2015.10.15更新
大切なものを奪ったという背徳感。だけど今でも好き。
矛盾を抱えたまま、ヒナタはそれでも彼を想うことを止めない。彼の心に降り積もる、さながら灰色の雪のような、深い深い哀しみを散らせるまでは。
――私たちは、どうしてここに生まれてきたのでしょう。どうして戦うのでしょう。
ヒナタが望むのは、至極平凡で、平和な毎日。そこには優しい従兄の存在が必要だった。しかし、二人を切り裂いたのは、あまりにも残酷な現実で――。七年経った今でも、決して忘れられない。幼かったあの頃のように、柔らかな笑みを向けてくれる従兄はもう居ない。分かっている、分かっているけれど、諦められないのだ。未だ独りで苦しみ続ける彼を放っては置けない。いつも、力いっぱい、突き放されてしまうけれど。
けれどもその瞳の奥に、強く救いを求めんとする、息苦しいほどの寂寞の色が見て取れて……やはり彼を、一人にはして置けないと思う。
――ネジ兄さん……私たちは、どうして出逢ってしまったのでしょう。どうしてこのような運命に、見舞われてしまったのでしょう。
「……嫌いなんだ。もう、関わらないでくれ」
大好きだった筈の彼の声を聞けば、麻酔のように感覚を奪われて、途端に凍り付く心を、ヒナタにはどうすることも出来ない。だがヒナタは、どんなに冷たくされても、どんなにひどく傷付いたとしても、いつまででも、彼に向かってゆくと決めた。強くなると決めた。それが、自分に出来る唯一の罪滅ぼしだと思うから。
遠慮がちに差し伸べられる手をひたすらに拒みながらも、誰かと慈しみ合う居場所を欲する、隠し切れないくらいの感情が、ネジの中に烈々と滾っている限り。
ヒナタは、絶対に諦めない。
かつて共に在ったネジとの欠片は、今もなおヒナタの中に息づいている。こんなにも苦しむのならば、夜空を瞬く星屑のように、やがて塵となって消えてしまえばいいのにと思う。思うけれど、ヒナタにはやはりネジが大切で、確かに紡いだ幸せな記憶を、今更無かったことになど出来ないのだ。
同じアカデミーに通う彼とは、たまに校舎で顔を合わせることがある。その度に鋭い目で捕らえられて、事情を知らない級友たちに、余計な心配を掛けてしまう。いや、それだけではない。
「あの一期上のルーキーって人、本当に感じ悪いね。ちょっと強いからって、人を見下したような生意気な態度がどうも受け付けない」
「いつも仏頂面で、何が気に入らないのか知らないけど、すっごい嫌な奴」
この学校で、彼の善い話は一切聞かない。
ネジ本人は気にも留めていないのかもしれないが、しかしヒナタは、彼が誤解されていることが、何より悲しくて、悔しかった。
――違うの。ネジ兄さんは、そんな人じゃない。本当は、誰よりも人想いで、優しい人なのに……。
目に触れるもの全てを粉々に砕いてしまいそうな、そんな脆く儚い闇を抱えた彼を、どうにかして救い出したい。
きっと彼は、今もなお光を求めて、独りで彷徨っている筈だから。
――私があなたの光になれるなどと、そんなことは到底言えないけれど……私にはあなたがとても大切なんです。
――あなたを照らす光を、共に探し出したい。強く、そう思います。
ほんの少しでもいい。悲運な彼を支配し続ける哀しみを、出来得る限り、取り除いてあげたい。ヒナタは今日も彼を想い、胸を痛めていた。
「ヒナタ様。今日は非番なので、宗家までお送りいたしますよ」
ある日の帰り道、声を掛けてくれたのは、ネジの二つ年上の、分家のコウだった。同じ分家の生まれでもコウはネジと違って、至って柔らかく、落ち着いた雰囲気を纏っている。その日だまりのような優しさに、これまで、何度救われてきたことだろう。
果たしてそんな彼でも、日向宗家に対して、不穏な感情を抱くことがあるのだろうか。ふと、気になって問うてみた。
「コウさん……いつも、ありがとうございます。あの、私なんかの世話を焼いていて、嫌になることはありませんか?」
コウは穏やかな表情を崩さぬまま、ゆっくりと答えた。その優しい笑顔は、昔のネジに、どことなく似ている気がした。
「……以前にも申し上げましたね? コウと、そう呼んで下さい。それに敬語も止めて下さい。私は、仕えるべき相手が、あなたのような優しい方でよかったと心底思っています。本当です。安心して下さい。ところで私の思い過ごしならいいのですが、またネジと何かあったのですか? どうやらあなたは、いつまでも彼に縛られているようだから……」
いつも純粋に案じてくれるコウになら、打ち明けられるかもしれない。ヒナタは、正直に答えた。
「……嫌いだと、関わらないで欲しいと、そう言われました」
自分が嫌われていることを知られるのは、決して気持ちのいいことではない。自ら口にしておきながら、何とも言えない、胸の痞えを感じた。しかして微笑んだままのコウに幾らか安心して、ヒナタは、彼からの言承けを待った。彼は些か眉を下げ、困ったような表情で口を開いた。
「ネジが、そんなことを……あの、思うのですが、本当に嫌いな人に向かって、わざわざそのようなことを伝えたりしないのではないでしょうか? 恐らく、彼はヒナタ様のことを相当に気にしているように見えます……だからあまり落ち込まないで下さい。彼も、独りでかなり苦しんでいると思うので」
「そうですよね……あの、変なことを聞いて申し訳ないのですが……あなたは日向一族に生まれたことを、そして分家に生まれたことを、どのようにお考えですか?」
「……ああ、そんなこと。少なくとも私は、難しく考えてはいませんよ。だって、生まれ持った不可抗力な事柄に対して、何を思っても仕方ないでしょう? ここに生まれたからには、与えられた役割の中で、最大限の努力をするまでです。そんなものだと思いますよ。どうにもならないことを変えようともがくよりも、ささやかでも、今持てる幸せを大切にしたいです。分家にはこんな人間もいます。ですからヒナタ様もあまりお気になさらぬよう」
「コウ、ありがとう……私はあなたが大好きです」
勿体無いです、とはにかむコウが、一族の中での唯一の味方だ。もし彼がいなければ? 考えただけでも恐ろしくなった。そうなると、ヒナタもまた独りぼっちになってしまう。では、ネジは? ネジは今も独りでいるというのに、自分だけが幸せに包まれていることに、またしても、罪悪感を覚えた。
――ネジ兄さんの為に、私が出来ることとは? 彼の幸せとは、一体何なのでしょうか?
懸命に考えても、答えは導き出せなかった。
ただヒナタは、十一歳のネジの、優しく笑った顔が見たい。きっと、儚いくらに綺麗なのだろう。幼い頃の彼の笑顔は、ともすれば女の子と見紛うくらいに、本当に可愛かったから。だけど現実は。
いつだって眉間に深い皺を寄せて、固く結んだ口角を下げたまま……氷のように冷たい視線を、所構わず振り撒いている。これでは、余計に孤立してしまいかねない。
彼を見ていることが、ただただ辛くて仕方がなかった。
そんな折だった。父・ヒザシの月命日には、決まって塞ぎ込むネジの姿を知ったのは。かつて独りで泣いているのを見たこともあったけれど、最近はどうも違うらしい。これまで以上に心を閉ざして、その翌日には、一切の表情を消して人を遠ざけるのだ。
見ていられなくて、思わず、声を掛けてしまった。コウのいない放課後、夕陽の射す演習場沿いの通路、互いに独りの帰り道だった。枯れかけの木々に囲われたそこは、ひどく物寂しい場所だった。
「……もうオレに関わるなと言ったでしょう? 嫌がらせですか?」
ネジはやはり冷たくて、その声も視線も、ヒナタの心を切り裂くかのように鋭かった。泣きたいくらいに痛かったけれど、ネジはきっと、もっと痛い筈だから……呼吸を整えて、どうにか声を絞り出した。
「随分、苦しそうに見えますが……大丈夫ですか? 私に、何か出来ることはありませんか?」
「……綺麗事は要らない。あなたのそういうところが受け付けない。オレを気遣う心があるのなら、放っておいて下さい。はっきり言って迷惑です」
低く言い放たれた言葉に、胸が音を立てて軋めくのを、強く、強く自覚した。
だが負けない。幼い頃からずっと独りで生きてきたネジは、弱みを見せられないだけで、本当は、誰かに寄り掛かりたいと思うから。
――負けない。今でも、大好きだから。
こんなにも苦しんでいる従兄を見放すことなど、ヒナタには絶対に出来ない。
「嫌です。放っておけません……私は、あなたが……っ!」
「それ以上は、何も言うな」
金属が絡んで弾む音が聞こえて、気づけば道沿いの錆びたフェンスに、力任せに押し付けられていた。
斜めの格子柄が、薄い装束越しに食い込んで、突然の衝撃に思わず瞑った目を開けば、すぐ近くにある瞳は、夕陽を拾いながらも驚くほど褪めた色をしていた。ヒナタには、助けを求めているようにしか見えなかった。灰色と紺色の服に白い肌、冷たい目……その長い黒檀の髪だけが、赤い太陽を透かして煌めいている。息苦しくて、視界の中の唯一のあたたかい色に、そっと手を伸ばした。荒ぶる猫を、手懐けるかのように。ゆっくり、ゆっくり、その髪に触れようとした。
あと少しで手が届きそうになった時、手首に、鈍い痛みが走った。自分よりもずっと大きなネジの手で、その冷たくて繊細な手で、じわりじわりと力を籠められ、フェンスに縫い付けられてしまったのだ。それから空いたもう片方の手も掴まれて、思い切り、押さえ込まれた。
背中には、未だ食い込んだままの鉄格子。目の前には、哀しみを滾らせた、揃いの瞳が揺れている。彼に触りたくても、きつく縛られた手首が痛んで身動きが取れない。身を捩ってみても、金属同士が軋む音が、虚しく響き渡るだけ。
為す術がなくて、ヒナタは真っ直ぐにネジを見据えた。
「……あなたの気が済むのなら、私を、好きなようにして下さい」
ネジは何も答えなかった。何も言わず、遠慮気味に体を預けてきた。冷えきった指先とは対照的に、その上半身は融けそうなほどに熱くて、伝わる鼓動に、何故だかひどく安心した。さらさらと流れる黒檀の髪が頬を掠めて、少しくすぐったかったが心地よかった。
やがて夕陽が沈み、赤く眩しかった視界が濁った青に染まっても、未だ無言のままに身を寄せてくる彼は、心なしか震えているような気がした。
静寂を破ったのは、ヒナタの方だった。
「ネジ兄さん……あの、手を、離していただけませんか? あなたに、触れたいです……」
しかしその小さな願いを、聞き入れては貰えなくて――。尚も力を籠められたままの手首は、痛みを増すばかりだった。
――独り哀しみと戦うあなたを、包み込みたいのに……その寂しさを、散らしたいのに。
耳元で、聞こえたのは。
「オレは、あなたと……」
――共に明るい未来を、紡ぎたかったのに……何故だろうな。上手くいかない。
大好きな、鼻に掛かった低い声は、ずっと焦がれ続けた、優しい従兄の声だった。押し付けられたままの背中は、随分痛んだけれど。少し高いネジの体温を感じていれば、補って余りあるほどの幸せがとめどなく押し寄せてきて――。また、彼の傍でその笑顔が見たいと、痛切に念った。
――私も、あなたとの明るい未来を、心底望んでいるというのに。
ネジにとっての光は、ヒナタであるとは決して言えない。直接的ではないにせよ、彼を孤独に追い遣ったのは、間違いなくヒナタの生まれた宗家の闇が招いた結果だったから。けれども彼を想う心が溢れて、もうどうにもならないのだ。
灰でできた雪と見紛うほどの、淡く煙った空気に包まれた瞬間……不意に、ヒナタを縛っていた鎖が解けた。ネジはもう居なかった。痛くてもいいから、もっと触れていて欲しかった。
視界の端に一瞬きらりと光ったのは、砕け散った星屑のような、涙の欠片だったのかもしれない。
儚く降り積もる哀しみを、いつか必ず散らしてあげたいと、心から願った。
――鬱陶しい、迷惑だと、突っ撥ねてくれてもいいから。
――どうか、一人で泣かないで……お願いだから。