2016.12.08更新
※誹り言(そしりごと)=無礼な憎まれ口
ただそこに居るだけで瞬く間に引き摺られる。
一度でも視界に入れれば瞬時に血が騒ぐ――。
そう、嫌いなんだ。
オレはあの人が嫌いなんだ。
忍者アカデミーの教室。窓際の後ろの席。休み時間も授業中も、御多分に漏れず空を仰ぐ。灰色の空はいつか誰かと見た景色とは明らかに違っていて、オレは意味も無くため息を吐いた。
……綺麗な青い空を誰と見たのかはもう覚えていない。
いや、覚えていたとしても思い出したくない、と言った方が正しいだろうか。あんな過去は無かったんだ。「あの人と居た記憶など疾うに忘れた」そう思えば少しは気が楽になった。
忌々しい一族の下らぬ慣習が生んだ事件の後、オレは一人きりになった。
正確には、支援の申し出を悉く拒み続け、自ら孤独な状況を作り上げた。
大切な父上の命をあんなにも簡単に奪っておいて、自己擁護とも云うべき偽善を今更、どの面下げて言うのだろう。
何故宗家の為に父上が死ななければならなかったのだろう。
……納得のいく答えなど到底見つけられなかった。
五歳のときに唐突に時間が止まってから、渦巻く感情はいつも同じ。
ヒナタ様だけではない。宗家の者どもが、一人残らず全員嫌い。
中でもヒナタ様のことは見ているだけで腹が立つ。
あの人の声にも姿にも、絶対に触れたくなかった。
この世界は偽物なんだ……父上の居ない世界など、オレには何の価値も無い。
生きる意味が無い――。
だから嫌いだ。
何もかも消えて失くなればいい。
ずっとそう思っていた。
*
ごく稀に、ヒナタ様と校舎の廊下ですれ違うことがある。……その都度似つかわしくない不器用な笑みを浮かべて会釈してくるのが、ひどく癪に障った。腹の虫が蠢き出すのをどうにか抑えて、不機嫌に目を逸らすので精一杯だった。
にわか雨の放課後、例の如く窓の外を眺めていたら、見知った男が校庭を縦断するのが視界に入ってきた。オレと同じ日向分家の忍、二つ年上のコウというその男は、何事も及第点といった器用な奴で、いつの間にか宗家の嫡子であるヒナタ様の付き人に成っていた。
何故かそれも解せない。一体あいつの何が評価されてあの場所にいるのだろう――どうにも鼻につく。理由は知り得ないが、しかしどうしても許せなかった。
コウの元へと嬉しそうに駆け寄るヒナタ様を見ていたら、余計に神経が昂った。コウの持つ大きな青い傘に囲われるヒナタ様は、安心しきった様子で笑っていて、またその隣のあいつも、へらへらと締まりのない笑みを湛えていたから……。
そんな二人の横顔を見て馬鹿馬鹿しくなったオレは、持ってきた傘も差さずに屋根を伝って最速で屋敷へと帰ったのだった。
小雨とはいえ、半端に濡れた服が肌に貼り付くのが鬱陶しかった。
自宅に帰ったところで、雨に濡れたオレを心配してくれる者など一人も居ない……ましてや傘を持って迎えに来てくれる者などオレには居ない。
たかが雨、この程度の小さな雨にさえ守られるヒナタ様がやはり許せなかった。
着替えもせず、雨粒も拭わずに、轟く感情の波を受け流せずに立ち尽くす。そしてぐるぐると同じことを何度も考える――ヒナタ様が嫌い、ヒナタ様が嫌い、ヒナタ様が嫌い……!
父上との記憶で埋め尽くされたこの屋敷を汚したくはないが、行き場のない怒りを鎮めることも出来ずに、物言わぬ壁や床に目一杯当たり散らした。すると、鈍い濁音に驚いた庭の鳥が、慌てて飛び去っていくのが視界に入った。……孤独や恐怖からは決して逃れられないオレとは、大違いだと思った。
そのまま縁側で寝入ってしまい、目を覚ます頃には夜も更けっていて、未だ乾ききらない服に冷やされた体は、幾らかの熱を持っていた。ぼんやりと空を見上げれば、厚い雲の向こう側、物憂げな朧月が見て取れて、それはまるで淋しい自分を嘲笑われているかのようで、実に気分が悪かった。
そう、熱を出したところで、オレを心配する者など一人も居ない。笑うのなら笑えばいい。
オレの生きる理由とは、父上の言い残した言葉を守って「強くなる」その一点のみ。
誰の為でも無く己の為だけに鍛錬し、そしていつか証明してやるんだ――。
……血筋など関係無い。
純血の宗家に生まれたところで無能は無能。
蔑まれてきた分家にだって高い能力を誇る者がちゃんと居るんだ。
絶対に分からせてやる……! 後悔させてやる……!
それだけが今のオレを支えるたった一つの糧だった。
*
翌日、下校途中にまたしてもヒナタ様と出くわした。帰り道が同じのこのタイミングは一番最悪のパターンだ。今週は本当についていない。……あまりにもがっかりしたので、一言言ってやろうと後ろから近付いた。
オレの気配に気付いたヒナタ様は、下手くそな笑みを浮かべて振り返った。その表情を見ていたらやはり頭に来たので、感情を隠さずに言い放った。
「小雨ごときに迎えが必要な宗家のお嬢様が、忍になどなれる訳がない」
困ったように俯くヒナタ様に、どうしようもなく腹が立った。悔しかったら何か言い返してみろ、と思ったが、そのまま立ち尽くして何も言わない。
……埒が明かないので軽く撥ね退けて先へと進んだ。
白眼で後ろを確認したら、ヒナタ様は泣いているようだった。
加害者の癖に被害者面するのも大概にしろと思った。
*
それからはずっと意識的に避けていたので学校で会うこともなかった。が、だからといって平和という訳でもない。己が孤独であるという事実は別段変わらないのだ。その間にもヒナタ様は毎日を笑って過ごしているのかと思うと、沸々と真っ黒な感情が溢れてきて……あの人の何もかもを壊してやりたい、という不穏な衝動に支配された。
そんな時は決まって鍛錬にかこつけて自分を傷め付けた。アカデミーに行けば、先生が包帯だらけの両腕を少しは気に掛けてくれたが、無茶をしているつもりなど微塵もなかった。
果ての無い怒りは、「強くなる」その目的を遂げる為に、上手く利用してやろうと思った。
そんな折、或る霧雨の放課後……不覚にも傘を忘れたオレは、アカデミーの玄関で雨宿りをしていた。至極弱々しい雨は、少し待てば直ぐに止むだろうと踏んだのだ。
淡い灰色の空の向こう側には、金色の夕陽が射している。昔、父上と見た夕刻の雨空はひどく綺麗に感じたものだが――独りで見ても、何の感動も無かった。
そういえば何かを綺麗だとか嬉しいなどと思う心を、一切忘れてしまったような気がする。
……最後に心から笑ったのはいつだっただろう? 思い出せないどころか、これから先もそんな瞬間は二度と訪れないのだろうと絶望した。
ふとまたヒナタ様のことを考える。
考えたくはないのに勝手に思考を占有されてしまうのだから、実に厄介な人だ。
凡そ口には出来ない後ろ暗い謗り言を、心の中で何度も叫ぶ――。すると、
「ネジ、兄さん……? か、傘、ないの?」
いつだってオレの神経を荒立てるか細い声が響き渡った。
神速に平常心を奪われる。哀しみさえ湛えた怒りをどうにか抑えて振り返った。
……その人は桜色の傘を差し出し、ゆるりと笑っていた。
「あの……これ、よかったら使ってください……」
一方のオレは、言葉を発することさえままならなかった。
対峙したまま暫しの沈黙が流れる――視線を交わしていることが、不思議でならなかった。
だんだん、頬を傘と同じ色に染めてゆくヒナタ様の目に涙が溜まってゆくのが見えて、何故だかどうしようもない苛立ちを覚えた。
「要らない……一刻も早くオレの前から去れ」
ようやく口を衝いたのは自分でも信じられないほどに鋭い言葉だった。
ところが、どういう訳かヒナタ様は全く引き下がらなかった。
「だめです……風邪を引いてしまいます。このあいだ、熱があるのか辛そうにしているあなたを見つけたの。迷惑かもしれないけど、私も辛くて……私にはこんなことしか出来ないけれど、でも……」
おずおずと見上げてくるヒナタ様が憎くて仕方なかった。
「迷惑です……必要ありません。あなたの情けは要らない。今のあなたにはコウだっている。オレのような者に構うことは無い」
「あの……私は……」
「……もういい。それ以上は何も言うな。お前達宗家の言う綺麗事は偽善にしか聞こえない」
「そっ、そんな……」
「いいから黙れ。三秒以内に去らないならオレが行く」
「まっ、待ってください……!」
――三、二、一……
どうしても動こうとしないヒナタ様を押し退け、小さな桜色の傘を突っ撥ねたら、白く煙る道を走り出す。纏わりつくような霧の雨が、殊更辛気臭くて鬱陶しかった。
――ネジ兄さん……! 私はね、本当はあなたに傍に居てほしいの……!
雨音に紛れた鈴の音は、ある種の幻聴だったのかもしれない。
断じて嬉しくなどない……笑ってもいない。オレはもう忘れたいんだ。あなたと居た過去、慈しみ合った幼過ぎた日々。
いつまでも掻き乱すのは止めてほしい――。
畢竟、オレはヒナタ様のことが嫌いなんだ。