2015.09.23更新
時々、この世界の全てが忌々しくなる。
しかしそんな時に限って、毎回俺を訪ねて来る人がいる。かつては可愛がっていた……心から大切だと思っていた一つ年下の従妹だ。
俺の唯一の支えだった、誰よりも愛していた父上の去ったこの世界は、まるで灰色に包まれたかのように色褪せてしまったというのに。黒髪、色白の肌、家紋入りの黒い着物――。そんな、如何にも辛気臭い、白黒で埋め尽くされた腐った一族の中。
――たった一人、紺藍の髪に、淡い紫やくすんだ桜色の着物を着た人。
――かつては好きだと思っていた人。
ところが今は、誰よりも距離を置きたくて、誰よりも受け付けなくて、誰よりも嫌いな人だ。
ここのところ、ヒナタの顔を見るのが息苦しいほどに辛い。以前は仲良く手を繋ぎ、あんなにも優しい笑顔で寄り添っていたというのに。他でもない彼女に、彼女率いる宗家に、大好きな父を奪われてしまってからは、ずっと突き放し続けていた。
「ネジ兄さん……今日は、ヒザシ叔父様の月命日ですよね? あの、よろしければこの花を……私にも共に、祈りを捧げさせては貰えませんか?」
おずおずと、俺の顔色を窺うような。自分こそが被害者だと言いたいかのようなその態度が、どうしても気に食わなくて。
毎月訪ねて来る彼女を、俺はいつも冷たく追い返していた。
――だが、それでもめげずにやって来る彼女が、憎くて憎くて仕方がなかった。
「……よく、来られたものだな。父上は、あなたのせいで犠牲になったというのに。帰れ。帰ってくれ……! もう、二度とオレの視界に入って来るな」
例に漏れず低い声で言い放てば。花を抱いたヒナタは、目に一杯の涙を溜めながら、俺を一直線に見上げてきた。そう、その顔が嫌なんだ。あなたは父上のおかげで生き長らえたのだから、一体何を不満に思うことがある? 一番辛いのは、このちっぽけな一族の為に、そしてこの不甲斐ない里の為に命を絶たれた、俺の父上ではないのか? 悲劇に見舞われたのは、いきなり父を奪われた、俺の方ではないのか?
「……では、せめてお花だけでも受け取っては貰えませんか? 私は宗家を代表して来ている訳ではなく、ただ、ヒザシ叔父様を大切に想う、一人の姪としてここにいるのです」
「……それが何だと言うんだ? オレには全く関係のない話だ。何を言われようとも、父上が戻って来る訳ではない。その原因を作ったのがあなただという事実も消えない。オレは、宗家を絶対に許さない……もっとも、オレのような身分の者に何を思われようとも、あなた達宗家にとっては痛くも痒くもないのだろうが。とにかく、帰って下さい。花も要りません」
このままでは、埒があかない。玄関の前から一歩も動こうとしないヒナタの腕を乱暴に掴み、門の外まで連れて行った。俺に怯えてびくびくと震えるその態度も、やはり気に食わなかった。腹が立ったので、家の前の道に力いっぱい押し出してやった。ヒナタは尚も震えたまま、涙を流していた。
――泣きたいのはオレの方だ。一体、何だと言うんだ……!
中に入ろうと元いた玄関に戻ると、腕を掴んだ拍子に落ちた、色とりどりの花が散らばっていた。こんな下らないもので、父上の無念が晴らせるなどと思わないで欲しい。心底、怒りが込み上げた。
月命日の夜は、決まって眠れなかった。
これから先、独りぼっちで、一体何を信じて生きればいいのかが分からない。俺の光は、父上の柔らかな笑顔、ただそれだけだったから。そうだ。父上が彼女を守れと、日向の血を守って生きろと言うから、理不尽に思えることにも耐えてきたんだ。しかし、誰よりも大切な人を奪われて、それでも耐え忍んでいけるほど、俺は出来た人間ではない。
まだ十にも満たない未熟な俺には、父上の望んだ未来が……平和が……光が見えない。全くと言っていいほどに、見えないんだ。
広く真っ暗な屋敷の中、独りでいると気が狂いそうだったから。誰もいない演習場へと向かって、鍛練に集中しようと思った。今はこうやって、自分を痛めつけることで、怪我だらけの自分を極限まで追い込み、血に塗れた腕を見ていることで、どうにか平静を保っていられた。
体からの物理的な痛みに気を取られていると、今にも粉々に砕け散りそうな、強い、強い胸の痛みを――。少しの間だけ忘れていられた。
それはほんの一瞬の、束の間のことだったけれど。
その日は一睡も出来なくて、朝まで修行に明け暮れた。かつて父上と見た朝日はとても綺麗だったと記憶しているのに……独りで見る夜明けの空はひどく味気なくて、何も感じることはなかった。西に沈む不知夜月を見ていると、ふと、ヒナタの顔が思い浮かんだ。夜を、暗闇を知らずに……生まれながらに明るい未来を約束されて、誰かの犠牲の上で暢気に笑って生きている。やはり、宗家の者共が許せない。悔しい……!
――この世界の何もかもが忌々しい。
薄汚れた世界を包む月白の空を見上げて……何を思ったのか、気づけば俺は泣いていた。何もかもが見せかけの世界に絶望を感じて、涙が止まらなかった。そう。この世界には、確かなものなど何もない。全てが運命で決められているんだ。
寂しいけれど、哀しいけれど……独りぼっちの俺の目には、もう、何も映らない。
悔しいけれど、苦しいけれど……ちっぽけな俺には、成す術がない。
――ネジ、お前は生きろ。
生きろと言われても……生きる目的、生きる糧がなければ、死んでいるも同然なのではないか? 俺の心は、父上を喪ったあの日に死んでしまったから……もう、何もかもがどうでもいい。一族始まって以来の天才だと、皆から賞されようとも。どんなに強くなろうとも、所詮俺は分家の生まれで……一向に、努力が報われることはないから。
こうやって鍛練に夢中になっているのも、決して前向きな理由ではなく、嫌なことを忘れる為に、ただ自分を痛めつけているだけだというのに。
――父上。どうしてオレを独りにしたのですか? いっそ、オレもあなたの元へ行けたら……。
――ネジ、お前は生きろ。
生きるとは何だろう。希望とは何だろう。今の俺には到底分からない。
――ネジ兄さん!
鈴の音のように澄んだ、清らかな声が聞こえた気がした。
俺もそう馬鹿ではない。分かっている。彼女自身には罪がないということくらい。ヒナタだって、好きで日向宗家に生まれた訳ではない。好きで俺の父上に庇われたわけではない。頭では、分かっているけれど――。でも……自然と湧いてくる感情は、自分ではどうすることも出来ないから。がんじがらめになった心を、自分では、もうほどくことが出来ないから。
――ヒナタ様。すまない……未熟なオレを、許して下さい。オレはあなたを……宗家を、どうしても許せない。
嗚咽に息が乱れ、しゃくり上げるほどに泣いて、それでもやるせなくて……泣いても縋っても、目に映る残酷な現実は変わらなくて。やはり、光は見えなくて――。
本当に、遣り切れなかった。
「……ネジ兄さん?」
気づけば随分時間が経っていた。日が昇り切った頃、背後に柔らかいチャクラを感じた。ひどく血だらけの腕と、泥と汗、それから涙に塗れた顔を見られる訳にはいかない。振り返ることが出来ずに、背を向けたまま立ち上がった。
「あっ……! あの、大丈夫ですか?」
そういえば、ここ最近何も食べる気が起きなくて、まともに食事を取ったのがいつなのか思い出せない。立ち上がった瞬間、不意に眩暈を覚えて……気づけば、小さな腕に抱き止められていた。
――駄目だ……ヒナタ様、オレに近づいては、駄目だ。
「……触るな」
掠れた声で紡いだ言葉はやはり、ヒナタを切り裂くかのように鋭いものだった。
分かっている。優しい彼女が自分を強く責めていて、塞ぎ込む俺を心底案じてくれていることは。だけど、どうしても折り合いが付けられなくて……未熟な俺には、まだ、この現実を受け止め切れないんだ。
――いいか、ネジ。あの宗家のヒナタ様……お前は、あの方をお守りして、日向の血を守る為に生きるのだ。
――己が宿命を決して忘れるでないぞ……!
宿命――。宿命とは何だ? 何故、俺達は出会ったんだ? 俺の未来は? 希望は? 光は?
「ネジ兄さん……こんなになるまで自分を痛めつけて……無茶をしては、いけませんよ」
――これから一生を捧げる相手が、優しい方でよかった。
何度突き放しても、何度酷い言葉を吐いても、それでも俺を思い遣ることを止めない。
そんな、腹が立つほどにあたたかい彼女に甘えて、何をしても受け入れて貰えると思って、やるせない想いを際限なくぶつけて。一体俺は、何をしているんだろう。一体俺は、彼女をどうしたいんだろう。
――夜でも虫でも雷でも、怖いものがあったらいつでも言って下さい。オレが必ず傍にいて、何とかしますから。
――何があってもお守りしますから、泣かないで下さい。
――ネジ兄さん……ありがとう。ヒナタと、ずっと一緒にいてね。
守りたい、ヒナタ様を。身分も立場も関係なく、日向ヒナタという一人の健気な女の子を守りたい。でも、憎い。憎くて憎くて仕方がない。そんな相反する感情に飲まれて、俺の心は今にも壊れてしまいそうなんだ。だから、これ以上近づかないで……!
自分でも何をするか分からない。もう、あなたを傷つけたくはないから。
「随分……舐められたものだな。オレは、あなたに心配されるほどに落ちてはいない。他人に構っている暇があるなら、力のない自分を省みて、修行でもしたらどうだ?」
「他人って、そんな……」
分かっている。優しい彼女が、今でも俺を大切な従兄として気に掛けてくれていることは。でも、俺達はもう、相容れることの出来ない関係になってしまったんだ。
だから、あなたは、あなたの道を生きて……いつまでも、罪の意識に縛られることはない。あなたに、罪はないから。
――大切だけど。今でもあなたが、大切だけど……。
「あっ! ネジ兄さん……!」
気づけば俺は気を失っていて……目を覚ました頃には、自宅に寝かされていた。ひどく血だらけの腕と、泥と汗、それから涙に塗れた顔は、見る影もなく綺麗になっていた。すでに日は沈んでいて、窓の外は青い闇に包まれていた。
――ヒナタ様が? オレよりもずっと小さな体で、ここへ運んでくれたのか?
果たしてこの先……自分の未来を、希望を、光を手にする日は来るのだろうか? このひび割れた世界で、自由に空を翔る日は訪れるのだろうか?
ただこれだけ言えることは、独りぼっちになった俺を控えめに思い遣ってくれる、淡い光のような存在が、俺の青褪めてゆく心を、どうにか灯してくれているということだ。
あなたがこの世界にいることが、俺の希望であり、光であるなどとは、まだ、到底言えそうにないけれど……。
ひたすらに失せてゆく熱を逃さぬよう、もう少し、あと少しだけ、受け止めていて欲しい。
どんなに突き放しても……傷つけても……諦めずに、俺を想っていて欲しい。
白と黒の灰色の世界を、淡い色彩で、照らし続けていて欲しい。
――素直じゃない、我が儘だと、笑ってくれてもいいから。
――どうか、見捨てないで……お願いだから。