2016.05.03更新
任務を終えて里に着く。
自分の「居場所」に帰ってきたのだと、そう思えるようになってから、ずいぶん時が経った。
今からちょうど二年前、宗家のヒナタと共に二度目の中忍選抜試験を受け、同時に合格した。それから、日向一族内では明らかに下位であるネジは、すぐに上忍へと昇格した。
大らかなヒナタは、まるで気に病む様子もなく、悔しがるどころか泣いて喜んでくれた。身分や肩書きに囚われず、「自分にとって大切なもの」を守り抜くと決めるまで、相当な時間を要してきたネジにとって、自然とそれが出来るヒナタは羨ましくもあり、眩しくもあった。
……宗家も分家も関係ない。一族の者が立派に伸び育ってゆくことは、里のためだけでなく、この世界の安穏を保つためを思えば、殊の外、喜ばしいことなのだ。
――たとえばもし逆の立場だったら、ヒナタの昇格を素直に喜べただろうか?
闘争心をむき出しにして張り合おうとする姿が、自分でも容易に想像できてしまう。現に同じ日向分家のコウが同時に上忍へと推薦された際は、オレの方がずっと実力は上なのに、なぜ一緒にされるのかと、内心は穏やかでない自分がいた。
嫉妬などという薄汚れた感情に支配されるのは、今以て未熟であることの証し。血族者の栄誉でさえ祝福できないどころか、いつだって己が一番でなければ気が済まない間は、自分より数段劣るヒナタにも大敗したままなのだろう。
しかし、慈しみ深く柔らかなヒナタの笑顔を見ていたら、過ちを犯した自分も、拗れた心も、すべてが洗い流され、浄化されてゆくような気がする。
やさしいヒナタを散々傷つけて苦しめてきたというのに、それでもなお傍に居ていいのだと、赦してもらえているような気がする――。
――自分の居場所はここ、ヒナタの居るこの場所なのだと、そう思えるのだ。
またあの笑顔に逢える、そんな柄にもないことを考えながら、里の外での任務から帰路についた。
無意識に探してしまう。あたたかくて、柔和なチャクラ。遠くからでもかまわない。早く触れて、確かめたい。
商店の立ち並ぶ街の中心部を越え、道を一本逸れた外れから、染み付いた感覚がよみがえる。
春を迎えた木の葉の里には、儚いほどに麗らかな陽射しが降り注いでいた。
少し先にヒナタがいる――。その気配をほんのわずかに感じただけで、生死を揺るがすほどの緊迫に満ちた任務での疲れが、瞬く間に癒えてゆく。
早く会いたい、この目に捕らえて、そうしたら笑いかけてほしい。それだけでいい。他には何も要らないから……。
祈るような想いで先を急ぐ。互いに忍として忙しい身だ。この機会を逃したら、長らく姿を見られなくなってしまうかもしれない。ヒナタが居るであろう建物にどんどん歩を進めてゆけば、
(……やまなか花店。いったい何の用だ?)
カーネーションにスイートピー、ブルースターにヒヤシンス。淡い色彩が綾なすバケツの向こう側に、見慣れた紺藍の髪が揺れていた。
(ヒナタ様……)
花々の隙間からそっと様子をうかがう。一つ年下であるヒナタと同期のいのが、黄色と橙の、大輪の花を器用に散らして、薄手の和紙で包みリボンを掛けていた。
ヒナタは店内のバケツに零れ咲く薔薇の花に夢中で、ネジの視線になど一切気づかぬようだ。
真っ白な肌、紫がかった紺色の髪、黄みや青み、濃淡様々なピンク色の八重の花に囲まれる様は、それ自体が花束のように美しく、またしても心を攫われてゆく。……が、頬を桜色に染めるヒナタを見ていたら、馬鹿げた不安が神速に頭をもたげた。
(……黄色い、花? 誰に宛ててだ。まさか……)
途端に広がる、下らぬ想像に振り回されて、その場に俯き立ち尽くす。ぐるぐると考えを巡らせていたら、しばらくして、華やかにアレンジされたガーベラやダリアの花束を手にしたヒナタが店から出てきてしまった。そして、その斜め後ろにはいのもいる。……仕方がないので会釈した。
「あ! ネジ兄さんだ」
「ネジさんこんにちは。もしかしてヒナタのお迎えですか?」
「い、いや……たまたま通りかかっただけだ」
素っ気なく答えると、いのは悪戯な笑みを見せてヒナタを一瞥し、されどヒナタは気づかず、ネジに向かってふわりと微笑みかけてくれた。……思わず頬が弛む。つられて不器用に笑った。
すると一層明るく色づいた柔らかな笑顔に、胸が締め付けられた。
「任務帰りですか? よかったら一緒に帰りませんか?」
偶然通りかかったという嘘を何の疑いもしないヒナタに、ほんの少し、後ろめたさを覚えた。おそらくいのは勘づいていることだろう。ネジがヒナタの気配を追って、ここへ来たこと。
その証拠に、ずっとからかったような視線を投げかけてくる。腹が立たないわけではないが、事実だから仕方あるまい。
何でもないふりをして、ヒナタの言葉に答えた。
「オレでよければ送っていきますよ」
「ありがとうございます」
「ヒナタありがとー。ネジさんも誰かにお花を贈りたくなったら是非いらしてくださいね。相談に乗りますよ」
大きく手を振り見送るいのを背に、一歩一歩を惜しむように、あたたかな風の吹く宗家までの道を進む。隣にいるヒナタを見下ろせば、黄色い花に顔を埋め、ひどく幸せそうに笑っていた。そのまま心を奪われていたら、ネジの視線に気づいたヒナタが、緩やかに見上げてきて言った。
「ネジ兄さんも欲しいの?」
……思いもよらない言葉に、些か拍子抜けした。
そんなわけがない。ヒナタの発想はいつだって不思議でかわいい。ネジは、疑問に感じていたことを素直に問うた。
「いやそういうわけではない。……ところでその花を誰に?」
「ハナビです。黄色い大輪の花を見ていたら、あの子に似合いそうだなって……。それでつい」
ほわんとした笑顔と共に返された言承けに、瞬時に安堵する。ネジが思い浮かべていた相手が花をもらって喜ぶとは到底思えない。我ながら馬鹿げていると、情けなくて自嘲した。ヒナタはなぜか勘違いをして、一段と華やかに笑いかけてくれた。
黄色いガーベラと、大きく花開いた橙のダリアはヒナタには似つかわしくない。可憐な彼女にはきっと、儚げな桜色の、淡いスイートピーがしっくりくるに違いない。だからといって唐突にそんなものを贈る勇気など微塵もないけれど――。
……ありもしない空想に耽っていたら、ヒナタが再び口を開いた。
「ネジ兄さん、あの、今夜はご自宅にいらっしゃいますか?」
その質問の意図はまるで知り得なかったが、ネジは無言で首を縦に振った。そのままヒナタを宗家へ送り届けると、幾度となく見せてくれた笑顔を反芻しながら、穏やかな心緒で帰路についた。涼やかに澄んだ声で掛けてくれた言葉も、そのすべてが宝物のように思えて、嬉しかった。
仏頂面を自負している自分が、ひとりで含み笑いを浮かべている様は、滑稽でもあった。が、思い出すだけで幸福に包まれて、こみ上げる笑いを抑えきることが出来なかった。やはりここが自分の「居場所」なのだと、誇らしくさえあった。
――今回の任務は長かったのですね……。兄さんのことだから無事だと信じていましたが、少し心配しました。
――しばらくは里にいらっしゃいますか? ひとりで修行するのは寂しくて……。あ! ひとりでなければ相手は誰でもいいという意味ではありませんよ。ネジ兄さんと一緒にいるのが当たり前になってしまって、ひとりだとなんだか落ち着かないの。
――怒らないでくださいね? 私はあなたがいないとだめになってしまうみたいです。
自分を兄のように慕ってくれているヒナタのことだ。おそらく他意はないのだろう。ところがネジにとって、ヒナタの一言一言がどんなに力を持つのか、彼女には絶対に分かるはずもない。それでもいい、決して自分のものには出来ずとも、誰よりも傍に居られるこの立場を手放すつもりは毛頭ない。
帰って湯浴みをし、黒の普段着に着替えて鍛錬する。時刻は、補時をまわったところだ。太陽が西へと傾きはじめるのはずいぶん先のこと。春真っ盛りの木の葉の里はすっかり日が長くなっているけれど、ヒナタの言う「今夜」とはいったい何時を指すのだろう。だいたい今夜来るのかどうかも分からない。別に約束したわけではない。
……しかし必要以上に気になって、任務の疲れも相まってか、集中できなくなってしまった。
仕方がないので一息つく。妙にそわそわする自分が、どこか可笑しかった。
縁側に腰かけて空を見上げる。静かに、ゆっくりと流れてゆく薄い雲はひどく穏やかで、波打つ心が、少しだけ落ち着いたような気がした。……じきに日入へと差し掛かる頃だろうか。まだ夜とは呼べない時間である。あと数時間どうやって過ごそうか? そもそも、ヒナタ様は今夜来るのか? あれはただの会話の繋ぎだったのだろうか?
頭の中が疑問符でいっぱいになってきたところ、玄関の方向から、馴染み深いチャクラを感じ取った。任務中に敵の気配を嗅ぎつけたかのような動きで、すぐさま姿勢を正し、散々待ちわびていた訪問者の出方を待つ。そのわずかな時間が永遠のようにも感じられる――。
ヒナタが来たら、事も無げな態度で出迎えなければならない。深呼吸をして息を整えた。
……少し控えめな音量で、木製の引き戸が三回ノックされた。
努めてゆっくり、落ち着いて玄関へと向かった。格子の間の磨りガラスに、紺藍と薄紫色の、見慣れた色味が見て取れる。間違いない、ヒナタが来てくれた。ネジは無表情を貼り付けると、靴を履いて土間に下り、至って冷静に戸を開けた。……すると。
白と紫の、いつもの忍装束を土で盛大に汚したヒナタが、困った笑みをたたえて立っていた。ネジの姿を捕らえると、忽ちにっこりとした笑顔に変わり、茶ばんだ服との対比は燦然たるほどだった。
「ヒナタ様、その姿は? いったい、どうされたのですか?」
ネジの問いかけを承けて、ヒナタは余計に眉を下げると、おもむろにポケットに手を入れて、何かを取り出した。出てきた小さな手はきつく握られたままだったので、その中身を窺い知ることは出来なかった。
「手を出してください……」
そうやってヒナタが言うので、そっと片手を差し出した。ネジの大きな手のひらに、ヒナタの小さなこぶしが重なった少し後、尚のこと小さな、ともすれば簡単に飛ばされてしまいそうな、儚げな、四葉の緑が顔を出した。
予想外のことに、呆気に取られて、失くさぬように、そっと握りしめていることしか出来ずにいると――。
……柔らかそうな唇から、ぽつりぽつりと、言葉が、零れ落ちた。
「……ネジ兄さんに贈る花を考えていて、真っ先に思い浮かんだの……。四葉の、クローバー。お花屋さんには売っていないし、私、昔から上手に探せなくて、でも自分で見つけたくて……。それに、さっきお会いしたとき、ネジ兄さんも欲しそうにしていたから……」
「……それでそんなことに? まあ、男のオレには花を愛でる趣味はないが、あなたにもらえるなら何でも嬉しいです」
「ごっ、ごめんなさい! 私ったら、なんて失礼なことを……」
「いえ、本当に嬉しいです。ありがとう。『幸福』ですね?」
「はい。……でも、それだけじゃないんです」
「……何ですか?」
ネジを見上げたまま、途端に黙りこくってしまったヒナタを、下手な笑顔で促した。
それから、深く俯いたヒナタが消え入りそうな声で呟く――。
「……今はまだ言えません。でも、きっといつか……私も、あなたの隣に堂々と並べるようになったら……」
「?」
ヒナタが、それ以上何を言おうとしているのかを知る術はなかったけれど……。
頬を桜色に染めてはにかむ姿を見ていたら、それだけで多分に満たされて、心が溢れ出しそうなほど、至極あたたかな幸せに包まれた。思わず、ヒナタの小さな頭を、空いた片方の手で撫でていた。
すると辺りに花びらを撒くような笑顔が零れて、いとおしさが抑えきれなくなって、片手に、四葉の緑を握りしめたまま、片手で細い髪をくしゃりと乱したまま、然許り莞爾として笑った。ネジの笑顔を見て、心底嬉しそうにしているヒナタが、いとしくて仕方なかった。
ヒナタが帰った後も、縁側に腰かけて、「幸福」のおくりものを、月にかかげてずっと見上げていた。
ヒナタがくれるのならば、どんなものだって嬉しい。それに――。
ヒナタになら、何だってあげられる。……命さえも惜しくはない。
――オレのものになってくれとは言わない。でも、せめてあなただけは幸せに生きて……。
互いに一介の忍として命を張って生きている。この世界にいつ果てがくるのかも分からない。だけど、どんなに絶望的な状況に陥っても、ヒナタにだけは笑っていてほしいと願う。
……今も昔も変わらず、ネジはそれ以外、何も望まない。
*
薄闇を照らすおぼろ月が、ここ、日向宗家の一室を、まるく柔らかな光で包み込む。
背中で折れた蝶々結びを、まるで気にも留めず、壁にもたれて四葉の緑を見上げた。
寄り添うように芽だっていた――さながら兄妹のようなクローバーの葉を、一つは、いとしい人の元へと贈り、もう一つは自分の手元に置いた。
そう、ヒナタにとっての「幸福」とはただ、
「いえ、本当に嬉しいです。ありがとう。『幸福』ですね?」
「はい。……でも、それだけじゃないんです」
「……何ですか?」
――私のものになって……。
大切なネジとの繋がりを、一層揺るぎないものにしたい。
まだ言えない。まだ、言えないけれど――。
いつかもっと強くなって、彼の隣に堂々と並べるようになったら……。
――私があなたを絶対に幸せにする。だから。
――ずっと傍に居てほしい。