2015.12.12更新
昨夜は早くに寝たせいか、まだ薄暗いうちに目が覚めた。
すると、遠慮がちに繋いでいた手が、ヒナタによって、大切そうにくるまれていた。
小さな両手の中、じんわりとあたためられたその手は、今にも溶け出しそうなくらいに、ひどく熱を持っていた。
仰向けに寝ていたはずのヒナタが、ネジの方を向いて、静やかに寝息を立てている。
これは無意識に? それともヒナタは途中起きたのか?
……まあいい。どちらにせよ、ネジにとっては願ってもない状況なのだから。そのままヒナタを起こさぬよう、そっと体を起こす。
雪は止み、窓の外は、昨日の空が嘘のように晴れ渡っていた。
もう一度、ヒナタの方を見遣る。
はじめての経験だった。好きで、好きで仕方ない人と、共に朝を迎えられるなんて。まさか、彼女を自分のものにできる日がくるとは、夢にも思わなかった。
嬉しい――。思わず、顔がほころんだ。
こんなにもあたたかい朝を迎えたのは、父が存命だった、幼い頃以来のことだ。改めて、いとしい婚約者の存在に感謝する。
空いた片方の手で、その柔らかな頬を撫でようとした。
……瞬間、ヒナタがわずかに身じろいだので、慌てて引っ込めた。そこにはまだ触れてはいけない。きっと収拾がつかなくなってしまうから。
少しずつ、少しずつ、灰色だった視界が明るくなってゆく。
冬の陽射しに、やさしく煌めく白い雪が、こんなにも綺麗だとは知らなかった。
彼女があたたかい日の光なのだとすれば、自分は冷たい月の光だろうか。そう、本来ならば、ネジはヒナタなしには輝けない陰の存在だったはず。
ネジにとってのヒナタは、それくらいに眩しくて遠い存在なのだ。
彼女を欲しい、などと望んではいけないと思っていた。
「ん……」
くるまれた手が、より一層包み込まれた。
小さな声を上げて目を覚ましたヒナタは、最高に綺麗だった。大きな目を半分くらい開けて、ぼやんとした顔でネジを見上げて笑う。
……嬉しい。この可愛い人と、これからずっと一緒にいられるなんて。
またしてもゆるみ出した頬を、抑えきることができなかった。
「おはようございます、ヒナタ様」
「……おはようございます。あ、あの、とてもお恥ずかしいのですが、お、お腹が空いてしまいました。よく考えたら、一昨日の夜から何も食べていなくて……」
「……まったく。寝起き早々に何を言いだすかと思えば」
「ち、ちなみにだし巻き玉子が食べたいです」
「それなら旅館の食堂にあったような気がします。一緒に行きますか?」
「は、はい……。あの、今日のご予定は? 大丈夫なのですか? 私、朝食をとったら帰った方がいいですよね……」
「……いや、あと二日もすれば里に帰れるから、あなたさえよければ待っていてくれないか? 一人で帰すのは心配だから。ヒアシ様には手紙を書くよ。次は濡れないようにする」
「本当ですね。それだけは気をつけてもらわないと……」
また、ふわりと微笑み合えば――。泣きそうなほどの幸せに包まれた。
それにしても、貴重な婚約期間をすれ違ったままで過ごしてしまった。どうしてもっと早くに話し合わなかったのだろう。どうにも悔やまれる。だが、今さら過ぎたことを考えても仕方がない。残り十一日間を大切に、あたためながら過ごそう。溶けてしまった雪を再び固めるように、丁寧に過ごそう。……強く、そう念った。
あまり知らなかったけれど、ヒナタはとてもおいしそうに物を食べる。とりわけ幸せそうに、見えない何かに、感謝の意をあらわすように。
その姿を見ていると、いつも無表情で食事する自分が、ひどく恩知らずに思えてきた。一緒に住み始めて、もしヒナタがごはんを作ってくれたら、彼女に倣って満面の笑みで食べるべきなのだろうか? 想像したら可笑しいけれど、そんな自分もいいかも、と妙に納得する。
……やはり俺は馬鹿なのかもしれない。ネジはまたしても自嘲して笑った。
*
ネジを見送ったあと、ヒナタは雪の宿場町を散策することにした。
どう考えても似合わないネジの着物を借りて、無理やりに丈を合わせた。それは、お世辞にもかわいいとは言えないものだったけれど、涼やかなネジの匂いがして、とてもやさしい気持ちになった。
やや溶け始めた雪を踏みしめ、甘酒を片手にぶらぶら歩く。観光地の温泉街は、外は雪の白に占拠されているものの、立ち並ぶ店には、たくさんの土産物が鮮やかに色を添えていた。
ある店の前で、ふと、目を奪われたので立ち止まれば――。
そこには、ヒナタの誕生花のイチゴが描かれた、白花色のノートが売られていた。
手作りふうのそれは、懐かしい風合いの和紙でできていて、何故か瞬時に心を掴まれてしまった。大して値の張るものでもないからと自分に言い聞かせて、気づけば買い求めていた。
揃いのペンも買った。さて、ここに何を書こうか?
宿に帰るのがとても楽しみになった。
夜、ネジが帰ってくるまで、これまでには知り得なかった感情を覚えた。
……寂しい。家でひたすらに主人の帰りを待つとは、こういうことなのだろうか?
少しでもネジの役に立ちたくて、部屋の掃除と洗濯をした。真面目なネジらしく、そこは綺麗に整っていたので、ヒナタに手伝えることはあまりなかったけれど。
大切な人の世話をするのはこんなにも幸せなのかと、泣きそうになった。
忽ちすることがなくなったので、ノートの使い道を考える。
我ながら名案を思いついた。
早く帰ってきてほしくてずっと待っていたが、あまりにも遅かったので先に眠ってしまった。
深夜、一度目が覚めたら、帰ってきたネジが懲りずに手を繋いでくれていた。
すかさずヒナタも応える。明日の朝起きたら、また、焦げそうなくらいに熱を持つのだろう。
心底安心して、また眠りについた。
*
朝食を一緒にとって、再びネジを、笑顔で見送った。寂しかったけれど、一足早く夫婦になれた気がして嬉しかった。
ネジは二日後には里に帰れると言っていた。ならばここにいられるのは今日が最後かもしれない。
……今夜こそはちゃんと彼を迎えよう。そう決めて気合いを入れた。
ヒナタが待ち焦がれた人は、思いの外早くに帰ってきた。
外はすでに暗かったものの、日付が変わるまで、まだたっぷりの時間がある。
嬉しさのあまり、思わず抱きついてしまった。ネジは些か困ったように、遠慮がちに手を添えてきた。やはり寂しくて、そしてどうしても物足りなくて、不満が口を衝いてしまった。
「……前から気になっていたのですが、ネジ兄さんはどうして私に触れないのですか?」
ついに言ってしまった。もう取り消すことはできない。
そろりと見遣れば、どこかばつの悪そうな顔をしたネジが、柄になく視線を泳がせながら答えた。
「どうしてって……。ヒナタ様は、オレに触れてほしいのですか?」
その言葉に、瞬く間に頬に火がついたのを自覚した。が、もうすぐ夫婦になるのだから、正直に答えることにした。
ゆっくり、ゆっくりと息を吸う。そして、
「……は、はい。ぎゅーってして、そ、それから……、口づけてほしい、です」
羞恥に俯きながら、自分でもびっくりするほどのことを言ってしまった。
おそるおそる見上げれば、ネジは驚いた顔のままで固まっていた。間違えた……。さすがに、はしたないと思われたかもしれない。
「あ、あの、ネジ兄さん?」
不安になって窺えば、不意に、息ができなくなって――。
気づけば、ヒナタはネジの腕の中にいた。
きつく、きつく抱きしめられて、少し痛いくらいなのに。胸がひどく締め付けられて、苦しくて、切なくて、それから信じられないくらいに幸せだった。
涙が零れた。どうして泣くのだろう? 今、とても嬉しいはずなのに……。
分からないけれど、どうしようもなく息苦しい。
嗚咽に震えてしまったので、泣いていることを、ネジに気づかれたようだ。
腕の力がゆるめられて、心配そうに覗き込まれたかと思えば、唇に、柔らかな痺れが走った。
すぐに離れてしまって、寂しさを覚えたが……。
「……涙の味がします」
ネジの声は震えていて、次はヒナタの方が心配になる。そっと目を開けて視界に捕らえれば、ネジは、見たことのない顔をしていた。
……悲しそう。そう思ったときには、口の中に、何ともいえない生温い感触が広がった。それがネジの舌だと分かったのは、もうずいぶん侵されたあとだった。
こんなの、知らない――。唇を合わせるだけが口づけだと思っていたのに。それすらも経験がなかったけれど、だからこそ怖い……! 抵抗を試みても、ネジは決して解放してくれなくて、ヒナタはいつの間にか、ネジの支えなしには立てなくなっていた。
「ん……んんっ……」
酸素が、薄い。耐えきれなくなって、声を漏らす。ネジはようやく唇を離してくれた。
自由になった口で、ヒナタは精一杯の抗議をする。
「あっ、あの……ず、ずいぶん手慣れた様子ですが、か、過去に、このようなことをした相手がいらしたのですか? ネジ兄さんは、私が初めてではないのですか?」
意図せず涙ぐんでしまう。
ネジがヒナタを「好き」だと言ってくれてから、何かが確実に変わってしまった。
しかして、ネジはまた吹き出してしまった。普段の大人びた笑みではない。十八歳の男の子のあどけない笑顔。悔しいけれど、可愛いとさえ思ってしまう。
笑ったままのネジが、至極楽しそうに言葉を零した。
「あなたにはかなわないな。……そんなわけないだろう? 本当に、何を言いだすんだ。オレは長い間ずっとあなたに片思いをしていたから、他に目を向ける余裕などなかった。でも、止めてくれてよかった……。あのままいったら、どうなっていたか分からなかった」
恥ずかしい……! 自分でも何故口にしたのか分からないというのに。
「え? え、えっと、なんだかごめんなさい。私ったら、また……。あ! そうだ……。あの、もう、任務は終わったのでしょう? 里に帰ったら、十日間だけ、交換日記をしませんか?」
「……は? 交換日記ですか?」
「ええ。だって、私たち、恋人らしいことをしないままに、いきなり夫婦になってしまうでしょう? 少しの間だけでも、それらしいことを味わいたくて」
「……恋人、ですか」
「違うのですか? ネジ兄さんは、私を『好き』だと言ってくれました……。私もあなたが好きです。互いに想い合っているのだから、恋人ではないのですか?」
「……色んな意味で、先が思いやられます」
「嫌ですか?」
「いえ、嬉しいです」
「よかった……」
必死に紡いだ言葉は、どうにかネジに届いたようだった。
実は、昨日見つけたノートに、ヒナタのぶんは書き終えている。
表紙に描かれた、ヒナタの生まれた日、そう、ふたりの、結婚記念日になる日でもある十二月二十七日の誕生花、イチゴの花言葉は――。
……幸福な家庭。
この宿場町を覆うざらめ雪のように、溶けたり凍ったりを繰り返しながら、長い人生を、丁寧につくり上げてゆきたいと願う。
幼少期を孤独に過ごした彼の寂しさをできるかぎり埋めてあげたい。
あたたかい家庭をつくってあげたい。
例に漏れず、さいごの夜も手を繋いで眠りについた。
寒いから同じ布団であたためてほしいとねだってみても、「危ないから」と断られてしまったけれど……。
*
里に帰ってからは、あっという間に時間が流れていった。
交換日記を交わす度に口づけを交わして、少しは慣れたといっても、やはり口の中に熱いものが押し入ってくる感覚は、どこか怖くもあった。
しかし、ネジが真っ直ぐな瞳を向けてくれるので、さらにはぎゅっと抱きしめてくれるので、いつまででも身を預けていたかった。
さて、束の間の日常が、早くも終わりに近づいてきた。婚姻の儀はすぐそこまで迫っている。
さいごに、ネジと綴った交換日記を読み返す。
ヒナタは、ネジの書く字が好きだ。紡ぎ出す言葉も。ぜんぶ好きだ。
*
12月17日
昨日、あなたの服を洗濯しました。
よく分からないのですが、とても幸せで、泣きそうになりました。
なぜでしょう? 考えてもやはり分かりません。
それから、あなたの帰りを待つのは、ことのほか寂しかったです。
今後、任務に行くあなたを笑顔で見送るのは私の役目になります。
約束してください。必ず、無事で帰ってくることを。
そしてずっと傍にいてくださいね。
12月19日
何を書くべきか悩んでいるうちに夜が明けてしまいました。
次回はちゃんと書きます。すみません。
12月20日
ネジ兄さんらしいですね。いいんです、何を書いてもらっても。
今日はお昼にそばを食べたとか、どんな夢を見たとか、自由に書いてください。
負担になってしまったようで申し訳ないです……。
でも、少なくとも私はとても楽しんでいます。
12月21日
負担ではありません。断じて負担ではありません。
堅苦しい俺は、あまり気の利いた言葉を知らなくてもどかしいです。
では、今日はあなたの助言に沿って書こうと思います。
昼は、お察しの通りそばを食べました。いつかあなたにも作ってもらいたいです。
夢は……。
ここに内容を書くことは憚られますが、あなたが出てきました。
別に今に始まったことではありません。
俺はあなたの夢をよく見ます。
12月22日
嬉しいです。私もあなたの夢を見ます。
小さい頃から始まって、下忍の頃のあなた、中忍に昇格したあなた。
……それから、上忍になった今のあなたも。
夢の中では手を繋ぐことが多いです。
私はあなたと手を繋ぐのが好きみたいです。
だから、また繋いでくださいね。
12月23日
すみません、また書くことがなくなってしまいました。
俺は、今も昔も、特に誰かに語るまでもない毎日を送っています。
でも、変化のないことはある意味幸せなのだと思ったりもします。
手は、言われなくても繋ぎます。
12月24日
ついに三日後ですね。
ずっと、あなたは私との結婚が嫌なのではないかと心配していました。
誰よりも大切なはずのあなたを、無理やりに縛り付けてしまうのではないかと。
でも、今は、不安に思っていたのが嘘のように幸せです。
早くあなたの元に行きたい。そう思います。
12月25日
嬉しいです。ありがとう。
あなたには俺しかいないなどと、大それたことを申し上げるつもりはありません。
ただ、今も昔も、俺にはあなたしかいない。それだけは胸を張って言えます。
だから安心してください。俺はあなたといると間違いなく幸せです。
……というようなことを、先日の手紙に書きました。
雪で、すべて滲んでしまいましたが。
覚えていてください、俺はあなたを心から愛しています。
一生、あなたが好きです。
*
12月27日
私も、あなたを愛しています。
一生、あなたが好きです。
明日の日付で、ヒナタはさいごの日記を書いた。一字一字丁寧に、心を込めて書いた。
小さな宴の前にネジに伝えたい。言葉ではなく、文字で伝えたい。そう思った。
「……ネジ兄さんは、喜んでくれるかな?」
ヒナタの誕生日を優先したため、当日は先負だ。ゆえに、式は午後に執り行う。
雪が降らないことを祈って眠りにつく。
今夜も、夢で会えたらと願って。
夢の中では、案の定ネジと手を繋いで、やさしく笑い合っていた。