2016.07.07更新
※庶幾=こいねがうこと
※金剛石=ダイヤモンドの和名
梅雨はもう終わったのだろうか。この時期には珍しく、腹が立つほどの日照り続きで、毎日、暑くて暑くてかなわない。
三日前、十八歳の誕生日を迎えたネジは、束の間の休日に、家にひとりでいたら暑さに焦がされそうなので、商店街の茶屋にて、涼を取ることにした。
和服は暑い。けれども、いつも着ている忍装束は、もっと暑い。仕方がないので、日向の家紋入りの、一族揃いの黒の着物を着て、町を歩く。それは従妹のヒナタとも同じ。他の者と揃いであることは至極どうでもよかったが、ヒナタとなら、俄然嬉しく思う。……降り注ぐ刺さるような陽射しのせいで、頭がおかしくなったのかもしれない。
(七夕か……下らんな)
立ち並ぶ店舗の軒端には、一軒一軒、笹の葉揺れる低い木と、目に入るのも鬱陶しいほどの、数多の短冊の数々。薄紅に橙色、黄色に青に常磐色、――色彩豊かな縦長の紙には、様々な願いが、事細かに記されていた。
――どうせ、オレの願いは叶わない。どんなに望んでも、手に入らない。ましてや、七夕の夜の星に込めるなど、そんな茶番で、叶えられるわけがない。揃いも揃って、みんな馬鹿なんじゃないのか。
溶かされそうな暑さのせいか、思考がどうにも悲観的になる。こんな子供じみた愚痴をこぼせば、ヒナタはいったいどんな顔をするのだろう? 「兄さんったら、また、そんなかわいげのないことを言って……」と、困ったように笑うのだろうか。
ふと、ヒナタの笑顔を思い浮かべたら、ここのところのおかしな気象からくる苛立ちが、ずいぶん抑えられたような気がした。
ぬるい風になびく笹を鬱陶しく思いながら、茶屋の暖簾をくぐる。出てきた冷たい水に、わずかに心がほころんだ。せっかくなら、ヒナタの好きなぜんざいでも――と思ったが、熱いだけではなく、甘くて重たい食べ物を、口に運ぶ気力はわいてこなかった。
しかして、注文した冷のお薄を持ってきてくれた店員が、青くて細長い、紐のついた紙をくれた。
「お兄さん、あなたは本当に運がいいですね。こちら、よろしければ差し上げます。今朝、お客さんが幾つか置いていってくださったものなのですが……ここに望みを書いて、木の葉の森の、小川のほとりにある笹に結べば、願いが、叶うんです。うちの店頭に飾っているただの短冊とは違って、何か特別な術式が施されているそうです。さっき来られた女性のお客さんにあげたら、とても喜んでおられたので……お兄さんにも是非」
「ああ……ありがとう」
おそらく取っつきにくいであろうネジにひるむことなく、人懐こく話しかけてくる店員には、少々驚いた。だが、今のネジは、自己評価よりもずっと穏やかな空気を纏っているのかもしれない。ヒナタと接するうちに、何か変わったのだろうか? そう思うと、誇らしくもあった。
如何せんふたりの距離が、他人行儀な従兄妹以上に詰まることなど、決してないのだけれど。
到底手に入らないものを望むのは、もうやめにした方がいいのかもしれない。
店を出たあとは、夕刻の迫る町並みを、幾らか涼しくなった風を感じながら、ゆっくりと歩いた。茶屋で言われたことが、なぜだか頭を巡って離れなかった。視界の端には、絶えず七夕祭りの飾りが揺蕩っている。曲がりなりにも忍を生業とする自分が、あんな馬鹿な話を信じるなど、滑稽だとは思うが……。
今日はひとりぼっちの非番なのだ。子供のように、無邪気に遊んでみるのもいいのかもしれない。
誰もいない家に帰ったら、真っ青な短冊に向かって、精一杯の願いを込めた。……これ以上は、望んではいけない――。今のネジの立場における、最大限の庶幾を書いた。
いったん、居間の文机に短冊を置くと、縁側で夕涼みをした。それにしても、梅雨もまだ明けきらぬこの時期に、こんなにも晴れわたる夕焼けは、極めて珍しい。馬鹿げているとは自覚しながらも、もしかしたら、本当に願いが叶うような気がしてきた。
宵闇に飲まれはじめた縁側で、うつらうつらと舟を漕ぐ。いつの間にか意識を手放して、目を覚ました頃には、空は濃藍に染まり、銀色の星々が、ひどく窮屈そうに犇めき合っていた。
そろそろ行くべきだろうか? 広い夜空では、今、ちょうどおとぎ話の物語が繰り広げられている頃だろうか。
……どうかしている。そんなこと、あるはずがないのに。幼い頃のヒナタの夢を見たせいか、思考が幼稚な方へと引きずられてしまう。
寝ぼけた目をこすり、顔を洗って、寝癖のついた髪を整える。肌蹴た着物を着直し、居間まで戻ると、もう一度、青い紙を手に取った。そのまましばし考え込んでいたが、どうせ暇なのだ。叶わぬ願いを空へと離せば、ようやく諦めもつくかもしれない。
さて、分家の屋敷を出て、日向一族の面々が住む一帯を、通り抜ける。たくさんの笹の葉と短冊、ささやかな燈火が綾なす商店街には、ただやわらかで、穏やかな時間が流れているような気がした。
道すがら、幾度も幾度も、ヒナタを思い出す。浮かんでくる顔は、ふわりと微笑むばかりで、普段いかに彼女がやさしい感情を向けてくれているのかを、改めて気づいた。しかし、ヒナタのネジへの想いは、誰にでも注がれる、博愛でしかない。ならば――。
ほんの少しでもいい、ヒナタとの、よそよそしい距離を縮めたい。願うは、それだけだ。
人々の行き交う橋を越え、光が彩る街を背に、ひとりあうんの門をくぐる。そして暗い森を行き、すっかり寂れた演習場のフェンスを抜けて、目的地に向かった。すると……。
清らかに流れる水の音が聞こえてきたあたりから、違えるはずのない、この十四年間で、息苦しいほどに全身に染みたチャクラを感じた。
先を急ぐ。まさか今夜逢えるとは思っていなかったので、自然と、顔がほころんだ。
声を聴けたら。願わくは、笑いかけてくれたなら。それ以上、望むことなど何もないのかもしれない。
深い青や緑に染まる川べりに、明るく浮かぶ光が見える。目を凝らして見れば、川の向こう岸に、紺藍の、
「ヒナタ様……!」
声を掛けたら、消えてしまいそうなくらいに儚い、かわいい人がいた。
川岸の笹には、すでに幾つもの短冊が揺れていて、真っ暗なはずの視界が、その一帯だけ眩しいくらいに浮かんで見えた。
川も空も真っ青なはずなのに、そこだけ、陽に照らされているかのように鮮やかだった。
「! ネジ、兄さん……?」
ひどく慌てた様子の彼女には構いもせず、川の向こうへ言葉を投げる。
「そこで何を?」
「あっ、あの、これは……この短冊は、今日お茶屋さんで……あっ! 来ないでください! 来ないで……きっと嫌われてしまうから……」
「オレがあなたを嫌うわけがないでしょう」
「だっ、だめ! 来ないで……、見ないで。お願い……!」
例によってその訴えを無視し、小さな川を飛び越えて、ネジはヒナタの傍まで行く。
手に持っていた薄紅の短冊を、即座に背中へと隠したヒナタを見ていたら、どうしてもからかいたくなってしまって、青い短冊を隠すと、涙ぐむヒナタにそっとにじり寄った。
「何を書いたのですか?」
「いっ、言えません……」
「見せてください」
「嫌です」
「ならば……」
(白眼!)
「あっ、ずるい! それなら私も……」
(白眼!)
「あっ、あなたまで……!」
しかして、ずるをして盗み見た内容は、ネジにとって眩暈のするものだった――。
動揺して、思わず本音が口を衝く。
「ヒ、ヒナタ様、それは飛躍しすぎです」
「ひ、ひどい……勝手に見ておいて……」
……驚きのあまりしばし沈黙する。耳から鎖骨の辺りまでを真っ赤に染めて、ぎゅっと目を閉じたヒナタが、うつむいた。その様子が、どうにも居たたまれなくなって、ネジは必死で言葉を探した。それから、努めて冷静に言った。
「いや、別にオレはかまいませんが」
「……え?」
「だいたい、短冊に書いて、夜、ひとりで結びにくるなんて回りくどいことをしなくても、直接言ってくださればいいでしょう」
「こ、こんなこと、言えるわけない、です……」
「そもそも、願い事なんて、自分で叶えようとしなければ叶うはずがないんだ」
「…………」
「ヒナタ様」
「は、はい……きゃっ!」
「今、すぐにとはいかなくても、あなたの願いは必ずオレが叶えます」
「…………」
意を決して腕の中に収めると、人見知りの猫のように、ヒナタは唐突に黙り込んでしまった。
……心なしか震えているような気もする。ネジは、些か不安になって問うた。
「ヒナタ様。何とか言ってください。あなたが望んだことですよ。しかし、それはオレの願いでもある。……いや、望んではいけないと思って、オレはかなり控えめに書いたんだ……」
「だっ、だって……!」
「何ですか?」
「…………っ」
様子をうかがおうと、体を離せば――。ヒナタは、頬を思いきり赤く染めて、ものすごい勢いで泣いていた。殊の外、苦しそうに……さながら幼い子のように。肩を震わせ、大粒の涙を流していた。
「絶対、叶わないと思ってた……」
「それはオレの台詞です」
もう一度抱きしめる。ともすれば壊れそうなほどに華奢なヒナタを、腕の中にすっぽりと収める。全然泣き止まないヒナタの頭をゆるやかに撫でれば、力なく、そっと、抱きしめ返してくれて……。息が詰まるほどの、いとおしさが溢れ出す。
湿った風が吹く。笹の葉が、さらさら、さらさら、至って穏やかに風に乗る。それは極々やわらかで、火照った耳に、ことさら心地いい音色を運び込んできた。この夜、ふたりが短冊を結ぶことはなかったけれど、もう、特段、夜空に願う必要もない。これは、互いにしか叶えられない願いなのだから。
瞬く星の光が、ヒナタの細い髪に映り、きらり、きらりと、金剛石の髪飾りのように輝いている。いつかこの髪に、純白の百合の花を飾ってあげたい。繊細な星くずの光も、気品溢れる大輪の花も、ヒナタにはきっとよく似合うはずだから。ネジは黒、ヒナタは白の衣装を着につけて、いつの日か絶対に叶えてみせると誓った。
ヒナタ様と仲良くなりたい。――然許り控えめな、ネジの願いに反し、
ネジ兄さんの、お嫁さんになりたい。――確かにヒナタの願いは、飛躍していた。
けれどもそれは、ネジも欲してやまなかったもの。これまで何度も望んでは、叶うはずはないと、胸の奥にしまい込んできた願いだから。ヒナタが望むのならば、もう、躊躇することなど何もない。
枯れ梅雨の初夏、深い濃藍の空の下。小さなヒナタを抱いたまま、休みなく光る天の川を仰げば――。
もはやうるさいほどの星明りが、目もあやな、色とりどりの短冊を照らし出す。
「待っていてください……あなたの夫に相応しい男になって、必ず、願いを叶えます」
「はい……」
とびきり綺麗で、静やかな、夢のように幸福な時間だった。
七夕の夜、星々の絨毯を隔てて、離れ離れになった恋人同士が再会するように、ネジとヒナタも、ようやく想いを通わせ合えた。
このまま、いつまでも変わらずにいられたら、ずっとふたりでいられたら……。
それだけを星に願い、慈しむようにぎゅっと、きつく抱きしめ合った。
空駆けるほうき星が、なびいて重なり合う髪を光で照らし、ただ鮮やかに、雅びに流れていった。