2017.06.19更新
※四葩(よひら)=紫陽花の異称
※季夏(きか)=六月のこと
あんなに怒っているネジを見たのは、久しぶりだった。
――結婚してから、早くも数ヶ月が経過した。さっそく子供にも恵まれ、出産予定日が刻一刻と近づく季夏のこと。残り少なくなったふたりきりの時間を、大切にすると決めた矢先だったのに……。梅雨明けには親になる未熟者の夫婦は、最低限しか口も聞かずに、数日間にわたり不毛な意地を張り続けていた。
「お食事の時間です。そろそろお休みになってください」
「……あと少しだけ待ってもらえませんか? これだけ終えたら行きますので」
ここのところ、これまでになくストイックに修行に励む夫を見ていたら、どうしようもなく胸が痛む。今年の梅雨は雨量が多く、庭でずぶ濡れになっているネジが風邪を引いてしまわないかが、心配で仕方なかった。
ならばせめて、炊事や洗濯だけでも完璧にこなしたいのに、じきに臨月を迎えようかという体が、思うように動かない。そんなヒナタを見ると苛立つのか、最近のネジはいつも無愛想に振る舞っていた。というより、何かしようとしてもほとんど阻まれてしまって、何の役にも立てていないことを、心底情けなく思っていた。
かつてネジ一家が住んでいた分家の屋敷には、宗家と同等とはいかなくても、広くて立派な庭がある。
そこには、撫子色から薄花色へ――濃淡様々な階調を描く紫陽花が、やわらかに咲き誇っていて――霧雨の中、ぼんやりと浮かぶ丸い風船が、脆く割れそうな心を、どうにか癒してくれるのだった。
食卓に四片の花を飾る。あの厳格な夫が花を愛でるとは到底思えないのだが、簡単なものしかつくらせてくれないので、せめて季節の彩だけでも添えたい、とヒナタなりに考えてのことだ。しかし、それさえも。
「ヒナタ様……前にも言いませんでしたか? オレには白飯と漬け物と椀物があればそれで十分だ。今のあなたがこんなにたくさん食べられるとは思えない……身重のあなたの分はともかく、オレために必死になってつくらなくていいです。だいたいこの紫陽花の花はいつどこで摘んできたのですか? もしや雨の中わざわざ外に出たのですか? オレの目を盗んで?」
ようやく席についたネジが矢継ぎ早に繰り出す問いかけに、またしても心が沈む。ヒナタはただ、上忍として多忙な日々を送る夫の、力になりたいだけなのに。
「何とか言ってください」
自分で洗濯したタオルで長い髪を拭いながら、ネジが言う。
ヒナタはさながら子供のように、むきになって言い返した。
「兄さんは私のことが嫌いですか? 私のすることすべてが気に入らない……最近、私が何をしても怒ってばかりで、悲しいです。もうすぐ子供が生まれるんですよ? ふたりに家族ができるんです。それなのにいつも無茶ばかりして……もしもあなたの身に何か起こったら、どうされるおつもりですか?」
ネジは眉一つ動かさずに聞いていた。そして、
「もういい。あなたは何も分かっていない。食事を済ませたら早々に寝てください。あとはオレがやる」
一言吐き捨てると――仏頂面のまま、何も言わずに食事に手をつけはじめた。あまりにも悲しくてほとんど喉を通らなかったのだが、ヒナタが残した分も、ネジは当然のごとくぜんぶ食べてくれて、その事実も、ひどく心に刺さった。
ネジの威圧に負けて食事を終えたら早々に寝る準備をする。最近の夕餉はいつもこの調子だった。唯一の救いといえば、例によって遅れて布団に入ってくるネジが、決まってそっと包み込んでくれることくらい。足手まといなのかもしれない……一族の縛りにならって結婚しただけで、愛されてはいないのかもしれない……という不安を、唯一忘れられる時間。
翌朝起きたらまた、不毛な意地の張り合いがはじまってしまう。
終わりのない無言の攻防に、だんだん嫌気がさしはじめていた。
*
じきに夏とはいえ、水無月の朝は肌寒い。寝間着の浴衣に、羽織をかけて布団を出ようとしたのも束の間、
「こんな早朝からどこへ行くのですか?」
……直後、目を覚ましたネジに、呼び止められてしまった。
「朝食の準備を……」
言い終わるより先に布団に沈む。不意にあたたかな空気に包まれて、外に出るのが億劫になった。微睡んでいる様子のネジはそれでもがっちりと、離してはくれなくて……抗議しようにも、まるで身動きが取れなかった。
「あの、兄さん……? 今日から泊まりの任務に出られるのでしょう? 朝食はちゃんと食べないとだめですよ。しばらく離れ離れになるのだから……今日くらいは、あなたのために頑張らせてください」
「お断りします」
「なぜ……?」
やはりというべきか肯定してはくれない夫に、涙声で問いかけると、後ろから包みこむ腕に力が入った。
「いいからもう少しこのまま……オレの言うことを少しは聞いてください」
いつになく静やかな声色で話すネジに促され、もう一度寝床につく。思えばこの数日間でまともに会話をしたのは、これがはじめてかもしれない。悔しい反面嬉しくて、端無くも笑った。
いまなら、ちゃんと話せるかもしれない……。縺れたままで時を過ごすのは、本意ではないのだ。
ヒナタはネジに背を向けたまま、大きな腕にくるまれたままで、必死に言葉を探した。
「あのね兄さん……。私、長年独りで頑張ってきたあなたに、新しい家庭をつくってあげられることが、本当に嬉しいの。結局は足手まといで……助けてもらってばかり。少しも力になれないことが、すごくもどかしいのだけれど……。でもね、これだけ言えるのは、私はあなたを心底大切に想っていて……夫だからとか、お腹の子の父親だからだとか、それだけじゃなくて、ネジ兄さんというひとりの人に、ただ元気で、幸せでいてほしいの……。無理してほしくない。私が言いたいのはそれだけです」
かくして涙に掠れた声で懸命に絞り出した言葉は、ネジの耳にどう届いたのだろう。
だいたい、そもそもの喧嘩の原因はというと――。
*
一週間ほど前。慣れない妊婦としての生活に……夫であるネジへの献身がままらないことに、行き場のないもどかしさを覚えていた。任務から帰ってきて、疲れた体で買い出しや炊事をさせてしまっていることにも、申し訳なさが募っていた、そんなある雨の日のことだった。たまさか気分がよかったので、少しでも喜んでもらいたくて、ネジが帰ってくる前に食材を用意し、妊娠以来はじめての凝った夕飯をつくった。嬉しそうに食べてくれる姿を勝手に想像して、実に幸せだった。
そして宵の内、玄関の引き戸が開く音がしたので、あふれだす笑みを携えて、急いで上り口へと向かったのだった。しかし、そこにいたのは。
「……これはどういうことですか?」
立てかけていた濡れた傘を握りしめ、ひどく冷たい目でこちらを見据える……
「なぜひとりで外へ出たんだ? ……こんな雨の中、その身体で。オレが帰るまで待っていろと言ったはずだろ? なぜ勝手なことをするんだ?」
全身に怒りをほとばしらせ、珍しく語気を荒げる怖い夫だった。
そのとき、一応食事には手をつけてくれたものの、一切言葉も交わさず、彩り豊かな献立を目の前にして、ふたりのあいだには無彩色の時間が流れた。
――それからのことだった。ネジがいっそう自分を追い込むかのような、求道的な修行に勤しむようになったのは。加えて、余計にヒナタを縛るようにもなり、彼の目の届く範囲では、ちょっとした家事ですら、動くことが憚られたのだった。
*
一週間が経っても、綿々と降り注ぐ雨にもかまうことなく、変わらず無茶をする夫に引きずられ、意固地の応酬を繰り返していたが、もう限界だった。ネジがなぜそんなに怒るのかも、まったくもって理解できなかった。
しかして、ネジからの言承けは。
「……悪かった。オレはただ……ずっと想い続けたあなたと夫婦になって、あなたの子の父になること、身重のあなたが不自由な生活をしていることを、難しく考えすぎていたみたいだ。本当は、あなたと生まれてくる子のことを、一番に考えていたはずなのに。それに、オレはずっと独りぼっちだったから、この腕で『家族』を守らなければならないという重みが、まだ本当の意味で実感できていない。自分でも情けないが、怖くて……まだ、自信が持てずにいる。だが、あなたを妻にできたこと、子供に恵まれたこと――これまでの人生の中で父上が存命だった頃と同じか、いやそれ以上に、心から幸せに思っている。オレの方こそあなたが大切なのに、子供じみた意地を張って本当に悪かった……あなたが心配なんです。オレだってあなたに無理してほしくない」
……方向性は違えど互いに同じようなことを口にしていて、一気に安堵した。大切に想っていたのは自分だけではなかった。
それを知れただけでも、ヒナタにとっては大きな一歩となった。
後ろから回された手で、やさしくお腹をさすられていたら、心ならずも涙がこぼれ落ちた。気づいたネジがそっと拭ってくれて、幸せがお腹の子にも伝わったのか、中で嬉しそうに動いているのが分かった。
それからもう一度、
「お互い無理をするのはやめましょう? だって大切なのはお互い様なんです……それぞれ想い続けて夫婦になって、心配なのもお互い様。あなたの笑顔こそ私の幸せだから、あの頃より少しは平和になった忍世界で、何も大それたことを思わなくても、傍で生きて、元気でいてくれたらそれで十分です。だからもっとご自分を大切にしてください。お願いです」
初夏の空気を震わす雨の音に乗せて、心からの深い想いを紡ぐ。――仲直り。だなんて幼稚な言葉を宛がうには相応しくない諍いとなったが、結果として、本心をぶつけ合えてよかったのかもしれない。
先ほどはさらりと流したものの、「ずっと想い続けた」などと、ネジがヒナタへの感情を口にしてくれたのは、短い婚約期間からの夫婦生活を振り返ってもはじめてだった。それだけで魔法のように心が一杯になるのだから、ネジが思っている以上に、ずっとヒナタはネジを愛しているのだと思う。
梅雨空に阻まれた日の光がうっすらと射してきた。煙った窓の向こう側には、相変わらずやわらかな色みが揺れている。四葩の華が枯れる頃、ネジが二十歳の誕生日を迎える梅雨明けには、いとおしくて仕方のないお腹の子にも、やっと逢えることだろう。
ヒナタの小さな手、ネジの大きな手。
尊い命の宿るお腹に添えられたふたつの手は、一度は離してしまったけれど、また繋いで結び直した大切な糸。何かにぶつかったり、たとえ、どちらかが失敗を犯したとしても、何があっても絶対に離さないと、婚姻の儀で誓った絆。
……それは今も昔も揺るがない、ずっと持ち続けてきた祈りであり、願いでもあった。
来年の水無月には、次こそは笑って、三人で並んで紫陽花の花を見たい。
残り少なくなった二人だけの時間を、望み続けてきたあたたかな未来を、すっかり逞しくなったネジの腕の中、改めて噛みしめ、一等ふわりと笑った。