2015.11.28更新
年の暮れ、わずかな陽の光さえも届かない、冬の昼下がり。
ちらちらとまばらに舞う雪が、新しい日々への不安を、いっそう煽り立ててくる。
もうすぐ十七歳を迎えるヒナタは、部屋でひとり、どこまでも果てのない白を見上げて、深いため息をついた。
「はぁ……。あと、二週間。ここまできたら、もう後戻りはできない」
冴えない顔で、窓から室内へと、視線を戻した。
そこには凛とした花の地模様が描かれた、まばゆいほどに立派な、正絹の着物が掛けてある。降り積もる雪と同じ、濁りのない白。
特別にあつらえられた婚礼衣装は、落ちこぼれのヒナタへ、父・ヒアシからの、最初で最後の贈り物になるかもしれない。
婚約者の誕生日である七月三日の誕生花、白のカキツバタに込められた想いは――。
……幸福はきっとあなたのもの。
厳粛な父が、柄にもなく恥じらいながら口にしたのは、泣きそうなくらいに、やさしい花言葉だった。
*
季節は、夏までさかのぼる。
ずいぶん遅れはしたが、ようやく中忍へと昇格した。
ずっと先に上忍になったネジ――一つ年上の、分家生まれの従兄――には到底追いつけそうもないが、劣等生の烙印を押されていたヒナタは、わずかに安堵した。
名門の日向宗家に生まれてこの方、忍として、一度も評価されたことはなかった。もちろん、今だってそうだ。
それでも、ヒナタにとっては、血を吐くような努力をして、やっと手にした称号だった。
しかし、ここで満足するつもりはない。まだスタートラインにも立てていないのだ。
これからはもっと強くなって、そして、自分が不甲斐ないばかりに、一族の業、そのすべてを押しつけてしまっている、妹のハナビを救いたい。
五つ年下の妹は、一族始まって以来の天才と賞されるネジほどではないが、忍としての能力は申し分ない。まだ十一歳と幼いことを思えば、この先、いくらでも上を目指せる。
一方のヒナタは、良くも悪くも普通。いや、もはやそれ以下かもしれない。順当にいけば、いずれ日向を背負って立つのは、長女の自分の方だというのに。妹に苦渋を強いていることが、ひどく情けなかった。
……五つ下のハナビにすら劣る出来損ない。あやつは日向には要らぬ。
幼い頃の父の一言が、いつまでも胸に突き刺さったまま、一向に癒えることはない。
でも、泣いても嘆いても、それが事実なのだから仕方がない。そう思って、どこにも行き場のない悲しみを、心の奥底へと押し込んできた。
それから、いくつもの季節を越えたけれど――。今もなお、負けたくない、逃げたくないと、弱い自分をどうにか奮い立たせて、踏ん張っているのだ。
そんなヒナタを蔑み、憐れみ、宗家への怒りの捌け口にしていたネジは、今では、嘘のように丸くなった。
いつもひとりで、誰も近づくなとばかりに、冷ややかな空気を纏っていた彼は、今はもうどこにもいない。
父・ヒアシの双子の弟であるヒザシ――家族を、一族を、里を守って散った英雄――それが、ネジの父だ。クールなネジが、唯一愛し、大切にしていた人だ。
……そう、彼を犠牲にしてしまったのは、他でもない。ヒナタと、ヒナタ属する、日向宗家の面々。恨まれて当然だ。何もおかしなことはない。
けれどもネジは、逃げ出したくなるような、さらには生きることの何もかもを諦めたくなるような、そんな悲劇的な状況においても、ただひたすらに、まっすぐに走り抜けてきた。
ヒナタは、儚くも懸命に強くあろうとする彼を、心から誇りに思う。宗家も分家も関係なく、ずっと傍で支えられたらとも。
……今のネジが、ヒナタを、どう思っているのかは分からないけれど。
己にも他人にも厳しかったネジ――相変わらず、自分には厳しいままのようではあったが――が、ようやく柔らかな笑みを向けてくれるようになった頃、ふたりに、これまでの軌跡をすべて覆すような、劇的な分かれ目が訪れた。
それは、夏の始まりの、空が最も高い日だった。まだ朝だというのに、照りつけるような日射しと、まとわりつく長い髪が、ことさら鬱陶しかった。
父に呼ばれて、久しぶりに入った奥間には、なぜかネジがいて……。そこで告げられたこと、いや、命令というべきか、その言葉に、ヒナタは驚愕した。
同じく呆然自失となったネジの、その何ともいえない表情が、真冬を迎えた今でも、どうしても忘れられなかった。
*
婚姻の儀は、二週間後に迫っている。
任務でしばらく空けているネジの家には、日向の家紋入りの、黒の婚礼衣装が、すでに届いていることだろう。
あれから、互いに言葉を交わすこともままならず、瞬く間に秋を飛び越えた。上忍のネジには絶えず仕事が舞い込むからということもあるが、それだけではない。
今後の日向の発展のため、ふたりに有無を言わさぬ空気が、確かに一族全体に蔓延していた。そうやって、周りから畳みかけるように進んだ縁談に、戸惑いを隠しきれない。
だが、一族の当主である父の目論みは、ヒナタにも十分理解できた。おそらく、この先の日向一族において、ネジは一番の実力者になることだろう。彼を、直系のヒナタの夫とすれば、何かと都合がいい。
そうやって、彼から父を奪っただけでなく、自由までをも拘束するやり方が、ヒナタにはどうしても納得いかなかった。
自分にもっと力があればと、何度己を責めたことだろう。もう、後戻りはできないけれど……。
――ネジ兄さん、ごめんなさい。何も、できなくて……。結局私もまた、あなたを苦しめる側の人間になってしまった。
――せめて、立派な奥さんになって、あなたを支えられたらいいのだけれど。
*
今から二週間前、小さな挙式と宴まで、またヒナタの十七歳の誕生日まで、ちょうど一ヶ月に迫った頃のことだ。例に漏れず、立て続けの任務に追われる従兄が、里に帰ってきた。
彼の束の間の休日に家まで押しかけ、いまさら言っても仕方のないことを、勇気を出して問うてみた。
「……ネジ兄さんは、私との結婚を、どう思いますか?」
消え入りそうな声で紡いだその言葉に、婚約者のネジは一瞬考え込んで、
「……あなたの方こそ」
そしてそっけなく答えた。
自分はどうなのだろう? そんなことには、まったく思い至らなかった。
父にネジとの結婚を命じられてからというもの、考えるのはネジの気持ちばかり。ずっと恨み続けてきた従妹と、それも半ば政略結婚のようなかたちで家庭を持たされることになって……。その心中を想うと、胸が張り裂けそうなくらいに苦しかった。
彼は、いったい何のために生まれてきたのだろう。
たまたま日向の分家筋に生を受けたというだけで、別に望んでそこに生まれたわけではないのに、その儚い生涯の、すべてを宗家に捧げることになってしまった。
……彼は今、何を思うのだろう。
ヒナタは今、何を思うのだろう。
「わ、私は、ただ……。あなたの自由を奪ってしまうことが、辛くて……。幼い頃、仲の良かったあなたと離れ離れになってしまって、とても悲しかったけれど……。今も昔も、あなたを大切に思う気持ちは変わっていません。ここのところ、あなたを想うと苦しくなるのですが……」
ヒナタの言葉に、ネジはわずかに眉を寄せ、俯いて目を伏せた。
あれからネジは一度も笑わない。叔父の死によって、がんじがらめになったふたりの関係が、少しずつ、少しずつほぐれて、また以前のように、実の兄のようなやさしい笑顔を向けてくれるようになっていたのに。
今後のふたりを繋ぐはずの「結婚」が、奇しくもふたりの心を、引き離してしまうのかもしれない。
ヒナタは、不安そうな面持ちで、ネジの言承けを待った。
しかしてネジの答えは、
「宗家に対して、いまさら何を思うでもない。……あなたに対してもだ。だから気に病むことはない」
ヒナタには、よく分からないものだった。
せめて自分だけでも彼を想っているのだと伝えたくて、もう一度息を吸った。
「あ、あの……。ひとつだけ言わせてください。ずっと孤独に戦ってきたあなたに、あたたかい家庭をつくって差し上げたいと、心からそう思います。できるかぎり、いい奥さんになれたらとも。これから先、何があっても、あなたを傍で支えたいです」
かじかんだ手は震えているというのに、冷たかったはずの頬は、驚くほどに熱い。
近くに鏡がなかったので確認する術はないが、おそらく相当に紅く色づいていたことだろう。しばらくの沈黙ののち、ネジが、感情の読めない声で応えた。
「……安心した」
わずかに微笑んだネジの、その褪めた表情が、胸を刺した。
婚約中のふたり。本来ならば、期待と幸せに心を躍らせているはずなのに。
こうしてふたりでいても、ネジは一切触れてこないどころか、ほとんど笑いもしない。きっとヒナタを妻に迎えることを、肯定しきれないのだろう。
悲しくて、苦しくて、何より申し訳なくて、気づけばヒナタは涙を流していた。ネジは困ったようにヒナタを見つめるだけで、何もしなかった。
*
部屋が薄暗くなってきた。
昼間は消していた電灯をつけると、窓の外のささめ雪が、その橙色の光を拾って、きらきらと瞬いた。
任務で里の外にいるネジも、どこかでこの寂しい景色を眺めて、ヒナタとの未来を憂いているのだろうか。
宿場町に潜入し、ひとりで情報収集をするのだと聞いている。ネジ本人からではなく、人づてに、それを知った。二週間後には夫婦になるというのに、この調子で大丈夫なのか。心配は尽きないけれど、もう、後戻りはできない。
星くずのように輝く、冷たい雪の一片に、小さな小さな願いを込めた。
――ネジ兄さんの未来が、少しでも、あたたかいものになりますように。
――少しでも、力になれますように。