2016.04.09更新
吹奏楽曲より『さくらのうた』
幼少の二人のお花見の思い出〜現在の二人。
思いの他シリアスで切ないお話に仕上がりましたが、桜が散る前に献上いたします。
はらり、はらりと舞うひづめ型のかけらが、紺色の髪に、蝶のように折り重なった。
背中に、羽が生えているのかと思った――。まばたきさえもが惜しくて、何があっても、絶対に手放したくない瞬間。誰かを「いとおしむ」という感覚を初めて知った。幼くて無力な自分がひどくもどかしかった。
花びらと同じ色をした丸い頬、首をかしげて微笑む仕草、そのすべてに心を攫われた春。彼女を想うと、これ以上ないくらいに息苦しくて、たった四年間の人生では味わうことのなかった、引き裂かれるほどの慕情に身を焦がした。
揃いの薄紫色の瞳に長い黒髪、加えて顔まで同じそれぞれの父と一緒に、海辺の桜の木の下で共に過ごした好日。水色だった空が、やがて群青色から薄紅の階調を描きはじめた頃、川の下流から海へと流れる花筏を眺めていたヒナタが、悲しげな表情で言った。
「もうお別れになってしまうの……。こんなにもきれいに咲いているのに……」
涙混じりのその声が、ネジの心を深く貫き、この人のこんな顔は二度と見たくない、この人のこんな声は二度と聞きたくないと胸に誓ったのだった。
――かわいいひと。生涯仕えるべき大切なひとだから……。
「大丈夫、来年もまた咲きます。毎年四月九日は、必ずここへ来て一緒に桜を見ましょう。約束です」
一瞬にして花が咲き零れたかのような笑み。安心したネジは、ヒナタの髪についた桜の花びらを取ってやり、梳かしつけるように緩やかに、頭を撫でた。一層花開いたその笑顔を、この先、何があっても、絶対に守り抜いてみせる。そう思った。
「約束ですよ。ヒナタはずっとネジにいさんといたい。忘れないでね。絶対だからね」
「はい、もちろんです。オレもずっとヒナタさまといたいです」
「大好きです。ネジにいさんが従兄で本当によかった」
「いとこ……。そうですね。オレもヒナタさまが従妹でよかったです」
思えばこの頃からそうだった。ヒナタに恋い焦がれているのは自分だけだった。
――ネジ、とヒナタ様……! そろそろ帰らないと日が落ちてしまいます。ネジ、里に着くまでヒナタ様の手を離すな。ヒナタ様はお前にしか手を引かせてくださらないのだからちゃんと責任を持ってお仕えしろよ。分かったな?
――はい、父上! さあヒナタさま、まいりましょう。
――うん! でも、まだ帰りたくないんだけどな……。
――我が儘を言うなヒナタ。お前がどうしてもネジと桜が見たいと言うから連れてきてやったんだぞ。もう気が済んだろう?
――まあまあ、兄さん。ヒナタ様が喜んでくださればそれでいいじゃないですか。それに、宗家と分家の従兄妹同士が仲睦まじい姿を見ていると感慨深い。日向の旧習は、このふたりに変えてもらうんです。きっと明るい未来が待っているはずですよ。
――ヒザシよ、お前は相変わらず甘いな。しかし、出来ることならワシらの世代で断ち切りたいところだがな。
――それもそうですね。この可愛い子たちに重荷を背負わせることもない。期待していますよ、当主。私はあなたに付いてゆきます。
――こそばゆいな。何なんだお前は。
――あなたの弟であり側近です。誇り高き日向の忍ですよ。
――父上、かっこいいです! オレも父上のようなやさしい忍になります。
――ヒナタも! ネジにいさんと一緒に、平和のために戦うの。
――この甘ちゃんどもめが……。
あの頃は、このあたたかな日々がずっと続いてゆくものだと思っていた。
額に刻まれた「絶対服従」のしるしは、当時のネジにとって、ヒナタと自分を繋ぐ大切な証しともいえるものだった。もはや誇らしくさえもあったくらいに。ヒナタを守護することは、ネジの生きる糧でもあった。
夕焼けに染まる、春の空の下で交わした「約束」を、果たすことは出来なくなってしまったけれど――。
――父上! 父上! どうして? どうして父上がいなくなってしまったのですか?
――何で? 何で? なぜヒナタさまが攫われたのですか?
――父上の体を渡して、いったい何になるというのですか? 表面上はいったん収まってもまた襲ってこないとも限らないのに……! 日向の明るい未来とは? 旧習は断ち切るのではなかったのですか? こんなのあんまりだ! ちゃんと、納得のいく答えをください……!
「約束ですよ。ヒナタはずっとネジにいさんといたい。忘れないでね。絶対だからね」
「はい、もちろんです。オレもずっとヒナタさまといたいです」
……下らぬ約束など、守ってやる必要がなくなった。
――憎い! ヒナタさまが憎い……! オレから大好きな父上を奪ったヒナタさまが……!
「強さ」のみをただひたすらに追い求め、孤独に駆け抜けたアカデミー時代。ヒナタのことは、片時も忘れたことはなかったけれど……。この頃のことは、今でも思い出したくもないくらいに苦しかった。
翌年、アカデミーに入学してきて、ひび割れた仲を、それでも繋ぎ止めようとするヒナタが、心底鬱陶しかった。……春、構わず咲き誇る桜が、視界に入るのが辛かった。
極力、見ないようにしていた。揺れる紺色の髪、淡い桜色の花びらの記憶。
ひとたび視界に入れれば、どうなるのかなんて自分でも分かっていたから。
けれども不意に奪われてしまった。授業中、何気なく見下ろした窓の向こう側に――。
背に、白い羽の幻覚が見えるくらいに軽やかな、
――ヒナタ様。
女神様と見紛うほどに綺麗な、大切な従妹の姿。
未熟ゆえに、逆恨みをして壊してしまった関係、だけど……。
変わらない。今も変わらない。……オレはどうしようもなく、
「ネジ、よそ見するんじゃない!」
*
不覚にもイルカ先生の声に驚いて姿勢を正した。
目の前に広がるのは、教室の黒板でもなければ、アカデミーの同級生の後ろ姿でもない、見慣れた天井の茶色い木目。しばらくぼうっとしていたが、目を擦ってからもう一度見上げて、遠い昔の夢を見ていたのだと気づく。
「何年前だ……? アカデミー二年目だから、十年以上も前か」
誰もいない寝室で独りごちる。かつて父がいたはずの屋敷は、ひどく静まり返っていた。
寂しさなど疾うに忘れた。そんなことより、今では上忍になった自分の役割を全うするため、少しでも強く在るべく己を高める必要がある。
思えば、この数年で「強さ」を求める意義も理由も、まるで違うものになった。
……自分の命は自分のためだけに存在しているわけではない。里、ひいては世界の平和を守るため、明るい未来へと導くために生かされている。これからは己にとって大切な何かを「護る」ために生きてゆくのだ。
そう考えると、幼い頃に抱えた不条理が少しだけ救われたような気がした。
ネジにとっての大切な何かとは何なのだろうか? ――答えは明白だった。が、今さら想ったところできっと報われることはない。
どうしてあんな夢を見たのだろう。思い当たるとすれば、おそらく今日の日付に起因しているのだろうと考え至った。
……四月九日、今日は四月九日だ。
いつしか霞んでいたはずの記憶が、鮮明によみがえった。
「大丈夫、来年もまた咲きます。毎年四月九日は、必ずここへ来て一緒に桜を見ましょう。約束です」
かつてヒナタに伝えた言葉を、静かに呟く。満開の桜を思わせるような清らかで繊細な笑みを思い出す。父を喪ってからずっと遠ざけ続けてきたヒナタとは、表面上は当たり障りのない関係にまで修復した。もっとも、散々無礼を働いてきたネジに対しての、ヒナタの「赦し」あってこそだったのだが――。どこか憂いを帯びたようなよそよそしい笑顔しか向けてくれなくなったのも至極当然のことだ。
ここのところ、会う度に何か言いたげなのが気になるけれど、おそらく大したことではないだろう。やさしいヒナタのことだ。他人行儀な距離感を、少しでも詰めようと努力してくれているのかもしれない。
……今さら欲しがったって何もかもが遅すぎる。自ら手放したものを取り返したいだなんて、勝手にも程があるというものだ。
しかし、夢で逢ったからには、今日という日の「約束」がどうしても気になってしまう。
ネジは、一族揃いの黒の着物に袖を通すと、慣れた手つきで帯を締め、屋敷を後にした。
麗らかな陽気と降り注ぐあたたかい陽射し、あの日見たのと同じ、穏やかに包み込むような青い空。絶えず足元を掠めてゆくのは、淡く儚い桜色のかけらだった。やはり、何も変わらない。唯一変わったといえるのは、すっかり風化してしまったふたりの関係性だろうか。
まさかヒナタが幼い頃の口約束を覚えているはずもなく、今もなお「ずっとネジにいさんといたい」などと考えているとは到底思えないが、なぜか急に確かめたくなったのだ。固く縛って、心の奥底に深く沈めていたヒナタへの想いが、今でも生きているのかどうか。
強く望んだところで、手に入らないことは分かっている。けれどその事実だけは変わらないはずだから……。
商店の立ち並ぶ街を越え、人々の行き交う橋を越えると、里の外へと続く「あうんの門」が見えてくる。任務に行くのとは違う心持ちでそこを潜り抜け、演習場の先にある静かな森へと歩を進めていった。
色とりどりに綾なす春の野は、未だに止まぬ忍世界の闘争は嘘なのではないかと思えるほどに華やかだった。
さわさわと吹く、柔らかな風になびく緑を踏みしめ、森の先にある海を目指す。そこには桜の木が寄り添うように二本だけ立っていて、今まさに満開を迎えていることだろう。
まっすぐな木漏れ日に目を細めながら、逸る気持ちを抑えきれずに先を急いだ。
――ヒナタ様……!
青々と光る木々を掻き分けて、ようやく砂浜へと辿り着いた――。が、
「……いない」
……当たり前か。期待する方が馬鹿だ。毎年四月九日に必ずここで会おうと「約束」したのは実に十年以上も前のことなのだから。愚かな自分を嘲て笑うも、ここには誰もいない。そして、淡い桜色と海の青、さらさらの砂浜、波の音に包まれていると、自嘲する心さえ洗われてくる。
あの日、この場所で、ヒナタと共に見た景色は、今もなお綺麗なまま、色褪せずに存在してくれていた。それだけでもう十分なのかもしれない。
せっかくここまで来たのだからと、舞い散る花びらの下、腰を下ろして海を眺めていることにした。
遠い遠い水平線の向こう側でも闘争が起こっているのだと思うと、息が詰まりそうになった。
こんなにも綺麗な世界を壊してまで闘う果てに、いったいどんな幸せが待ち受けているというのだろう。まったくもって馬鹿げている。一介の忍として、一刻も早く「平和」を勝ち取りたいと強く思った。
それは、ヒナタのためにもなることだから……。やさしいヒナタには、争いの世界など似合わない。ずっとそう思って心を痛めてきた。
――ヒナタ様……。
心の中、何度も何度も名前を呼ぶ。その名を口にすることさえ憚られるほどに、いつしかヒナタはネジの中で大きすぎる存在になってしまった。
想ったところで叶わない、決して叶わない……。
――ヒナタ様……。
*
また眠ってしまった――。
……吹く風が冷たい。もう春とはいえ、ましてや海辺の夕暮れ時の空気は、わずかながらに、冬の名残をとどめているようだ。
水色だった空が、いつの間にか群青色から薄紅の階調を描きはじめている。……この景色にも見覚えがある。川の下流には無数の花筏、「平和」を望む想いさえ、何一つとして変わらずに、ここに存在したままだ。
もう確かめるまでもない。ネジは沈みゆく夕陽をゆっくりと見上げた。すると、
「……約束……」
不意に、鈴の音のような涼やかな声が、静かに耳を震わせた。
見なくても、分かる。白眼など使わずとも、分かってしまう――。間違えるはずがない、焦がれ続けた人のチャクラ。
「ヒナタ様――!」
振り返ろうとしたら、視界の端に、長くなった紺色の髪が折り重なり、背中に、あたたかくて柔らかな感触を覚えた。ふと見下ろせば、鎖骨の下辺りに、揃いの黒い着物の袖が見える。
後ろから抱きしめられているということに気づいたのは、それからずいぶん時間が経ってからのことだった。
「ヒナタ、様」
「ネジ兄さん」
強い、風が吹く。
嵐に、花が舞う。
可憐な桜の花びらを一気に散らしかねないその風に、寂しさを覚えたのか、ヒナタの腕に一層力がこもった。
「大丈夫。来年もまた咲くから……」
痛いくらいに抱きすくめられ、眩暈を覚えるほどの慕情が溢れ出した。
「約束を、果たしてしまいましたね……。これで、もう終わってしまう……」
震える細い腕に、大きくなった手を添えた。そして十年以上ぶりにまっすぐな想いを交わす。
「……今も変わらない。オレはあなたと共に戦い、そしてあなたを守り抜きたい」
口を衝いたのは、本音とも建前ともいえない言葉だったので、ヒナタが不服そうに返答した。
「……それだけ、ですか?」
だが、その真意を図りかねたので、また当たり障りのない答えを返す。
「? ああ、小さい頃からずっと変わらない」
「……それじゃだめなの」
……しかしそれではお気に召さなかったようだ。
「……なぜ?」
「同じ一族の仲間として、共に戦い守り合うのは当たり前のこと」
「特別ですよ。オレにとってのヒナタ様は、特別です」
「どういうふうに?」
少し踏み込んで、今もなお曇りのない想いを伝える。
「何物にも代えがたい存在です」
ヒナタの華奢な腕に、さらに力がこもる。
「わ、私もです……」
「大切に想っています。あれからずいぶん時間が経ってしまったけれど、あなたのことを忘れていたわけではない」
「私も……」
それから突然、きつく抱きしめられていた腕が緩んだかと思えば、
「……っ」
目の前に回ってきたヒナタに肩を掴まれた直後、真っ白な砂浜に組み敷かれ、急に、息が出来なくなった。何度も何度も、祈るように繰り返された不器用な口づけに、砕け散るような胸の痛みを覚えた。
透明の糸で繋がったままのヒナタを見上げれば、目に涙を溜めて笑っていた。
ネジの大好きな、花が咲き零れたかのような笑みだった。
つられて、ネジも泣き出しそうなくらいに切なく笑った。
「あの、今のはいったい……?」
「……好きです……。ずっと、ずっとあなたのことが。毎年、来ないはずのあなたをここで待っていました」
――決して報われることはないと思っていた。こんな瞬間が訪れるなんて想像もつかなかった。
「嘘だ……」
「嘘なんかじゃない。私には、あなたでなければだめなんです。あなたの、やさしい笑顔がずっと忘れられなかった……」
春の夕焼けに照らされ、一層赤みを増す花筏が、ゆらり、ゆらりと海に漕ぎ出してゆく。
満開の桜の木の下で受け止めた想いが、焼け焦げるほどに熟れた慕情に、再び火を点す。
砂浜に仰向けになったまま、ヒナタをそっと抱き寄せた。柔らかい花の匂いがする。相変わらず小さくて折れてしまいそうなくらいに儚い。
守らなければ――。オレが、この人を守り抜かなければ――。そのためならば何だってしてみせる。
変わらない。今も変わらない。……オレはどうしようもなく、
――あなたを、愛しているんだ。
だから、
「ずっとヒナタ様といたいです」
共に生きて、共に、幸せな未来を描きたい。
「私もネジ兄さんといたい。絶対ですよ? 今度こそ約束ですからね」
そのためにももっと強くならなければ。ヒナタの居るこの世界を平和へ導くために。
――オレはずっとあなたのために在り続ける。