2016.06.07更新
たとえ、音のない世界でも。
たとえ、色のない世界でも。
あなたがいる。ただそれだけで、オレにとっては、大きな意味を持つから。
そう、オレにとってのあなたは、唯一の……。
――A little world for me and you.
はじめて出逢った冬、淡い淡い、雪のかけらが踊る中、父の後ろに隠れてふわりと首を傾げ、恥ずかしそうに笑うあなたに――瞬く間に心を攫われた。
(こんなにかわいい人、はじめて見た……)
思わず、笑みが零れるくらいに。こうやって必然ともいえる感情を見つけてしまっては、人は笑うことしか出来ないのだろうか。四年間の人生で、一度も味わったことのない、静かに滾る、抑制のきかない気持ち。あっという間に染められて、支配されたオレの心は、少し前までは知らなかったあなたという存在でいっぱいになった。理由は分からない。そんなものは誰にだってないのかもしれない。
意味もなく惹かれて、抜け出せなくなるまで、ただひたすらに侵されてゆくのかもしれない。
……この感情を、いったい何と呼び、どこへ持ってゆけばいいのだろうか?
その日、オレは、真っ新な額に絶対服従のしるしを刻まれて、決して解き放たれることのない籠の中の鳥に成り下がったのだけれど……。痛みを伴う儀式のあと、遠慮がちに、やさしく触れられたやわらかな手に、すべての苦しみが、忽ち癒えたような気がした。
あなたは小さすぎる体で懸命に背伸びをしたまま、
「ごめんなさい……」
包帯で何重にも巻かれたオレの頭を、何度も、何度も、涙を流しながら撫で続けた。
ぎゅうっと締めつけられる胸を、黒い着物ごと握りしめていたら、小さな手が重なって、真冬の空気に冷え切った指先から、陽だまりのようなぬくもりを感じた。小さなあたたかい手の感触から、ヒナタ様の清らかな慈愛が伝わって、その濁りのないやさしさを、いつか独り占めしてみたい――強くそう思った。
オレにその資格はないことくらい分かっていたが、止められなかった。溢れ出す感情に抗う術など、幼かった当時のオレは、持ち合わせていなかったから。
「……あなたのせいではない。謝らないでください。オレはヒナタさまをお守りするために生まれてきたのです」
「で、でも……こんなの、ひどいです。すごく痛そうで……悲しい。今日はじめてお会いして、あっという間に大好きになったというのに……あなたに嫌われてしまうのが怖いです」
直感とは往々にして伝心しているものだ。
直前にオレが見つけたのと同じ、あたたかで穏やかな感情を、ヒナタ様も抱いていたなんて。
――大好き。
一度会っただけで、なぜそう感じたのだろう?
似ているから? それとも、
「安心してください。オレがあなたを嫌いになるなんて、そんなことあるはずがない。むしろ、オレの方が心配です。オレとあなたは、よく似ているように見えて、きっと正反対だから……」
薄紫色の目や、白い肌、年齢のわりに慎ましやかな雰囲気は、間違いなく似ている。
勝気な本能や、闘争心、外見のわりに情熱を滾らせた内面は、およそ相反している。
理由などない。誰かに心を傾がれるのに、理由などないのだ。
*
はじめて出逢ったあの日からというもの、父上に宗家へと連れられて、ヒナタ様と、幾度となく顔を合わせた。オレの生まれた分家にはない立派な道場の端、父上の隣に並び、姿勢を正して腰掛ける。父の双子の兄であるヒナタ様の父・ヒアシ様に修行をつけてもらう彼女を見ていて、決意したことがある。
……おそらく忍には向かないであろうヒナタ様を守り、支えてゆくことにこそ、自分の存在意義を見出したい。
……オレはそのために生まれてきたのだ。そう思うと誇らしくさえあった。
当時のオレは、庇護すべき者への自尊に、心を奪われていた。
寝ても覚めてもヒナタ様でいっぱい――。
不用意に触れれば、忽ち溶けてしまう繊細な飴細工のように、どこか儚げなヒナタ様を危険に晒さぬよう、二人だけの小さな世界に閉じ込めておきたい。
我ながら恐ろしくなるくらい加虐的なことを考えるほど、心を深く占有されていたのだ。
反してヒナタ様は、飼い主にまとわりつく仔猫のように、いつだってオレの傍に来ては、無防備な笑顔をたたえて寄り添ってくれた。
ある日、小さな手に細い布をたずさえた彼女に手を引かれて部屋へと連れてゆかれると、囁くような声で乞われた。
「ネジにいさん……ヒナタの髪も、これで縛ってほしいの」
唐突な言動に些か戸惑い、なぜかと問えば、
「にいさんとお揃いにしたいから……」
やわらかくはにかむヒナタ様に、再び、瞬時に囚われてしまった。
しかし、オレの長い髪とは違い、彼女の髪はえりあしにも満たないくらいに短くて、どう考えても、縛るのは難しく思えた。ヒナタ様に手渡された布を手にしたまま、どうしたものかと思考を巡らせていたら、袖を引っ張って促されたので、仕方なく髪に触れた。
取り敢えずゆるやかに梳かしてみて、ヒナタ様の反応を見た。オレにすべてを委ねたような、信用しきった後ろ姿に、不遜なことを思案していた己を戒めた。そして、短すぎる髪をどうにか束ねようとして試行錯誤を繰り返してみたものの、どうしても長さが足りなくて、やむなく断念した。
……拗ねてしまったかと、恐る恐る様子をうかがう。オレは努めて穏やかな声で言った。
「……髪が伸びるまで、少し待てませんか? 今の長さだとどうしてもまとめられなくて……」
すると、ヒナタ様は、
「ほんとうは頭をなでてほしかっただけなの。だから、うれしいな」
まるい頬を桜色に染めて、飛び切りかわいく笑った。どうしようもなくなって、彼女の部屋の襖を後ろ手にゆっくりと閉めると、そっと抱き寄せて、何度も、惜しむように頭を撫でた。
「ふふ、しあわせ……」
窓を彩る茜空が群青に染まり、そろそろ夜に差し掛かろうかという頃――。
閉めきったままの部屋は、繊細に広がる、音と色のない二人だけの小さな世界へと、静やかに訪われてゆく。
――時間を止めて、切り取って飾っておきたいくらい、ただただ綺麗で、穏やかな時間だった。
オレがヒナタ様といることをしあわせだと感じるように、ヒナタ様もまた、オレといることをしあわせだと云ってくれる。それ以上のしあわせなど、見つかるはずがない。
……ずっと二人でいられたら、他に望むものなど、何もない。
たとえば、いつかこの世界が綻びて、壊れそうになったとしても。
あなたがいる。ただそれだけで、オレにとっては、大きな意味を持つから。
そう、オレにとってのあなたは、唯一の……。
――無条件に守るべき大切な人だから。
二人だけの小さな世界で、これからも一緒に、あたたかなしあわせを紡ぎ合えたら――。
大切なあなたを、これからもずっと、手の届く距離に置いておきたい。
そう、一目見た瞬間から、オレはどうしようもなくヒナタ様を愛していたんだ。