2015.12.03更新
ヒナタの流す涙を、不謹慎にも綺麗だとさえ思った。
言ってやればいい。一言、彼女を安心させる言葉を。そう、簡単なことだ。そのたった一言を口にすれば、不安に侵された心を、救ってやれるのだ。そしてそれは、今のネジにしかできないことなのだから。
昔から、正の感情を表すことが、どうも苦手だった。理由はあまりにも明白である。
……ずっとひとりで、孤独に負けないよう、心を殺して生きてきたから。
父を失ってからというもの、ひたすらに虚勢を張って、辛くても悲しくても、何でもないような体を貫いてきた。強がって、不毛な意地を張って、戦い続けてきた。
負けるわけにはいかなかったのだ。自分が生かされているのは、父が命を代償にして繋いだ、平和な未来の世界だから。ネジの忍としての才能を信じ、分家に生んだことを悔やみ、強く生きることを望んだ父。
その、唯一ともいえる大切な家族を、裏切るわけにはいかない。
まだ何も知らなかった幼い頃、一つ年下の従妹――現・婚約者のヒナタ――のことが、何よりも大切だった。
一生、ともすれば命をかけても守り抜きたいと、純粋に彼女を想っていた。
そう、ヒナタの父であり、そして日向一族の当主でもあるヒアシの影武者として、双子の弟の父が殺されるまでは。
一瞬、悪い夢を見ているのかと思った。いや、自分にそう言い聞かせて、現実から目を背けたかったという方が正しいのかもしれない。それは確か、ネジが五歳くらいのときのことだった。
真っ直ぐに愛していた従妹が、憎しみの対象へと変わってしまったのは。
父が死んだのは、決してヒナタのせいではない。そんなことは、分かっている。しかし。
心の底の、奥深くから湧き出てくる真っ黒な情動は、幼く未熟だったネジには、到底受け止めきれる類のものではなかった。誰かを恨むことは、思いの外息苦しかったけれど。
……それがかつて愛した相手だったならなおさらだ。
その後は、思い出したくもないくらい。
おそらく、いわれのない罪悪感に支配されていたヒナタは、元来のやさしい性格も相まって、ネジの負の感情の捌け口にされても、甘んじて受け入れ続けてくれた。
自分でも、相当にひどいことをしたと思う。彼女を目の前にすると、なぜか途端に理性が利かなくなって、公の試合で、命に関わりかねない怪我を負わせてしまったこともあった。
それでもなお、健気にネジを案じてくれるヒナタに、本当はずっと、甘えていたのかもしれない。
振り返ってみれば、これまで、ヒナタを想わない日など一度もなかった。どんな感情であれ、気の遠くなるような長い時間、囚われ続けてきた。
こんな日がくるなんて、にわかには信じがたかった。
いい奥さんになりたい。何があっても傍で支えたい。まさかヒナタがそんなふうに思ってくれているとは、想像もつかなかったのだから……。これまで、散々痛めつけてきたのだ。どうせ、疎まれているのだとばかり思っていた。
それにしても、「大切に思う」とはつまりどういうことなのだろう。ヒナタは、ネジを想うと「苦しくなる」とも言っていた。それはいったいどういう意味なのだろうか?
ネジがヒナタを想うくらいか、もしくはそれ以上にヒナタも想っていてくれていたらと願う。
長年、固執し続けていた相手。もはや狂気にも似た感情。
……憎しみながらも、ずっと忘れられなかった。
たとえば、ネジがヒナタへと注ぐ想いを「恋」だとする。ところが色も深さも、一般的なそれとは、大幅に乖離しているように思う。真っ直ぐなようでひどく歪んでいて、言葉にしようとしても、不穏な単語ばかりが並んでしまうのだ。
一方のヒナタは、清らかに澄んだ「慈愛」をネジに向けてくれている。
白と黒、表と裏ほどに真逆なふたりの心が、そう簡単に重なるとは考えにくかった。
*
さらさらと、乾いた雪が視界を覆う。
婚姻の儀は、もう二週間後に迫っている。遅くとも一週間後には仕事を終えて、早く里に戻らなければならない。
火の国からほど近い宿場町で、現地民を装い、ここに滞在しているとされる、ある忍の情報を探り出す。それが、結婚前さいごの任務だった。
忍装束の代わりに着物を、額あての代わりに包帯を巻いて髪をおろす。紺色の傘を差して街を歩いていると、不意に、降り積もる淡い雪に、ヒナタを重ねてしまった。
……白くて、ふわふわで、やさしい。大きくなってからというもの、戦いや修行以外で接したことはほとんどないけれど。
きっとそう、あたたかくて柔らかいに違いない。早く、その手に、その体に触れたい。
――ずっと孤独に戦ってきたあなたに、あたたかい家庭をつくって差し上げたいと、心からそう思います。
そう言って、頬を薄桃色に染めるヒナタを、思い切り抱き締めたかった。言葉で、想いを伝えたかった。それなのに。
臆病な心が邪魔をして、結局、どうすることもできなかった。
結果、ヒナタを不安にさせて、泣かせてしまった。
……言えない。
ネジのヒナタへの想いは、あまりにも重すぎて、とても口にできるものではないから。ヒナタを、怖がらせてしまうかもしれないから。だから、言えなかった。
この街には、雪の白以外にあまり色がない。
夜、宿に帰れば、窓の外は、濃藍の闇に包まれ、ささやかな外灯の届く範囲だけが、きらきらと銀色の光を放っている。
粉のようなさらりとした雪は、木の葉には降らない類のものだ。
ネジがよく知るのは、どこか湿っていて、重量感のある雪。ヒナタと何度も見た雪を、今年はまだ一緒に見ていない。
次に会うときは、素直な気持ちを伝えたい。そう思えば思うほど、意固地になってゆく矛盾を自覚する。今さら、意地を張るなんて。
それはまるで子供じみていて、未だにヒナタの前では抑制が利かなくなる自分が、ひどく可笑しかった。
これから一生を共にする相手へ、心を込めて、手紙を書くことにした。
一族の思惑が透けて見える結婚とはいえ、ネジが何より渇望していたものがようやく手に入るのだ。ずっと焦がれ続けてきたことを、ヒナタに知られてしまうのは癪だったけれど。
ヒナタが泣いていることの方が、もっと嫌だった。
雪の華よりも白い便箋に、文字を刻んだ。自分の字は、あまり好きではない。堅苦しく古風な人間性が、一目で浮き彫りになるような気がして。
けれども大切な人を安心させたくて、ひとりきりの宿、簡素な文机に向かって悪戦苦闘した。
……想いが、届けばいいのだが。
粉雪の舞う師走の夜、伝書鳥に付文を託した。
*
木の葉の里には、今日も湿った雪が降り注いでいる。
ヒナタは結婚準備のため、しばらく任務を休んでネジの帰りを待つ。早く帰ってきてほしいような、ずっとこのままでいたいような、複雑な心境に支配されたまま。純白の婚礼衣装は、変わらずヒナタの部屋で出番を待っている。
どこかぼうっとしながら、明け渡す部屋の整理をしていると、屋敷内に、ばたばたと忙しない足音が響き渡った。
「姉様! 手紙が届いていますよ。たぶん、ネジからかと……」
騒音の主は、妹のハナビだった。
――向、ヒナ、ネ。
唯一読み取れたのがその四文字だけの、簡素な白い封筒。心なしか、少し、濡れているような気もする。だが、この字は間違いなくネジのものだ。これまでに何度も目で見て、何度も指で触れた字だ。見紛うはずもない。
真っ直ぐで、真面目で、角ばっているけれどやさしい字。ヒナタはネジの書く字がとても好きだった。
ハナビが持ってきた手紙を、寒さからなのか、緊張からなのか、震える手で開封した。なぜか期待してしまう。欲してやまない言葉が、そこにあるのではないかと。
……ところが。
「……え? 水墨画?」
そこには、墨でうっすらと描いたようなぼかした柄が、紙いっぱいに広がっていた。
ネジは絵を描くのだろうか? そんな趣味はなかったはずだが……。
いや、違う。よくよく目を凝らしてみると、何らかの文字を書き綴った跡に見えなくもない。忽ち、ヒナタの心に不安がもたげた。
なぜかは分からないが、急に、何かよくないことが書かれていたのではないかと思えたのだ。
……だってネジは、ヒナタとの結婚を、今でも肯定しているようには見えないから。
「も、もしかして、やっぱりやめましょう、とかそういうこと? いや、でも、この期に及んで律儀な兄さんがそんなこと……。いや、だからこそ? 今ならぎりぎり間に合うから、私なんかのために、一生を棒に振りたくはないから……。ようやく目が覚めたの? そ、それとも、他に相応しい人を見つけたとか? 別に私でなくたって、ネジ兄さんだったらいくらでも相手がいるもの。やっぱり、兄さんは嫌なのかな……。きっとそうよ。そうに違いないわ。でも……」
挙式まで、あと十三日。夜が明けたら、あと十二日だ。
ありもしない想像をふくらませて、ぶつぶつとひとりごちて、その日の夜は一睡もできなかった。