計に疑心暗鬼へと引き摺られてしまう。
こんなときは、どうすればいいのだろうか?
しばらく、まだ薄暗い自室にて、布団にくるまっていた。が、少し、外の空気を吸おうと縁側に出た。
視界に、ふわふわ、ふわふわ、と灰色の雪が舞い降りてくる。
空も、空気も、雪も、ぜんぶが色褪せた白黒の世界。そういえば、ネジがくれた手紙も、白と灰の飾り気のない色をしていた。良いことが書いてあったとは、やはり思えなかった。
今年はまだ、ネジと一緒に雪を見ていない。
中忍選抜試験を終えて以来、毎年、ここで必ず一緒に、お茶を飲みながら外を眺めたものだ。表面上だけなのかもしれないが、ネジはずっと、ヒナタに穏やかに接してくれていたのに。
……婚約するまでは、本当に穏やかだったのに。
「やっぱり、嫌、なのかな……」
ひとりごとが、白くて儚い煙へと変わる。それは驚くほどに真っ白だった。
冷たくなった指先を擦り合わせてみても、芯まで冷えた体はどうにもあたたまりそうにない。今日は、父と妹は出掛けるというふうに聞いている。
ここにひとりでいると、寒さと寂しさに飲まれて、どうにかなってしまいそうだ。
部屋に戻って、もう一度封筒の中身を取り出した。
夜が明けたからといって、何かが変わるわけがない。そんなことは、分かっている。
だが、物言わぬ白い紙に、ほんのわずかな望みをかけたのだ。
もしかしたら、何らかの術式が施されていて、時間が経てば、文字が浮かび上がってくるのかもしれない。
子供じみた願いを込めて、もう一度、四つ折りの便箋を開く。昨夜と同様に、手は震え、鼓動は高鳴った。
窓の外が、明るくなってきている。目を擦り、何度か瞬きをした。
しかして、そこには――。
「……あ、あれ?」
……ぎゅっと目を瞑ったあと、しっかりと開いて見る。
「昨日より、ぼけてる……?」
少しでも期待した自分が、ひどく滑稽だった。
ぼやけた灰色を呆然と見下ろしていると……。ぽつり、ぽつり、と滲んだ水玉模様があらわれて、ようやく、泣いていることを自覚する。
……馬鹿馬鹿しい。朝からひとりで何をしているのだろう。
*
気づけば任務服を着て、里の外へと飛び出していた。
父と妹が、走り書きの、嘘の書置きを見てどう思うかなど、考えてはいられなかった。
あうんの門をくぐるまでは、いかにも緊急の命を受けたような素振りで、必死に駆け抜けた。
一刻も早くネジに会い、はっきりさせなければならない。
半ば無意識のまま、突き動かされるように走った。
(兄さん、待ってて……! 今なら、まだ間に合う……。間に合う、かもしれないから)
涙に濡れた手紙をポーチに入れて、夏に新調したばかりの、真新しい忍服に身を包んできた。
袖のない上着とショートパンツは、どう考えても寒かったけれど……。結婚するかは分からないが、もししたら、もう着る機会がないかもしれない。
今のうちに、着ておこうと思った。
人づてに聞いたネジの赴任先へは、夕方には辿り着けるだろう。
尚も降り止まぬ灰雪の中を、息を切らしながら、精一杯、全速力で駆けてゆく。
走って、走って、冷たい風を受け続けた肌は、自分で見ても痛々しいほど。
……いつの間にか、真っ赤な色に染まっていた。
髪は、融けた雪に濡れて、少し鬱陶しいくらい。
厚い雪にひたすら降られ続けて、だんだん、体中の感覚がなくなってきた。道すがら、何度心が折れそうになったか分からない。が、ネジの自由な未来のために、必死で走った。
やがて、厚ぼったく湿った灰色の雪が、さらりとした、粉のような白い雪へと変化してきた。
同じ銀世界でも、明らかに気候が変わっている。そう、目的地は、すぐそこだ。
……途端に不安になってくる。急に任務先へ押しかけてきたヒナタを、ネジはどう思うのだろうか?
でも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。どちらにせよ、家に帰ったら父と妹に訝しく思われるのだ。どうせなら、目的を果たしてから叱責を受けたい。
もはやどうにでもなってしまえとばかりの、諦めの境地だった。
しかして視界の一番向こう側に、小さな集落が見えてきた。心なしか、湯けむりのようなものが見えなくもない。
間違いない。ネジの赴任先まであと少しだ。
*
ようやく宿場町へと辿り着いた頃には、雪の勢いは一層増して、眼前が完全な白に染まってしまうくらいだった。
日が隠れているので、正確な時間は分からない。しかし、まだ明るかったことから、休みなく走った甲斐あって、予定よりも早く着いたような気がする。
白一色の街並みを、傘を差した観光客たちの視線をさらいながら、びしょ濡れになって歩く。
宿がたくさん見えてきたところで、白眼を使ってネジを見つけ出してやろうと思った。
ところが、慣れ親しんだ真っ直ぐなチャクラを、探し出すことはできなかった。
……また、言い知れぬ不安に包まれる。
仕方がないので、街中をくまなく探し歩くことにした。ここは小さな温泉街だ。端まで行ったところで、大したことはないだろう。
どうしようもなく凍えきって、そして硬くなった体で、何とかその外周を巡ってみた。
……やはりネジはいなかった。
しばらくして、街の果てへと辿り着いた。
そこは温泉街からいくらか離れた、人気のない静かな場所だった。
元いた中心地を背にすると、見渡す限りの雪原の奥に、真っ白な森が、際限なく広がっているのが見える。木の葉ではあまり見ない種類の、背の高い針葉樹が雪に覆われ、そのどれもが天を向いてそびえ立っていた。
ただただ圧巻で、でもひどく寂しげで、不意に心が縛られる。
頬を、生暖かい雫が滑り落ちた。
「私、何してるんだろう……」
その場に立ち尽くし、動けなくなってしまった。
はらはらと舞う雪が、ヒナタを余計に苦しめる。虚しい。勢いに任せて出てきたものの、あまりにも向こう見ずな自分が、もはや恥ずかしくさえ思えてきた。
急に、何もかもがどうでもよくなった。ネジに見つからないうちに、里に帰ろう。そう思い直し、体を翻そうとした。
……何故だろう、おかしい。雪が、ヒナタの周囲を避けている。
「あ、あれ?」
不審に思い、ゆっくり、ゆっくりと振り返れば――。
会いたかったけれど、会いたくなくなった人が、静かに立っていて……。
紺色の傘を、ヒナタの方へと目一杯差し出して、困ったような、怒ったような目で、全身を撫で回すように見ていた。
その視線がどうにも居たたまれなくて、身を捩り、冷たい腕で体を隠す。
華奢すぎる腕は、まったく、意味を為さなかったけれど。
「ここで、何を?」
ネジは、どこかばつの悪そうな表情で、目を逸らし、褪めた声で問うてきた。
そして、傘を手にしながらも、器用に紬の羽織を脱いで、そっとヒナタを包み込んでくれた。
ネジが上着を掛けてくれたことが嬉しかった。だが、直接肌に触れないよう、即座に離された指が寂しかった。
……質問に質問で返す。
「ネジ兄さんこそ……。どうしてここへいらしたのですか?」
「標的のチャクラを探っていたら、不意に、あなたの気配を感じて……。思わず、後を追って来てしまいました。それより、何故あなたがここに?」
覚悟を決めて、目的を伝えた。どう思われるかは、分からない。
「……あ、あの、ネジ兄さんに、お話があって……。父と妹に任務だと嘘をついて、衝動的に来てしまいました。仕事中に、ごめんなさい……。終わるまで、どこかでお待ちしていますので、どうかお構いなく」
「……馬鹿だな。こんなになったあなたを、放っておけるわけがないだろう?」
「えっ……?」
「何を話しに来たのか、見当もつかなくて恐ろしいが……。とりあえず、オレの宿まで来てください」
やはりネジは居心地が悪そうにしていた。
ヒナタは会いに来たことを強く後悔した。
同じ傘の下にいるのに遠い。遠慮がちに肩を並べて向かった先は、至って簡素で、古風な温泉宿だった。ヒナタと反対側のネジの左肩には雪が積もっていて、胸がひどく痛んだ。
中に入ると、帳場での話を終えたネジが、奥の部屋へと案内してくれた。
そこは、二週間以上滞在しているとは思えないくらいに整っていて……。畳の若草色、文机の栗色、壁の白だけの、何とも味気ない風情だった。格子窓の向こう側には、真っ白な世界が広がっている。
思わず、ため息をついた。
何も言えずにいたら、ネジが、引き戸の押し入れから浴衣とタオルを出して、ヒナタに手渡してくれた。
「とりあえず温泉であたたまってきたらどうですか? どうにも寒そうで、とてもじゃないが見ていられない。オレも行くから、一緒に来てください」
「……一緒に、とは? 一緒に、入るのですか?」
「……ち、違います。な、何を言っているんだ。そんなこと、できるわけがないでしょう。オレは男湯に入って、できるだけ早く済ませて外で待つから、ゆっくり浸かってきてください。そのままでは風邪を引いてしまう」
「わ、わわわ私ったら……! ご、ごめんなさい! あ、あの、お気遣いいただいて、ありがとうございます」
恥ずかしくて、目を見ることができなかった。
相変わらず笑いもしない、触れてもこないネジに、言いようのない寂寥感を覚えた。女としての大切な何かが決定的に欠如しているように思えて、ひどく悲しかった。
*
いつになく大慌てで湯浴みを済ませたネジは、ヒナタが出てくるのを、複雑な思いで待っていた。
いったい、何を話しにきたというのだろう? 雪の中、あんな無防備な恰好で、傘も差さずにびしょ濡れになりながら。
ここへ来るまでに、ヒナタの身に何も起こらなくて本当に良かった。
ただでさえ煽情的な忍装束が、湿ってぴったりと貼り付く様は、男ならば、ネジでなくとも何も思わずにはいられないだろう。彼女は女としての自覚が足りなさすぎるとかねてから思っていたが、まさかこんなことになるとは考えもつかなかった。
あの恥ずかしい付文を読んだ上でヒナタが話したいこととは? もしかして、良くないことだろうか? ネジの重すぎる恋情を、受け止めきれなかったのだろうか?
……怖くて、不安で、どうすることもできなかった。
少しして、薄桃色に色づいたヒナタが、女湯ののれんから出てきた。
質素な柄の旅館の浴衣とはいえ、和服の似合うヒナタは、とても艶っぽく、直視できないほどに綺麗だった。
終始無言で部屋へと戻った。
小さな丸い卓袱台をはさみ、座椅子に座って向かい合う。
互いに俯いたまま、何とも気まずい空気が流れた。ヒナタが淹れてくれた緑茶から、静やかに湯気が立ちのぼっている。しかし、どうしようもなく手が震えていたので、口をつけることができなかった。
……しばらくの沈黙ののち、ヒナタが小さく息を吸った。何となく、ヒナタも震えているような気がした。
「……手紙、受け取りました。灰色一色のぼやけた図柄に、兄さんはいったいどんな意味を込められたのですか?」
そう言って、徐に机の上に差し出された便箋は、ネジが最後に見たときとは、あまりにも違う体裁へと変化していた。
何故だか可笑しくなってしまって、こみ上げる笑いを押し殺すことができなかった。
……馬鹿だ。俺は、救いようのない馬鹿だ。そう思った。
「なっ! なぜ笑うのですか? やっぱりこれは結婚をやめたいという無言の意思表示だったのですか? ひ、ひどい……」
忽ち涙ぐむヒナタを、申し訳ないけれど微笑ましい気持ちで見てしまった。
そんなネジの思いをよそに、ヒナタは尚も続けた。
「教えてください。あの手紙には、何を記したかったのですか?」
伝えたい。けれど口にするのは、どうも憚られる。
「えっ……? い、いや、それは……」
「大切なあなたの、自由な未来のためです。正直に教えていただけませんか? ……お願いです」
「いや、その……」
真っ直ぐに訴えてくるヒナタを、また、不謹慎にも、綺麗だと思って見ていた。
湯浴みのあとで上気した頬、なめらかな肌、艶のある紺藍の髪も……。早く自分のものにしてしまいたい。情けないけれど、そんなことばかりを考えていた。
「……やっぱり、言えない。文字にはできても、言葉にするなんて、オレには恥ずかしくてできない。本当はあなたに想いを伝えたかったのに、雪に濡れたせいか、墨で書いた言葉が、滲んで消えてしまったみたいなんだ……」
「……え?」
ヒナタは目を見開いたまま、固まってしまった。いつまでもヒナタを不安なままにさせておくわけにはいかない。
ようやく、腹を括って言葉を探した。
「……好きです。オレは、ヒナタ様のことが好きです。それだけは覚えておいてください」
鼓動がうるさくて、それ以上のことを、口にすることはできなかった。
けれども、ヒナタが見せてくれた飛び切りの笑顔が嬉しくて、ネジも、やっと穏やかに笑うことができた。
とりとめのない会話を交わしていると、安心したのか、船を漕ぎはじめてしまったヒナタを、並べた布団へと寝かせてやった。就寝するには随分早い時間帯ではあったが、このまま無防備なヒナタを見ていたら、自分が何をしでかすか分からない。
仕方なく、その隣でネジも眠りにつくことにした。
途中、掛け布団から、ヒナタの指先が出ているのが見えたので、その下に手を潜り込ませて、そっと握り締めた。
指を絡めることはできなかったけれど、とても幸せだった。